少し席をはずしていただけなのに一階に戻れば大半がつぶれていた。約束の一本を幸せそうに傍らに置いたウィンリィがなぜか入り口の蝶番を直している。
「何やってんだ?」
「さっきね、開けたときに音がおかしかったから」
 聞けば明日の仕事のため数人が帰ったという。そして扉を開ける音が気になったのだそうだ。だいぶ静かになったとはいえ、音楽や話し声のする中、蝶番のきしむ音を普段と識別出来るとは脅威の聴力である。
 この耳の良さは彼女の機械鎧技師としての腕前に大きく貢献しているのかもしれない。この点ではウィンリィのことを尊敬しているといっても言いすぎではない。しかし、だ。
「お前なあ、酒瓶抱えてにやにやするのやめろよ」
「別ににやにやなんかしてないわ。それにあっちに置いとくと誰かに飲まれちゃうでしょ」
 二人で入り口の扉の前に座り込んでいたら、傍からみると密かに愛を育んでいるカップルにでも見えるのか、まだ意識を保っている常連たちが囃し立てる。
「おまえら、やっぱりつきあってんだろー?」
「エドにウィンリィちゃんはもったいねえやなあ」
 所詮酔っ払いのたわごとなのでウィンリィもいちいち訂正はしない。アルコールで頬を赤くして微笑む姿は、頬が赤い原因がビールおよそ二本分とワイン一本分のアルコールでさえなければ可愛いのにと思う。
 実際、ウィンリィは可愛い。二十歳を過ぎてからは綺麗という形容詞でもおかしくなくなった。全体的な外見は平均値よりおそらく上だ。おまけに気立てもよくて頭もまわる。情に深くてしっかり者。
 しかし常に携帯するスパナの恐怖がそれらの美点全てを上回るのだ。
 あのスパナに耐えられる男はこの先、彼女の前に現れるのだろうか。相当頑丈か、運動神経がよくないと無理そうだ。
 そもそもスパナを投げられるような事態にしなければいいだけの話だが。
「お前の恋人になるやつは大変だな……」
「何なのよ、いきなり」
「いや……乱暴者なのに見かけにだまされるやつがきっと――ふぎゃっ……」
「失礼ね!」
 超至近距離で迫った拳が頬に軽くめり込み、思わず蛙のつぶれたような声が出た。
「だいたい私の恋人は機械鎧だもの」
 言いながらウィンリィはすぐ近くにある自分の仕事の結果に目を向ける。
「ふ、服の上から撫でるのはやめてください、ウィンリィさん……」
 どうせなら殴られた頬のほうを撫でてほしいが、彼女はうっとりとしながら人の腿を撫でている。
「私の最高傑作……軽量化にも成功したし出来る限りコストダウンも図ったし、考えられる限りの範囲でシンプルな構造にしたわ。複雑なのも美しいけど、シンプルなものこそ普遍的な美しさがあるのよ」
 そんな風にすでに陶酔状態に入ったかと思われたウィンリィだが、ふと何かに気づいたみたいに手を止めた。
「どうした?」
 うっとりとしていたのが急に患者を診る医者のような手つきになったので、不可解に思って聞いてみればウィンリィは眉を顰めた。
「おかしいなー、なんだか少し熱を持ってる感じがする」
「そうか?別に走ったわけでもないのにな」
「やだもう。部品がおかしかったのかしら。ちゃんと確かめたのに」
 ほうっといたらこの場で脱がされそうな勢いだ。それはさすがに困るので、ウィンリィから少しずつ距離を取ろうとしたが、がっしりと腕を掴まれてそれもままならない。
「ここで診るのはやめてくれ、頼むから」
「いやあね。そんなことしないわよ」
「しそうだから言ってんだよ」
「これ直すのが先だもの」
 あとはネジを締めるだけの状態の蝶番を指して胸を張る。つまり終わったら脱がすと言っているんじゃないだろうか。こちらの心配をよそに彼女は手早くドライバーを回し、幾分真面目な口調になった。
「あのね、機械鎧って繊細なの。体の不調はダイレクトに響くわ。それと、心もね。精神的に不安定になると、神経が過敏になって接続部から機械鎧にも伝わる。普段と違う信号が伝わると機械鎧の動作も変わるんだよ。……ということで、さっき何があったの?」
 首を傾げたウィンリィは、空いた手で天井を指した。
 まさかマスタングによりを戻さないかと迫られた、だなんて言えるはずがない。機械鎧の熱の原因は、ひょっとしたら煽られて体温が上がったから、だなんてますます言えるわけがない。言ったらこの場は血の海だ。
 明日も無事に営業したいし、何か他のことでどうにかごまかそう、と考え、はたと思い出した。ウィンリィに聞こうとしていたことがあるのだ。
「さっき、アルフォンス見てて思ったんだ。母さんに似てるなって」
「おばさんに? ……んー、まあそうかもね。目元が似てるかな。優しそうな面立ちだしね」
 意外とあっさり納得したウィンリィは、扉を開け閉めして具合を確かめた。
「これでOK」
「ありがとうな」
「いえいえ、どういたしまして。それで? だからアルと似てるって思ったわけ?」
 何があったのかと聞かれてしばらく沈黙していたせいか、ウィンリィは不調の原因がこのことだと思ったらしい。ありがたいことに、関心を示してくれる。
「アルって母さん似だったじゃん。目が丸くて」
「あんたはおじさん似よね」
「うるせ。似てねえよ」
 まーだ気にしてんの?とでも言いたそうなウィンリイから顔をそむける。
 母が亡くなるときまであちこちをふらふらしていて所在がつかめず、今もまた行方知れず。そんな人間をどうして父親と思えよう。ましてや、似ているだなんて冗談でも聞きたくない。遺伝子は母親からだけ受け継いだものと思いたいくらいだ。
 だいぶ時も経ったし、こっちもいい年になったので当初のような激しい怒りは無くなったが、許すなんてことが出来るはずもなく、いま目の前にあの男が立ったら即殴る用意は出来ている。
「エドはアルだけじゃなくておじさんのことも探してるんだと思ってたよ」
「そりゃ勘違いだ。オレが探してるのはアルだけ。だいたいなんでオレがあんなやつのこと探さなきゃなんねえんだよ。リゼンブールが焼けた後も帰ってこなかったようなやつ……」
 母親が亡くなった時点であの男との縁は切れたのだと思う。それでも当時向こうからなんらかのコンタクトがあれば関係も少しは続いたかもしれないが、全く何もなかった。
「私、ちっちゃい頃、エドとアルのことがうらやましかった。たとえどこにいるかわからなくても、あんたたちにはお父さんがいて、すぐそばにお母さんがいたんだもん」
 それには頭を下げるしかなかった。彼女は幼い頃に両親を亡くしている。けれど、ホーエンハイムを父親と思えないのは事実だった。そもそも彼は最初から父親なんかじゃなかったのだから。
 あの男との思い出など無きに等しい。
 ウィンリィにすまないと思う気持ちと、ホーエンハイムとの関係性を否定したい気持ちが心中で交錯する。
「謝る必要なんかないよ。あれからだいぶ経って、おじさんがあんたたちを置いてふらふらどっか行ってとても父親だなんて呼べる状態じゃなかったのは私にもわかった。それにね、エドをずっと見てて、どこにいるかわからない人をずっと探すのも辛いことなんだってわかった。連絡を待つ身になるのも辛いんだってことも。だからあたしは」
「ウィンリィ……」
「エドがここに腰を落ち着けてくれてよかったって思ってる。ずっと心配だったもの、どこにいるかわからないっていうのは」
「……ああ」
「連絡もしてこないし」
「……ごめん」
「機械鎧が動かなくなって、ひどいときはバラバラにして帰ってくるし」
「……ごめんなさい」
「最悪の幼馴染だわ」
 ウィンリィはフンと鼻を膨らませ、ついで肩をすくめた。
「でもね、エドは今はここにいる。だからいいの」
 目が赤いのは酔ったせいじゃない。彼女は、えへへ、とこどもめいた笑いで目をこすった。
「こすんなよ。目にバイ菌入るぞ」
「何よ、その言い方ー!」
  ぽかり、とげんこつが飛んできた。避けないであまんじて受け、お返しにハンカチを差し出した。
「ちゃんと洗ってあるから」
「……お化粧べったりつけてあげるわ」
「お前、そんなに厚化粧なのか?」
「失礼ねっ!」
 ウィンリィとのやりとりは、だんだんテンポのよい応酬になり、いつの間にか店内で一番騒がしくなっていった。

(11.06)

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