店のテーブルには暇をもてあました、片手以上両手以下の人数がグラスを片手にうだうだしている。もうそろそろ日付が変わる頃だ。
 電話をした日は、もう大忙しだった。青年が来る前に顔を出していたなじみの店を回り、自分の性癖について口止めをし、ホークアイに偽装工作を頼んだら彼女の祖父のところへ連れて行かれ、引き止められてなかなか場を辞することが出来なかった。
 どうしてお年寄りというのは話が長いのだろう。いや、あの御仁は意図的に長引かせていたのだけれど。偽装婚約しますけど冗談なんで、とかいつまんで説明するつもりが、ホークアイの「私、この人と結婚しますから」で老人は悪ノリを始めたのだ。だいだい的にお披露目をせねば!とか、ウエディングドレスは式場は招待客はと予定を立て始めるとか、真顔だったので一瞬本気かと青ざめてしまった。「もし気が変わったら、本当にこんな感じで進めてよいかな」などと言われるにいたっては、珍しくあたふたと狼狽する羽目になって、ホークアイに目で助けを求めたら彼女も真顔でこう答えた。「いいと思います、おじいさま」
 まったく、どこまで本気なのかわからない。
 「まえまえから気になってたんだけどさ、リザさんはあの馬鹿のことを気に入ってるんじゃないの?」とその馬鹿とつきあっていた人間の口から言うのもなんだかなと思いながら聞いてみれば「そういう対象としては全く」と、バッサリだ。そのときの彼女の表情に何か引っかかるものを感じたが、曖昧な勘は老人の「二人正装して並んだ写真の一枚くらい、撮っておかないかね!」なんてすぐにも手配を始めそうな勢いに流されてしまった。
 今思えば、あれはホークアイが滅多に見せない素の表情だったんじゃないだろうか。そもそも会う機会がそれほど多いわけじゃなく、彼女が普段から能面のように表情を崩さないわけでもなく演技をしているわけでもないけれど、普段隠しているものが思わず出てしまったみたいな、そんな表情に思えたのだ。曖昧な勘として、彼女には好きな男がいる。そしてそれは、たぶんあの馬鹿ではない。一応あの馬鹿について聞いてはみたけれど、あの馬鹿とつきあっていた人間として、彼女から1ミリグラムも嫉妬を感じたことがなかった。そのくらいはわかる。だてに人との付き合いを重ねてはいない。
 早足で帰る道々、ホークアイの想い人について考えてみたが、なにしろ彼女とつきあいが深いわけではないので交友関係がわからず、答えが出る兆しは見えなかった。そもそも考えるべきは目の前にせまった青年の問題だ。
 青年の両親が故郷からあのあとすぐ発ったとすれば、夜の11時過ぎに着く計算になるので、その時間よりも少し早く皆に集まってもらって待っていたが、結局その日は青年の両親は来なかった。翌日の午前か午後にでも着くだろうと、両親が到着したら皆に連絡することにして一旦解散したものの、皆がその日の予定をすべて済ませて店に集まってもまだ来る様子はない。そしていい加減待ちくたびれてこの様だ。
 要するに、約一日半経ったのにまだ着かないのである。
「電話の相手、お父さんだったんだろ? ひょっとしてお母さんが説得してくれたとか」
「エドワードさん、それはありません。……多分無いです。母も反対してましたから」
 小腹が空いた、と図々しく要求する教授のために仕方なく厨房に立ったところ青年が手伝うと言ってくれて、二人並んで調理中だ。なんとなくマスタングの嫌いなものの一つでも入れてやろうと手がさまよっていると、てきぱきと材料を刻んでいた青年がはたと止まった。
「……僕、とても重要なことを思い出しました。というか、大前提を」
「何?」
 聞き返すと青年は大変言いにくそうに、何も無い壁を見て呟いた。
「お店の場所を知らないんです、エドワードさんの名前も……」
「……あっ」
 そういえばそうだ。電話でのやり取りを思い出すに、青年は店の名前すら口にしていなかった。自分にしてもそうだ、名乗る隙もなく電話を切られた。
「あ、でもさ! そんなに大きな町じゃねえし、国内で航空関係の学部がある大学は限られてるからそっちに問い合わせればわかるんじゃねえ? 宿所届にうちの名前書いたろ。 ……あれ? それならどうして今までご両親から連絡なかったんだ?」
 今更気づくのも何だか間が抜けている。
 そして青年も「そうですよね、おかしいですよね」と首を傾げた。こっちも間が抜けている。
「あえて理由を挙げるとすれば……書置きに入試を受ける大学の名前、別のところのを書いてきたんです。その大学に両親がこだわってるとすると、こっちの大学まで気がまわらなかったのかもしれません。あとは……叔父が手を打ってくれたとか」
「そういや前に話してくれたな」
「でも両親と叔父は仲があまり良くないから、それは考えにくいか……それにしても皆さんに申し訳ないです。集まってくださったのに、両親は来ないし」
「来てほしいのか?」
「そ、そういうわけではなくて!  いつ来るかわからないというのはどうにも……落ち着かないので……それなら一旦帰ればいいのかもしれないですけど……」
 何を言いよどんだかはわかる気がした。
「帰ったら、気持ちが折れる、か?」
 青年は答えず、微笑んだ。自分にも覚えはある。弟を探しにリゼンブールを飛び出してあちこちをさまよい、どうしようもなくなっても帰れなかったことがあった。家族は家にいなくてもウィンリィがいた。ピナコがいた。帰る場所はあったのに。
 一度帰って、懐かしい顔を見てしまうと、弟のことを諦めてしまいたくなるんじゃないかと思って怖かったのだ。
 折れた気持ちを元のものまで回復させるのは難しい。人は弱くて、失くしたものを取り戻すことの困難さに挫折を味わうなんてことはざらにある。強さなんて、そうそう得られるものじゃない。人は弱い。
『でもね、エドワード。時々その強さを持てるのが人間のすごいところだよ』
 そう言ってくれた人が二人いる。一人は師匠で、もう一人は誰か忘れてしまった。誰だったんだろう。
「わかるよ」
と呟くと、隣からは「ありがとう」と返ってきた。この感じはいいな、と思う。師匠が自分にしてくれたこと、与えてくれたこと、とまではいかなくても、青年を支えてあげているという感じがする。弟がいたら、今みたいに並んで、少しわかったふうなことを言ってやったりしていたのだろうか。
 テーブルのほうからはにぎやかな声が響いてきて、それとは反対に厨房は静かだった。だから、にぎやかだったのが急にしんとしたのもよくわかった。静かになる少し前に、ドアを開け放つ大きな音がしたのも。
「いらっしゃったわよ」
 顔を出したホークアイに手招かれ、青年と厨房を出る。

「アルフォンス!」
 飛び込んできた男は、ひどい有様だった。服こそ仕立ては良さそうだったが、ボタンが一つずつずれている。髪はひよこが巣にしたみたいにあちこちへ跳ね、握り締めたハンカチはくしゃくしゃ、ズボンの裾は泥まみれ、靴も泥まみれ、袖からびよんと糸が垂れているのはどこかにボタンを引っ掛けて失くしてしまったからだろう。額には汗をかいている。目の下には隈があった。
 ぜえぜえと苦しそうな呼吸の合間に青年の腕を引く。
「帰りますよ!」
 しかし青年がびくとも動かないので苛立ったように、何度も何度も引っ張る。
「母さんも心配しているんだ。書き残して行った大学に何度連絡を取ってもろくな返事が来ないし、偽名かもと思って市内を探させたのに……まさか、お前が嘘をついていただなんて! 帰って母さんに謝りなさい。黙って出て行ったこと、嘘をついたこと、いつまでも連絡をしないで心配をかけたことを!」
「父さん……心配をかけたことは謝ります。でも、僕は……僕は帰らない!」
「何を言う――」
「だって受かったんだ! 誰にも見つからないように皆が寝静まった時間に勉強して、勉強して、ちゃんと受かったんだ、夢だったんだ! こどもの頃からずっと……ようやく一歩踏み出せたのに……諦めるなんて絶対出来ないよ!」
 今にも泣きそうな小さなこどもみたいだった。同時に、これ以上は譲れない、男の気迫を感じた。誰もが青年を見つめていた。自分も含めて。

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