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 ヒューズをすごいなあと思うのはこういうときだ。
 彼はどうやってか数メートル離れた空間の不穏な空気を察し、その原因となっている男を手招いた。マスタングに憧れる青年が、マスタングの腕をがっしり掴んだので、ヒューズはすかさず席を立って青年ごと引っ張って自分の席へと連れて行った。夕食を食べ終えた細君と愛娘を家に送ってからまた戻ってきたので、さっきまで大勢と一緒になって馬鹿騒ぎをしていたはずだ。
 勘がいいっつーか、面倒見がいいっつーか。
 その辺りは見習いたい美点でもあるが、真似したとしても気苦労ばかり追いそうである。
 マスタングをヒューズのところへやったはいいが、針のむしろめいた視線にさらされ、あははとぎこちない笑顔でウィンリィと師匠から逃れると、主役をほっぽって盛り上がる輪の中に入った。青年が結局酔いつぶれてしまったのは、それからまもなくのことだった。


 ほんの少し前まで賑やかだった分、余計に静かに感じる。足の下で床が軋んだ。
 青年はよく眠っている。
 成り行きで青年を運ぶのをマスタングが手伝ってくれることになり、二人で階段を上ってベッドに寝かせた。途中、壁に数度、青年の手やら足やらがつっかえたりぶつけたりしてしまったが、痣になるほどではない。目を覚ましもしなかったから、たいして痛くもなかっただろう。
 青年に与えた部屋は、自分が使っているものとそう変わりは無い。違うとすれば、わずかに狭いことくらいだ。ベッドが一つ、机が一つ、師匠が住んでいたときの名残で小さな鏡台が一つ、タンスが一つ。ドアから入って向かいの壁に窓が一つ。ベッドは窓の下に置いてある。
 朝起きて整えたままだから、シーツにはほとんど皺も無い。ベッドメイクを教えたのも彼の叔父だろうか。
 一つだけある窓から月の光が差し込んで、室内は照明をつけなくてもつまずかない程度には明るい。マスタングがそっと青年をベッドに下ろし踵を返すのを、思わず呼び止めた。
 男が振り向く。どうした、と囁く声すら、部屋の中に響いた。
「今日、何で来た?」
「もちろん、歩いて。……ハハッ、そんなに睨むな。理由を聞いているのはわかっているよ」
「だったら最初から答えろよ」
「未練……かな」
「この店に?まあ、気に入ってくれるのは嬉しいけど」
 マスタングはきょとんと目を丸くした。
「……そうだね、この店に来られないのは寂しい」
「あのさ、ハボックが……あんたは人を盾にして言うことをきかせようとするタイプじゃないっつってた。正直、オレにはわからない。あんたの真意はどこにあるんだ?」
「私は信用されていないのかな。心外だね」
 幾分寂しそうに感じられたのは、灯りが月の光だけの、心もとない視界のせいだ。
「本当に私がそんな手段を取る人間だと思われていたのなら、それは誤解だ。……誤解を招く言動を取った私が悪いんだが、君をからかったつもりだったんだよ。すまなかった。謝るよ」
 謝るときは本当に真摯な態度だ。今も、今までも。浮気をしたときもそうだった。
 だからこそ性質が悪い。
 もう二度とこんなことはしない、繰り返さないのだと信じる気になってしまう。嘘だとわかっていても、だ。
「マスタング……その性格、少しは直したほうがいいぞ」
「ヒューズにも言われたよ、何度もね。だが、この年になるともうなかなか直せるものでもなくてね。年のせいか、我慢というものもきかない」
 何を、と問う暇もなかった。
 ベッド脇の壁に押し付けられた。すぐ目の前に男の顔が迫る。
「ん……ふ、っ……」
 薄く開いた口に、するりと舌が滑り込んで来る。
「……はあ、……あっ」
 駄目だ。やめてくれ。
 乱暴なやり方にもがいても、背後には壁。下へ逃れようとしても、マスタングが後頭部を巧みに押さえている。
 こちらの好きなやり方で、唇を器用にこじあけ、舌を絡ませ、息を継ぐタイミングを見透かし、からかうように翻弄していく。唾液が混じりあい、口の端から零れ落ちてもなお、マスタングは離してくれない。何度も何度も喰らいつかれて、感覚がしびれるまで咥内を犯される。
 ようやく解放されたときは、怒鳴る気力すら失っていた。
「何故、彼を受け入れた」
 こっちは必死に肺に空気を取り込んでいるというのに、マスタングは息をわずかに荒くしただけだ。
「……たまたま、だ。別に意味なんかない」
「本当かな」
「あ、っ……」
 思わず身体が震えた。耳を、噛まれた。熱い感触がして、噛んだ場所をマスタングの舌が舐めていくのがわかった。
「相変わらず、弱いんだな」
 笑う吐息が、敏感になった耳をくすぐる。押しのけようとする手から力が抜ける。
 マスタングは余裕の様子で、楽しそうに喉や指をゆるく噛む。その度に抵抗が弱まっていくのが自分でもわかった。情けない。
 でもしょうがないじゃないか。耳も喉も、鍛えることなんて出来ないんだから。
 ずるずるとへたりこみそうになったが、マスタングがそうはさせてくれない。腰に回る手に、足の間に入り込む逞しい身体に、がっしりと支えられる。
「アルフォンスがっ、……そこ、いるんだぞ……っ」
「よく眠っているようだ」
「……ふざけん――はぅ……んっ」
 足を割って入るマスタングの腿にゆるゆると刺激される。少しでも速度が増せば、みっともなく声を上げてしまいそうだ。
「答えないのなら、このまま続けるが」
「や……やめ、ろ……あっ……」
 答えるに答えられない。そもそも答えなんて無い。ただ、扉を開けたら彼がそこに座っていて、行くあてがなくて困っていただけ。少し弟に似ていたから。師匠にしてもらったことを彼にしてあげただけ。
 それだけだ。
「なん、でっ、……んで、そんなこと」
「さっきも言ったろう。未練がある、と」
「それは、店のこと、で――」
「本気でそう思っているのなら君はあまりにも鈍い。……わかっているよ、冗談で済ませたいんだろう?だが、生憎と私は冗談を言っているつもりはないんだ」
 いまさら何を言う。ちゃんと別れたじゃないか。もう、つきあえない、やっていけない、信用出来ない、と告げた。あんたは「そうか」と言ったじゃないか。
 何をいまさら。
「だ、だめ、っ……や、めろって!」
 マスタングの手慣れた動きをだんだん身体が思い出す。はっきりいってマスタングは巧かった。マスタングを好きだったから幸せだったし楽しかった。気持ちよかった。何度だってした。あの頃は気持ちに身体がどんどん引きずられた。思い出す。身体だけが。
「っ、は……離せっ、誰か来る――」
 咄嗟に目の前の体を突き飛ばした。正確には、突き飛ばそうとした。力が入らなかったから。実際には気配に気づいたマスタングの方から離れたのだ。悔しいし情けなかった。
 唾液で濡れた耳を拭う。マスタングを睨みつけた。てっきり笑っているかと思った。そうじゃなかった。

「大将ー、流しの下にあるボトル、開けていいかって――」
 階段の軋む大きな音がして後に、ハボックがのんびりと現れた。彼の大きな体にこの部屋の戸口は少し低い。
「大将? どうかした?」
 マスタングから逃れるように距離を空けている不自然な状況をハボックがいぶかしく思わないはずがない。しかし「なんでもない」と答えればハボックも追究はしてこない。
「流しの下のは駄目だ。冷蔵庫の隣にあるやつならいい」
「了解ー。あ、マスタングさん。ヒューズさんが呼んでましたよ」
「そうか。エドワード、私は先に戻るよ」
 とっとと行っちまえ!と言外に吐き捨てると、ベッドにそっと腰掛けた。
「ハボック……お前、わざとか?」
「俺の今のボスは大将なんで」
 二人がすれ違いざまにそう交わしたのは左の耳から右の耳へと抜けていく。ベッドで寝ている青年の寝息を確かめたかったのだ。ちゃんと眠っているか。今のやり取りを聞かれていないか。見事なまでに流されたみっともない姿を見られてないか。
 ハボックもマスタングの後を歩いて階下へと下りて行った。相変わらず喧騒は遠い。青年は、すーすーと規則的な寝息を立てている。顔立ち自体は割合と大人びているが、目を閉じるとやはり幼い。こどもみたいだな、と思った。もう少しすれば、顔のラインが鋭角を帯び、雰囲気もがっしりしたものになるだろう。いや、この青年の場合は、この優しげな面立ちのまま成長するだろうか。見ているうちに、ドクドクと激しく鼓動を打っていた心もおさまって行く。
 そういえば彼は両親のどちらに似たのか。考えて、はたと思いついた。
「そっか、母さんに似てるんだ」
 弟は母親に似た。髪はホーエンハイム譲りの金色だ。だから、母親に似て、髪の色は弟と似ているこの青年を、弟の未来予想図だと思うのも無理はなかった。気づいてみればなんと単純なことだろう。
「こいつの母親も、心配してるよな……」
 約束の一週間は過ぎた。青年は無事、合格した。国内でも名の通っている大学だ、合格してしまえば、彼の両親もそう簡単には連れ戻そうとしないだろう。電話は使っていないし、手紙を書いた様子もない。彼が連絡をしないといっても、させねばなるまい。怒るにせよ、泣くにせよ、心配してくれる人がいるのは幸せなことだ。
 自分の小さい頃も、遊んで帰るのが遅くなれば母に叱られたし、木登りをして落ちて骨を折ったときは看病をする母の目には涙が浮かんでいた。風邪を引いたときは時間の許す限り傍にいてくれた。時折、おでこやほっぺたを撫でる母の手は、熱のある身には冷たくて気持ちがよかった。
 こんな風に撫でてくれた、と思いながら青年に手を伸ばす。
 青年の頬は意外と柔らかく、触れる指に心地よかった。
 こんな風に撫でたっけ、とも思いながら弟の顔が青年に重なる。
「アル……お前、今どこにいるんだろうな」
 生死はわかるけれど、危険な目にあっていればきっとわかるけれど、どこかにいることもわかっているのだけれど、どこにいるかだけはわからない。
 夜の街を見下ろす月は、きっと弟のことも知っているだろう。どこかの家で、誰かと一緒に笑い合っているのか、怒っているのか、それとも一人で泣いているのか。
「オレの背、もう越してたりして」
 あまり歓迎できない想像だ。
 よく似た青年をベッドに残し、部屋を後にした。

(10.24)

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