「カンパーイ!」
 めいめいがまず、中央で恥ずかしそうに立っている青年に向けてグラスを掲げ、近くの人とカチンと合わせて飲み干す。おめでとう、おめでとうと、身内や青年とすっかり顔なじみになった常連客から口々に贈られる祝福に、律儀にも青年はありがとう、ありがとうと頭を下げる。
 テーブルには所狭しと並べられた料理に酒。気の置けない人間ばかりだから、今日はすべてセルフサービスだ。店の者は酒を注がない。呑みたい者が自分で注ぐ。
 囲まれて申し訳なさそうにしながらも嬉しそうな青年を眺めながら、アルコールを抑えたカクテルを作り、喧騒から少し離れた席に座る女性の前に置いた。彼女の旦那の前にはビールのジョッキを出す。
「なんだ、私にはお子様用か」
「アルコールは止められているでしょう、師匠。……少しだけ入れましたけど」
 旦那のジョッキをうらやましそうに見る彼女は、それでもカクテルを一口飲んで満足そうに頷く。
「よさそうな奴じゃないか」
 店の経営はすべて任されているとはいえ、オーナーは彼女だ。ここで駄目出しされると少々辛いと思っていたので、ほっとした。
 ただ、次の言葉は予想外だった。
「お前もようやく誠実なタイプを選ぶようになったか。まさか年下に行くとは思わなかったがな」
「ぶっ」
 思わずビールを噴出し、おまけにちょっぴり師匠にかけてしまったなんて気にしている場合ではない。
「せ、せせんせい、アルフォンスはですね、そういうんじゃなくて!」
「落ち着け。冗談だ」
 くすくすと笑うイズミの顔色は、明るさをおさえた店内でも良いように見える。隣で静かに呑んでいるシグの様子を見れば、最近のイズミの加減は安定しているのだろう。
「聞いたぞ。弟に似ているそうだな」
「相変わらずストレートですね。まあ、似てるといってもオレの想像する大きくなったアルにですが。だから実際のアルがああだとは限らない」
「確かにな。ウィンリィちゃんは名前という共通点以外は何も感じなかったみたいだから」
 幼い頃のアルフォンスを知っているウィンリィが特にぴんと来なかったというのなら、やはり自分の単なる想像に過ぎないのだろう。想像というより願望か。
「アルフォンスってのもそんな珍しい名前じゃないですしね」
「ある種のめぐり合わせかもしれん」
「師匠。ある種、とは?」
「さあ。自分で考えろ。せっかく出来のいい頭を持って生まれてきたんだ、少しくらい使ってみなければ錆びるぞ」
 何もかもが直球の癖して、ごくごくたまにイズミはこんな風に曖昧なことを言う。
「頭なんてよくありませんよ。アルフォンスは相当いいですが」
 周りを取り囲まれて酒を注がれている青年は、かき回されたせいか髪がもうくしゃくしゃだ。
「よりによってあのマスタングの研究室を志望しているらしいな。お前のつきあう相手をどうこう言いたくはないが、あの男だけは別れて正解だった。お前の趣味に口を出すつもりもないが、あれだけはどうにも理解出来ん。あれのどこがよかったんだ?」
 ウィンリィに一体何を聞かされたのか、そしてその情報網のどこで何をつかんだのか知らないが、そこまで言われると一応恋人だった時期がある身としてはマスタングが可哀想と思えなくもない。
 が、いざ理由を聞かれてみると、即答出来なかった。
 多分、顔じゃない。特に面食いというわけでもないし、そもそもマスタングをそれほどかっこいいとは思わない。
「……性格?」
「……性格?などと可愛らしく小首傾げられてもな」
 おそらく性格が原因でつきあい、確実に性格が原因で別れた。
「……アホらし」
「どうした?」
 いえ、なんでもないです。と答えながらため息をついた。一時は本当に好きだった。他には何も見えないくらい、とまで盲目的になることはなかったけれど、多分一生そんな気持ちになることはないだろうけれど、本当に好きだったのだ。
 しかしもう一度好きになることは絶対にない。
「それにしてもどうして言ってくれなかったんですか、オレが……えーと……」
「お前の交友関係のことか」
「ええ、まあそんなところです……」
 気まずさを紛らわすためにちびちびと杏子酒などを舐めてみたがこれは自分の口にはさすがに甘すぎた。
 あとでウィンリィに勧めてみるか。
 いや、もとはといえばそのウィンリィが……。
とかなんとか考えていると、師匠は「人それぞれだからな」と呟いた。
「いまだから言うが、ここに来た頃のお前は私の目から見ても酷く不安定だった。少し目を離すとあっちへふらふらこっちへふらふら。お前の目的を考えれば無理はないが、それでも不安になったよ。昼間明るい顔をして出て行ったと思ったら、帰りは一度自殺でもしてきたんじゃないかってくらい死人の顔をして戻ってくるんだ。そのうちこいつは帰ってこないでその辺で野垂れ死んじまうんじゃないかとな、そう思ったよ」
 そんなことがあったっけか、と考え込んでしまうくらい、あの頃の自分はもう遠い昔のことに思える。イズミに拾われたのは、ちょうど、アルフォンスがいつまでも見つからず、自分の居場所も見つけられなくて何もかもを投げ出したくなっていた頃だ。
 イズミがあのとき声をかけてくれて、仕事と住処をくれて、シグが生活の様々なことを教えてくれて、そして引き止めてくれたことに感謝している。この人たちに出会わなければきっと、ここでこうして色々な人に会うことは出来なかった。
 もちろん、あの青年にも。
「だから、人に興味を持つのはいいことだと考えた。危ないところに出入りするなら止めようかとも思ったが、足を踏み入れていいところと悪いところをお前は不思議と嗅ぎ分けた。危険を察知する能力があるんだろう。……正直に言えば、自分を取り戻してからもまだ遊び歩いていた気持ちは私には理解出来ないが、根が真面目なお前のことだ、女性を孕まして面倒を見ずに突き放すなんてことはしないに違いないからな。それならばもういい大人だ、口うるさく言うのもどうかと思ったんだ」
「数ヶ月毎に相手が代わることを、師匠は不誠実だとは思わないんですか?」
 イズミはそのすっぱりさっぱりとした言動からは想像もつかない、とても柔らかな声で、ふふ、と笑った。その笑い方は記憶に残る母親のものとよく似ている。女の人の――母の笑い方だ。
「お前が相手に対して失礼なことをしたと思っていないなら、それは不誠実なことじゃないよ」
 それは、買いかぶり過ぎだ。
と、言い返そうとしたけれど言葉にならなかった。喉につまって、喉につまったのは目のところがきーんとしてじわじわと熱っぽくなったからで、じわじわと何かが来るのは嬉しかったせいだ。
「エドワード……?」
 「なんでもない」の代わりに首を振ると、大きな手が二つの瞳ごと額を覆った。視界が閉ざされる。不思議そうなイズミが、彼女の旦那に聞く声がする。
「アンタ、いきなりどうしたんだい」
「いや、エドの顔が赤いから熱でもあるのかと思ってな」
「風邪か?」
「きっと酔ったんだろう。杏子酒は甘くても酒分が強いからな」
「なんだ、エド。お前って子は情けないね」
 途中でイズミも気づいたのか、シグに調子を合わせる。なんて優しく、温かい人たちなのだろう。騒がしさの中、そのテーブルだけが静かだった。シグはしばらく大きな手をはずさないでいてくれたし、イズミは持ちっぱなしだった甘ったるい酒のグラスを受け取って置いてくれた。この店の持つ空気は、そのままこの夫婦が持っているものだ。それを自分は引き継いで、同じように保っていく。
 そしてあの青年に、この空気を少しでも分けてあげたいと、そう思った。

(10.04)

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