その青年は、激しく降る雨をぼんやりと眺めていた。声をかけようと思ったのは、こんな雨の中一人きりで寂しそうだったからじゃない。ただ、後姿が弟にとてもよく似ていたからだ。
「そんなとこに座ってられるとさ、客の出入りに邪魔なんだけど」
青年は店先の階段に座って雨宿りをしていた。確かにさっきから客は出たり入ったりしていたが、客が通るたびに青年は脇に避けていたから邪魔にはなっていない。話しかけるきっかけというだけだ。
振り向いた青年は、驚くほど弟に似ていた。そっくりだ。思わず息を呑むと、彼は慌てて立ち上がり頭を下げてきた。
「すみません。急に降って来たものだから、雨宿りさせてもらっていました。小降りになってきたのでこれで失礼しますね。ありがとうございました」
と言ってそのまま駆け出そうとしたので今度はこっちが慌てて彼の服の裾を掴んだ。
「こらこらこら、どこが小降りだよ。バケツ引っくり返したようなドシャ降りだってのに」
とにかく中へ入れ、と返事も聞かずに引っ張り、濡れた荷物は脇に置かせて、カウンターに座らせた。腹は減ってるかと尋ねたら彼が口を開くより先にお腹がぐうと鳴ったので、うつむく彼にそこで待ってろと言い置いてカウンターに入る。食べられないものはあるかと聞けば「好き嫌いはありません」と優等生の答えが返って来たので、それならばと手早さを優先して、切ってあったピラフ用の野菜を温めたフライパンに放り込んだ。
「ほらよ。食え」
ピラフに作り置きのコンソメスープを出してやると、青年は少しためらったように視線を泳がせ、けれど結局スプーンを手に取った。食べ方が綺麗だな、と思った。そういえばさっき頭を下げたときも背筋の伸びた美しいお辞儀だった。ちゃんとしたしつけを受けたのだろう。着ているものは簡素ではあるが決してみすぼらしくはなく、形の整った良い品に見えた。普通か、それよりも上の家庭で育てられたのだろうに、何故大荷物で雨の夜、一人でぽつんとたたずんでいたのか。
「これも追加だ」
脇を通ったウエイターの持つトレイからサラダを一皿、ソーセージとポテトフライの皿をかすめとると青年の前に置く。
「大将、それ今むこうに持ってくとこだったんすけど」
「もう一度作れ。あ、ヒューズさーん、グレイシアさーん。ごめん、ワイン一本サービスすっから。エリシアは何がいいかな?」
「いちごのシャーベット!」
「了ー解!じゃ、ちょっと待ってな」
今のやりとりに青年がぽかんとしていたので「いいから食え」と促した。ピラフを食べ終わった青年がスプーンを下げるタイミングが一瞬遅かったので、食べたりなかったのだと見て追加したが、当たりだったようだ。青年はヒューズ一家に会釈をすると、渡したフォークで早速ソーセージを口に運んだ。
青年が再び食べ始めたのを確認し、冷凍庫からいちごのシャーベットとおまけでキウイのシャーベットを出して皿に盛り付け、ボトルを開けてテーブルへ運んだ。
「料理もうすぐ持ってくるから。さっきはごめんな」
別に構わねえよ、と笑って許してくれたヒューズは、青年の方へ視線を向けた。
「で、あれは誰だ?」
と言われてもこっちも初対面なので知るはずがない。
「さあ?」
「さあ?ってお前……また拾い物っていうか拾い人か」
猫ならともかく人間拾うのはやめておけと何度も繰り返したことをヒューズはまた繰り返す。
「拾ってねえよ。つーか、単に家に帰る途中なだけかもしれないだろ」
「嘘つけ。ありゃ、わけありだ」
お前もわかってて中に入れたんだろうーが、と呆れたような少し咎めるようなヒューズの眼差しには苦笑するしかない。
「……へいへい、また拾っちゃいました。もー俺びっくり。だってアルそっくりなんだよ、あいつ」
アルコールを出すとはいえあまり騒ぐ客もいない店内では、この距離だと彼に聞こえるおそれがあるから、声を潜めた会話になる。聞き逃したらしいグレイシアが「え?なんて?」と首を傾げたのでもう一度言った。
「アルにそっくりなんだ」
「まあ!」
グレイシアは驚いた様子で、青年の後姿を見た。
弟のアルフォンスと最後に話したのはもう十年以上も前のことになる。あの頃、弟は14だった。住んでいた村に内戦の余波が及んで、その混乱の只中のことだった。しっかり握っていたつもりの手は簡単に離れて、そして弟の行方はわからなくなった。
それから数年、国内を旅したが、弟の消息はようとして知れなかった。ただ、どこかで生きているに違いない。生命を脅かすほどの危険に見舞われたら、きっとわかるはずだから。
貧乏旅行と銘打つのも滑稽なくらい、その日暮らしの旅を続けて行き着いたのがこの町だった。ちょうど雨の夜、あの青年みたいにこの店の階段に座っていたら店主が出てきて「邪魔だ」という言葉とともに中へ引き込まれた。以来この店で働いて、二年ほど前に先代店主が持病で倒れたので店を引き継いだ。先代は仕事をサボると殴る蹴る怒鳴るとナイフを投げるというエキセントリックな女性なので血を吐いたのを初めて見たときは驚いて呆然と立ち尽くしたものだ。
店は小さなダイニングバーで、昼は奥様方相手にランチを提供し、夕方からはいわゆる呑み屋になる。ただし先代がバカ騒ぎをする男が嫌いだったので、メインは酒よりも料理だった。おかげでヒューズ一家のような家族連れも多く、客層は呑み屋にしては穏やかだ。店はいまでも先代の方針を受け継いでいる。
店に居着いてだいぶ長いので、常連には生い立ちを知られていた。もちろん弟のことも含めて、だ。時折弟に関する情報の断片が舞い込むこともあり、そのたびに捜しに出かけていったが芳しい結果はいまだ得られていない。
「って言ってもさ、オレの記憶にあるアルがでかくなったらあんな感じってだけなんだけど……」
もしかしたらまったく別の成長を遂げているかもしれない。それでもなんとなく、弟が大きくなったらあの青年そっくりだという妙な確信がある。
しばし青年を見つめていたグレイシアは「そうね」と呟いた。
「世の中には自分とそっくりな人が三人はいると言うし、彼が弟さんとそっくりでも不思議ではないわ。それに、そういう勘は大事にしていいと思うの」
「ありがとう、グレイシアさん」
確信はもう一つあった。彼は決して弟ではないということ。離れている間に事故で記憶を失って別人として生きてきた、なんていうことは絶対に無い。
会えばきっとわかる。彼は違う。
細い背中は少しだけ丸まっている。
見つめた先のグラスが空っぽだった。水を注いでやろうと立ち上がりかけたところで、ヒューズに引き止められた。
「まあお前さんもこの店任されて長いんだし、俺がどうこう言う筋合いでもないんだが……」
声をひそめて言う。
「あんまり面倒ごと背負い込むなよ」
冷たいのではない。ヒューズは優しいのだ。だからこうやって心配してくれる。
その科白はそのままヒューズに返してやりたいところだ。
うん、とはっきり答えず曖昧に笑うと、ヒューズは「ったく、聞く気ないんだから……困ったもんだよ、お前さんも」と諦めたように肩を竦めた。
そこにちょうどウエイターが料理を運んで来たので入れ替わりに席を離れた。青年の前に並べた皿は全て空っぽになっていた。

店じまいをし、ウエイター兼料理人のハボックが帰ると、残ったのは二人だけだった。なんやかやと話しかけて青年を閉店まで引き止めた。
青年は、家出をしてきたのだという。
聞けば実家は結構な家柄らしい。当然跡を継ぐものと期待されていたものの、青年が目指したいのは名家の当主ではなく――
「航空工学?」
「はい。両親には反対されたんですけど、こっそり大学の入学試験を受けに来たんです。それで試験終わった後に……」
青年が口ごもったのでひょっとしたらと思って「財布落としたとか?」と聞けば青年はうつむいた。
「そりゃ、災難だったな」
「……お恥ずかしい限りです。それでここのお支払いも出来ないんですが、皿洗いとか掃除とかなんでもするので、それでお支払いに代えさせていただくわけにはいきませんか?」
図々しくてすみませんと謝る彼を慌てて遮った。
「んなつもりじゃねえよ。家出したガキから金取る気は無いって。それより、警察には届け出たのか?」
「はい。でも期待しないほうがいいと言われました」
「まあ、そうだろうな。運がよけりゃ数枚抜かれただけで返ってくるだろ。もっと運が良きゃ丸々無事で返ってくるかもしれないけどな。明日の朝、電話して聞いてやるよ」
「いえ、そこまでしていただくわけにはいきません。直接行って来ます」
「そこまでってほどの手間じゃない。さっき眼鏡に無精ひげ生やしたおっさんいたろ?綺麗な奥さんと可愛いお嬢ちゃんと一緒にいた。あれ、ああ見えても警官なんだ」
「か、重ね重ね申し訳ありません……」
料理を譲ってもらう形になったことを律儀にも思い返しているようだ。第一印象からしてとてもわがままで家出をしてきたようには見えなかったが、やはりその印象は間違ってはいなかったらしい。
礼儀正しくて、謙虚な気持ちも忘れず、それでいて少々空腹には素直な青年。
こんな青年を育てたくらいなのだから、両親も彼の説得に全く応じないわけでもなかったんじゃないだろうか。
「飛行機、好きか?」
「はい!」
間髪入れずに勢いよく答えた青年は、荷物をがさごそ探ると、箱をひとつ取り出した。
「いつも持ち歩いてます」
手のひらに収まるくらいの、小さな模型だった。驚くほど精巧だ。
以前顔を出していた研究室にあったものとよく似ている。
すごいな、と賞賛すると青年は目をいきいきと輝かせた。
「叔父からもらった物なんです。小さい頃から紙飛行機飛ばしたり、模型作ったりして一緒に遊んでもらって、工学の基礎も叔父から教わりました。でも両親と叔父はあまり仲が良くなくて……両親には航空工学を学びたいといったら怒られました」
話しているうちに輝いた目は褪せていき、肩がしょんぼりと下がる。
反対された理由が身内の不仲に原因があるというのは不幸なことだ。大人は得てして、こどもには関係の無い理由でこどもに制限を加える。
大人には大人の事情があるのはわかる。
けれど、オレは――。
ヒューズの言葉がちらりと頭に浮かんだが、もう言うべきことは決まっていた。
「ここに……いてもいいぞ」
え?と青年が目を丸くした。
「行くとこ無いんだろ?オレもまあ似たような経緯でここに置いてもらったからさ。親近感わいたっつーか、因果は巡るっつーか。店の二階なんだけどさ、一人暮らしだから一部屋空いてるし、そこ使えばいい」
「でも……」
「入試の結果次第だ。不合格だったら荷物まとめて帰れ。見込み無かったってことだからな。でも合格だったら、それはお前が自分の手で掴んだ道だ。ここから大学へ通えばいい」
「でも……」
「……お前、『でも』ばっかりだな」
また「でも」と言いかけて口をつぐんだ青年の頭をくしゃくしゃと撫でてやる。
「学費は給料出すからここで働いて稼げ。あそこの大学、奨学金あるからそれを受ければいい」
「あの、まだ受かってないし奨学金だって受けられるかどうか」
「ま、仮定の話だけどな。悪くないだろ?」
にやりと笑ってみせると、青年もぎこちなく頷いた。
「じゃ、今日から見習いな。よろしく、……えーと、名前まだ聞いてなかったよな?オレはエドワード。エドワード・エルリックだ」
「僕はアルフォンス・ハイデリヒといいます。……すみません、本当に。よろしくお願いします」
あろうことか、名前まで同じだった。目の前で深々と下げた頭が元の位置に戻ってしばらくするまで、ぽかんと口をバカみたいに開けたまま固まってしまった。
これはとんだ人間を拾ったものだ。
他人のドッペルゲンガーに合っても死んだりしないよな?と自分に問いかける辺り、相当に動揺している。弟の髪はもう少し濃くて、彼の髪は色味が薄い。弟の目は金色だけれど、彼は青だ。よく見ると違うところはあるのに。それでも想像の中の弟と瓜二つ。
「……エドワードさん?」
訝しげなアルフォンスに「なんでもない」と首を振ってごまかす。そうだ、一つ約束してもらわないと。
「これだけは一つ、約束してくれ。いつ出て行っても構わないが……いや、出てけっつってんじゃねえぞ。とりあえず発表の日まではいていい。ただ、出てくときは必ず言ってくれ。黙って出て行かないこと。な?約束な?」
弟そっくりで、弟と同じ名前の青年は「わかりました」と嬉しそうに、穏やかに微笑んだ。

(06.01)

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