「エドワードさんっ、ちょっと待って……!」
腹立ちまぎれにずんずんと歩いた結果、ずいぶんと早足になってしまったらしい。いつの間にか青年を追い越して十メートルほど先を行ったところで声をかけられた。
「色々聞きたいことがあるんですけど、とりあえず正門はあっちですよ」
正門とはまるっきり反対方向へと続く道の途中、振り返って青年に目指す建物を指差して見せる。
「言ったろ、ついでに学食で食ってこうって」
もともと当初の予定にあったことだし、ましてや不愉快な思いをしたのだから食べていかない手はない。
「あの……」
「いいからいいから。正直、他はたいしたことないんだけどビーフシチューだけはすんげーうまいの」
立ち止まる青年の腕を引いて学生用に開かれている食堂に入った。
昼食の時間帯からはずれているために人はそう多くない。席を先に取る必要もないので真っ先にカウンターに向かった。質問には後で答えると告げたせいか、青年もおとなしくあとをついてくる。
まずはトレイを持ち、カウンターに沿って滑らせていくと内から親しげに話しかけてくる中年の女性があった。
「おやまあ、しばらく見ない顔だよ。久しぶりだね、エド」
「ご無沙汰。急にここのビーフシチュー食いたくなってさ」
「はいはい。ホントに好きだねえ。そっちの子は何にする?」
青年が口を開くより先に、勝手に青年の分もオーダーする。
「こっちも同じの頼むよ」
「了解。ちょっと待ってて」
顔見知りの女性はすでに煮込んであった牛肉を深皿に盛り、大きな鍋をかき混ぜて野菜の入ったシチューを肉の上からかけた。その間にも会話は途切れない。
「そっちの子、名前はなんていうんだい?」
「アルフォンス・ハイデリヒです。来月からここに入学します」
「それはおめでとう。この学食もご贔屓にね、アル」
女性はそう言いながらも手を止めずに、皿を近くにあるオーブンに入れた。空いた手で今度はバゲットを別の皿に並べる。
「にしても、エド。しばらく来なかったのはどういうわけだい。しかもマスタング先生に入店禁止令出したっていうじゃないか。喧嘩でもしたのかい?」
「アイツ、おばちゃんにまでそんなこと言ってんのか……」
「可哀想に、ずいぶん落ち込んでいたよ。あんたならあの先生とうまいこといくと思ってたんだけど――」
「おばちゃん、ストップ」
ちょうど近くのテーブルには誰もいないから良いものの、少々喋りすぎだ。
やわらかく咎めるような視線を送ると、女性は肩をすくめて「すまなかったね」と言った。
「年を取るとどうも口がつるっとね」
「まだそんな年じゃないだろーが。男子学生相手の腕相撲に軽々勝つ人間を年寄りだなんて認めねーぞ、オレは」
「はいはい、どうせあたしは怪力ですよ。……大丈夫、誰彼かまわずしゃべり歩いてるわけじゃないからね。ほら、ご希望のシチューだよ」
「ありがと。……ちゃんと信用してっから」
熱いから気をつけてと忠告をもらって、鍋つかみごと受け取る。青年も同じようにして受け取って、カウンターの並びの端で会計を済ませると、周りに誰もいない場所を探してそこに席を取った。
向かい合わせに腰を下ろすと、早速スプーンを手に取る。
「いただきます」
いい匂いにつられたのか、青年も質問より先に食事だと考えたらしく、話すよりも食べるために口を開いた。
湯気が立っているのでふうふうと吹いて冷ましてから口に入れる。
「っ……、おいしいですね」
まだ熱かったのか慌てて水を飲みながらも、青年はすぐに二口目に取り掛かる。
「だろ?この味がどうしても出せなくてさー、ハボック連れてきて食べさせてみてもわかんなくって。おばちゃんに聞いても、まあ当たり前だけど教えてくんねえし。結局、この味楽しむためにはここに食べにくる必要があるってわけ」
それもあの男がいるのでここ最近は来られなくなってしまったわけだが。
時間をずらせばいいだけの話ではあるものの、あの男を避けるために時間を調整するという行為自体が腹立たしい。
けれど、青年のためならば案内などいくらでもしたかったし、男に会う確率が最も高い研究室棟に行くことすらいとわない気持ちだったのだ。あまり出来なかった弟孝行をやりたがっているのかもしれない。青年が弟に似ているからではない。最大の理由は、青年が年下であるからだ。
バゲットにバターを塗りつけ、シチューをすくって食べる。青年も同じようにすくって食べる。
「おいしい」
何度もそう言って皿の中身を減らしていく青年の表情には、覚めやらない疑念が浮かんでいた。
そろそろ食べ終わる段になって、問いかけにくいだろうという青年の心情を勝手に慮って口を開いた。
「うすうす気づいてんじゃないかと思うけど、オレ、アイツとつきあってたの」
青年が水を噴いた。
「っ、大丈夫か?」
テーブルの端に置いてある紙ナプキンをつかむと数枚を青年に渡し、残りでテーブルを拭いた。
反応を見るに、ちゃんとおつきあいの意味は伝わったようだ。
「あ、はい、だいじょう――」
ぶ、の時点で水が気管に入ったのか青年は大きく咳き込んだ。げほげほと苦しそうにする青年にどうにかして水を飲ませ、落ち着かせる。
「驚かしちゃったよな。咳、止まったか?」
先ほどで学習したのか、青年は下手に返事をせずに首を縦に振るに留めた。
「この辺だとそう珍しくもないっていうか、田舎ほど偏見もないから軽く言っちゃったけど、そういうの嫌だったり苦手だったりしたらごめんな」
嫌だったり苦手だったりしたら、ごめんどころでは済まないだろう。実際、同性をセックスの対象として見る男と一週間共に暮らしたのだ。殴られても罵られても文句は言えない。
でもまあ多分、予感はした。青年はそんなことはしないと。
根拠はないが、青年が否定しないとわかっていたのかもしれない。
「いえ……あの、ちょっとびっくりはしましたけど、嫌だとかそういうことはわかりません。びっくりしましたが、嫌じゃないのかな……ほんとにびっくりしましたけど、さっきの教授とのやり取りが腑に落ちたというか……むしろ意味がわかって、別の意味でショックだったというか……教授は職場でそういうことを為さる方なんですね」
びっくりしたと何度も繰り返す辺りは相当動揺しているようだ。
「そういうことを為さる方なんだよ、幻滅してもいいぞ」
「いや、それもまたちょっと……」
まだ混乱から抜け出せないでいるにもかかわらず、マスタング教授の株は暴落していないらしい。芸ならぬ、学問における優秀さは身を助く、といったところか。
「エドワードさんのことは、皆さんご存知……というわけでもないみたいですね」
「まあ、偏見無いっつっても向こうは大学教授だし、別に積極的にオープンにすることでもないから知ってる人は少ないよ。構内ではさっきのおばちゃんと、あとは教授連の一部だな」
「一部って……」
「あいつの研究室の周りな。近所だとやっぱそういうことって伝わるもんだよ。ん?口の端にパンくずついてる」
手を伸ばして取ってやろうとしたら、彼は思わずといった感じで身を引いた。次の瞬間、慌ててそうじゃないんだと首を振る。その慌てぶりが胸の小さな痛みを覚えるより先に微笑ましかった。
「気にすんな。あーもーそんな顔すんなって、泣かせたくなんだろ。オレ、泣かせられたほうだけどさって……墓穴掘ってるか、オレ」
申し訳ないという思いでいっぱいといった風の青年を残し、食後のお茶を取りに行く。
先ほどの女性が「アルフォンスとお食べ」と渡してくれた小さな袋もトレイに乗せて戻ると、青年はどうにか元の顔を取り繕っていた。気を遣わせて逆に申し訳ないと思う。
とりあえずお茶と袋に入ったクッキーを勧めた。
「黙っておくのはちょっとどうかなって勝手に思ったのと、あとはマスタングはそういうやつだって知っておいたほうが身の安全のためかなって考えたんだ」
「身の安全って……」
「あいつの好みが金髪だから。女好きだし、男はオレだけだって言ってたけど本当かわかったもんじゃねえし。無理強いはしない奴だから大丈夫だとは思うけどな。そういうとこはしっかりしてるから」
「ちょっ、エドワードさん待ってください、話が進み過ぎててよくわかんな――」
「ああ、悪ぃ。ごめんごめん。出来ればあんまり気にしないでくれ」
本音を言えば、マスタングに愛想をつかして別の教授に師事してくれればいいのだが、どうもこの様子からするとそれは望めそうもない。
青年にとってはとんでもないだろうことを明かしておいて気にするなもへったくれもないもんだとは思うが、青年の疑問に答えたといえばそれまででもある。
カップを空にし、残りのクッキーを袋に包みなおしてポケットに入れると、もう食堂にいる理由もなくなった。
「そろそろ帰るか」

食堂から出ると真っ直ぐに正門を通って、表からは一本はずれた近道に入った。車一台がようやく通れるかどうかという狭い道だ。二人並んで歩くだけの幅としては充分なので、食後で膨れた腹ごなしがてら、ゆっくりと並んで歩く――つもりが、いつのまにか一人になっている。
「あ、あの、エドワードさん……」
振り返ると青年は立ち止まってこっちを見ていた。何だよと促しても黙っている。しばらくそうして、道端で向かい合って立っていた。人通りの少ない道で、さらにその一画に誰もいなくなってから、ようやく青年は言った。
「手をつないで歩きませんか?」
「ああ?……手?」
青年が手を差し出している。左の手のひらを上に向けて。
はたと思い当たった。食堂で、パンくずを取ろうと伸ばした手を拒んだのを気にしているのだろう。別に傷ついたわけではないし、そもそも青年に責任があることではない。それなのに。
まったく律儀な性格をしている。
「あのな、アルフォンス。さっきのこと気にしてんなら――」
「違います。つなぎたいんです、手」
けれど青年は譲らない。かたくなに手を差し出したまま、じっとしている。ためしに数歩後ろにさがって青年から遠ざかってみたが、青年はその場に立ったままだった。
もう、手をつなぐまで頑として動かないようだ。
「……わかった。あの通りに出るまでな」
仕方がないので数歩の距離を詰めて青年の左手を取った。軽く指先だけ持つつもりが、青年にしっかりと捉えられた。指を絡ませていないだけましというぐらいに、しっかりと。少し手は汗ばんでいる。
「帰りましょうか。家までこのまま」
え?家まで?って話が違うだろ!と見上げてにらみつければ、いやに真剣な顔があった。
結局、青年はずっと手を離してくれず、家に着くまで気まずい思いをしながら歩く羽目になった。

(06.20)

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