そしてなぜか、昼の営業を終えて夜までのあいだ店仕舞をしているところに男はやってくるのである。
「お客さん、すいませんがただいま休憩中ですお引取りください」
「他人行儀とは悲しいね、ともかく私は君個人に用があるんだ、入っていいかな?」
「……って、いいとも言ってないっつーのに勝手に入ってくんな!」
 気にしないでずかずか店内に入り込んだマスタングは、自分たち二人しかいないことを確認するようにぐるりと見渡した。
「ヒューズに聞いた。水くさいことをするものだな、君も。最初から話してくれればよかったのに」
 なんというか、いかにも、だ。いかにも親しげに、二人の間にはなんの遠慮もいらないのにという雰囲気を漂わせてせまってくる。少しは遠慮してほしい。相手を慮る気持ちをこの男は持ち合わせていないのだろうか。
 勝手に誤解して勝手に誤解をといた男は、さあこれでなんの障害もないよ、とばかりに晴れ晴れとしている。ハボック曰くの未練というよりもむしろアホだ。単なるアホだ。ひょっとしたらしっかりくっきりと別れた事実も忘れ去っているのかもしれない。
「なんか色々誤解してるみてえだけどな、オレ、お前とより戻す気なんてこれっぽっちもないから」
 粉砂糖一粒くらいのつもりで小さく指で「これっぽっち」を示してやると、マスタングは、ふっと笑う。
「君は私をよく知っているはずだよ。君が頑固であればあるほど燃える」
「……その無駄な燃焼をご立派な研究に向けたらどうだ」
「私の専門の一つは確かに燃焼だ。なかなかうまいことを言う。その回転の良さも君の美徳の一つだね」
「アホか」
 そうだ、こういうやつだ。歯の浮くようなセリフを平気で吐き、しかもたいていはそれは本気で、言われるほうは恥ずかしいやら呆れるやら。そして時々、その恥ずかしさを超えて素直に受け止めてしまう瞬間が――あったのはもう忘れてしまいたい。
「こないだのおねーさんはどうしたんだよ、足の綺麗そうな美人」
 青年がマスタングに会いたいというので連れて行った研究室で入れ替わりになった女性に言及してみれば、マスタングはあっさりと「魅力的な女性ではあったけれどね」と過去形にしてしまう。
 多分、これは、もう。認めたくはないが。
 本気だ。

 なんていうやりとりがあったので、そろそろ店を開けるという段になってヒューズがやってきたときには思わず八つ当たりをしたくなるのだった。
「オレもうあいつヤだ……なんなんだ、あの馬鹿。どうにかしてくれよ」
「すまん。『エドワードがお前に聞けって言ったんだ』ってロイのやつが言ってたから話しちまったんだ。俺が悪かった」
「違うんだ、それはいいんだよ。むしろあんたの仕事の邪魔しただろ? あの馬鹿。オレが謝るほうなんだって。ごめんな、ヒューズさん。でもさ、仮にもあいつの親友なら止めてくれよあの馬鹿の暴走……」
 いや、妄想。
「と言われてもなあ、ロイもそろそろいい年だし、他人に言われなくても自分の所業に自ら気づくべき――」
「あの野郎はきっとジジイになっても、女と見ればくどいてるね、10万センズ賭けてもいいぜ」
「エド……そりゃ、賭けになんねえよ」
 互いに顔を見合わせてため息をつくと、「まあまあ、お二人ともこれでも飲んで元気出して」とハボックが一杯持って来た。
「オレ、これから仕事だぞ」
「大将が元気なかったら店にも活気が出ないでしょうが。景気づけに一杯やっちまえって。さっき出かけたアルも気にしてましたよ。あいつが買い物から帰る前にそのげんなりした顔をなおしてください」
「……ありがと」
 ヒューズと二人して力なく乾杯すると、グラスの中身を一気にあおる。
「しかしなあ、エド」
 もう一度ため息をついたヒューズは、手近な椅子に腰を下ろした。ちょうどそこはいつもの彼の定位置だ。
「ロイはエドが本当に嫌なら無理強いはしないよ、きっと。あいつはそういうのはちゃんと見抜くやつだから。人を読むのに長けてんだ。まあ多少は……行き過ぎるきらいもあるが」
「あのさ、現にオレ、すげー嫌がってんですけど」
 ヒューズは神妙な顔つきで、さらに小さくため息を吐いた。同じようにハボックまでも肩をすくめる。
「大将、昨日俺が言ったこと、考えてみました?」
「あー、オレに未練たらたらってことか。ったく、冗談じゃねえな」
「違いますよ、まんざらでもないのほうですよ」
「……それこそ冗談じゃねえ」
 おとといは二階でちょっと、ほんのちょっとだけ流されかけたといえないこともなかったが、あれは生理的な反応というものだし、実際、この先マスタングとどうこうといったことは考えられなかった。師匠やウィンリィの恐ろしい顔が脳裏に浮かぶ以前に、想像がつかない。
 そもそも、本当に嫌がることをしないというのなら浮気だってしなかったんじゃないだろうか。おそらくヒューズはマスタングと強い友情関係にあるので目がくらんでいるのだ。ハボックに関してはどうしてそこまでマスタングを信用するのかわからないが。
 友人として付き合うなら、マスタングとは良い関係が築けるかもしれない。頭の回転は速いし、親切だし、優しいし、冗談にもちゃんと乗ってくれる。叱ってもくれるし、理不尽なことも押し付けては来なそうだし。そう、恋人として付き合わなければ、いまでも好意を持っていたはずだ。
「オレ、ヒューズさんになりたい……」
「はあ?」
「何言ってんの、大将……?」
 ヒューズとハボックの二人は口をあんぐりと開けて、いきなり何を言い出すのかとあきれた様子だ。
「だってヒューズさんはあいつにくどかれたりしないじゃん」
「……当たり前だろ、俺あいつと違ってノーマルだ」
「いや、そういう問題じゃなくて、マスタングとは友達づきあいに留めておきたかったなと。今頃になって思ったんだ」
 二人は顔を見合わせて「それって……」と同時に言う。
 結局、マスタングに好意を持っているんじゃないか、と。
「そ、そんなわけねーだろ! オレはあくまでも仮定の話をしてんの! だいたいあいつはオレとの約束破ったんだぞ。一度ならともかく、二度も三度も」
「でもなあ、エド。男なら生理現象的にしょうがないことも――」
「グレイシアさん一筋のあんたが言ってもぜんっぜん説得力ねえな!」
 ぐっ、と呻いたグレイシア一筋の男は口をつぐんですごすごと引き下がる。
「あのさ、大将。世の中いろんな人がいるだろ? 男にも割と下半身の抑制が利かないタイプとしっかり管理出来るタイプがいるんだよ。教授の場合はたまたま前者で――」
「じゃあ、がっちり後者タイプのオレとは元から合わなかったんだな。無理もない。自然なことだよな」
 ぐっ、と呻いた後者タイプの惚れたら一途な男(でもよく振られる)もまた、口をつぐんですごすごと引き下がった。
 二人を退けたという達成感に酔いしれているところへ、ちょうど青年が帰ってきた。
「おかえりー、アルフォンス。ご苦労様」
「ただいま、エドワードさん。遅くなってすみません。ヒューズさんもいらしてたんですね。……あれ? お二人ともどうかなさったんですか?」
 肩を落とす男二人を見て青年は首を傾げる。
「気にすんな。ほっといて店開ける準備するぞ」

 達成感があったとはいえ、それと現実にマスタングがやってくるのとはまた別の話だ。
 青年は、それはそれは嬉しそうに尊敬する教授を出迎える。なんだってこんなのをそこまで尊敬できるのかはわからないが、他人の考えに水をさすのも野暮というものだ。
 そして青年に出迎えられたマスタングはそれはそれは嬉しそうにカウンターに腰を落ち着けてじっと見つめてくる。常に視線が追ってくるというわけではないのでそれほど居心地悪くはないが、ふとした瞬間に微笑まれるともうどうしたらよいのやら。マスタングを店から叩き出せないとなると自分が視線の届かないところに行くしかない。
 そんなわけで、しばらく雇われ店長は、厨房にいることが多くなるのだった。

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