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 夜もとうに更け、今からではどの宿もとれないとあって、夫妻はマスタングの家に泊まることになった。一軒家に一人暮らしなので部屋が余っていることは知っているが、他に誰も住んでいなければ、使っていない部屋には薄く埃が積もっていたはず、と思ってこっそり聞いてみれば、たまに頼む通いの家政婦さんに来てもらって大急ぎで掃除してもらったのだそうだ。「こういうこともあるかと思ってね」となんでもないことのように答えるマスタングの気遣いには、かなわないなと思う。
 しばらく離れるのだ、つもる話もあるだろうとのことで青年もともに一泊することになり、「アルフォンスくんが来るなら、君も来たほうがいい」と誘われて久しぶりにマスタングの家に足を踏み入れることになった。
 青年は店を出る際、皆に何度も詫びと礼を言い、条件がつけられたとはいえ目的は果たされたことに皆晴れ晴れとした表情で家路についた。結論から言えば、マスタングの教授という肩書き、ホークアイの大学理事長の孫娘という親戚関係、ヒューズの警官という職業が青年の両親――主に父親に大きく作用した。察するに夫婦内の力関係は妻>夫だが、妻が夫の意向を全く考慮しないというわけではないらしい。あとなぜか夫人はイズミに似たものを感じるらしく、二人の間には終始友好的な雰囲気が漂っていた。イズミがマスタングを気に入らないようには、夫人はマイナスの感情は覚えないらしく、その点は安堵した。
 ホークアイを送ってからだったので、マスタングの家に着いた頃には親子はもう二階のゲストルームにさがり、リビングにいたのは家主であるマスタングのみだった。
「鍵、開けっ放しじゃ危ねーぞ」
 琥珀色よりずっと薄いグラスを掲げ、マスタングはおどけたように言う。
「夜中にノックもベルも音が響く。合鍵があれば渡していたんだがね。よかったら一杯つきあわないか?」
 聞きながらこちらの返答を待つでもなく、彼はテーブルにあるグラスに瓶の中身を注いで寄越す。水割りかと思ったらストレートで楽しんでいたようだ。
 促されてソファーに腰を下ろし、舐めるように口に含む。意外とアルコールがきつい。が、「うまい」
 仕事柄、舌にはそこそこ自信がある。ゆえに値段がはるのもわかった。
「贅沢だな」
「ささやかなお祝いだよ。おめでとう」
「そりゃ、オレじゃなくアルフォンスに言えよ」
 隣でマスタングが肩をすくめた。
「私が口添えしたのは君のためだからね」
「何言ってやがる」
「もちろん、うまくは言えないが勘のようなものに彼が引っかかったのは事実だ。箸にも棒にもかからない人間なら、君のためとはいえど私は動かなかった。逆に、彼がどんなに優秀であっても君からの頼みがなければやはり私は手を貸さなかっただろう。この意味がわからないとは言わないだろうね」
「ありがたいとは思ってる。ホントだよ。でもさ、オレたちもう終わったんだし、恋愛に関してはあんたを信用出来ないんだ。浮気だけは許せない。あんたのこと、すごく好きだったけど、誠実じゃないとこだけは嫌いだったよ。今もだよ。こないだ、女の人くどいてたじゃん。そんなんで好きとか言われても信じらんねえ」
 マスタングの表情から薄ら笑いが消えた。途端に彼の持つ余裕も掻き消えた。空気が冷えた気がした。寒々しい。グラスの中身をあおるとアルコールで体がぼわっと温まった。
「エドワード、合鍵……合鍵がないのはなぜだかわかるか?」
「え……」
 別れるときに、もらっていた鍵は返した。ならば今は別の誰かが持っているのだろう。まったく、言っていることとやっていることがかみ合わない男だと、そう思ったのに。
 マスタングがソファーに手をついた。なぜ隣に座ったのだろう。テーブルをはさんで両側にソファーはあって、片側には一人掛けが二つ、反対側には二人掛けが一つ。向こう側のソファーは二つとも空いているのに。何故、二人掛けに、マスタングの隣に、誘われるままに座ったのだ。何故。体を寄せてくるマスタングから逃れようと思えば逃れられた。だってどこも捕まえられていない。彼は触ってもいない。
「鍵がないのはね」
 耳に抑えた息が吹きかかった。
「捨てたからだよ」
 触れるぎりぎりで、彼は言う。
「君に捨てられたものなんて、手元に置いておきたくなかった。それから、鍵を渡してもいいと思える相手には出会えなかった。この告白が、私の誠意だよ」
 耐えられなくて、目を閉じた。


「君は、一度受け入れた者にはとことん弱くなるね……だからこうやって、私につけこまれるんだ」
 すがってしまいそうになるのを必死でこらえて、弄ぶ手を、指を受け入れる。簡単に流された。息が上がる。声をもらさないようにするのが精一杯だった。
 店の二階で、青年に気づかれないか焦っていたのに体だけが引き摺られたあの時とは違う。この感覚はどこかで与えられたものだった。そうだ、初めて身体を重ねたとき。
 そのときは、慣れてるから、と言ったのに「少しでも傷つけたくない」とマスタングは長い長い前戯をほどこした。もういい加減先に進めてくれと思って、自分からねだった。誘ったことはあっても強請ったのは初めてだった。今、這い回る手に、ついこの間の、からかうような調子は微塵も無い。駄目だ、本気だ、だめだ、だめ、本気なんだ。
 好きだ、と言われたのかもしれないし、言われなかったのかもしれない。首を縦に振ったか、横に振ったか、自分でもわからない。無理するな、と低い囁きが耳に入って、許しを得たように安堵して、一度達した。朦朧としているうちにタオルでぬぐわれ、だらしなく開いたファスナーを上げられた。
「……二階から客人が降りてきたようだ」
 マスタングがさっと離れて戸口へ立った。
 気づかなかった。こっちはこんなに余裕がないのに、マスタングは周りにも気を配っていた。青年か夫妻に知られたら困るのは、青年と、そして――
 オレ、か。
 自分のことを考えてくれたのになぜか腹が立った。いらいらする。勢いと快楽に飲み込まれたのは自分だけだった。所詮、その程度にしか想ってないのだ。理性でとどめられる程度。本気で抗えば、彼はきっと簡単に退く。簡単に離れていく。いらいらする。これじゃまるで。
 違う。違う違う違う。
 また流された。恋はあのとき終わった。終わらせたはずだ。情けない、涙が出る。足音が部屋に近づいてきた。低い嗚咽に、その誰かが気づく。
「あの……泣いてるんですか?」
 柔らかく、気遣う声。普段なら安心出来る声なのに、いまは駄目だった。聞くのが辛い。こんなふうに情けなく泣く自分が、たまらなくみじめだった。
「少しきつい酒を飲ませてしまってね。エドワードは案外と泣き上戸なんだよ」
 そうやってごまかしてくれたマスタングは、この涙の理由を知っているのだろうか。
 自責と嫌悪に襲われて顔も上げられない。青年は水を一杯もらうと、「また朝に。おやすみなさい」とだけ言って二階へ戻っていった。
 ドアを閉める音がした。マスタングがまた隣に腰を下ろす。エドワード、と呼ばれてもどうしようもなかった。こぶしを握り締めて、こぼれる涙を抑えようともっと力を込める。温かい手が重なって、さらに体がぐっと熱くなった。
「今日はもう寝たまえ。ソファーですまないが、二階じゃないほうがいいだろう」
 毛布はそこにある、と言ってマスタングはあっさり立ち上がった。遠ざかる足音とともに、諭すような調子で彼はこんな言葉を残していった。
「気をつけなさい。時には拒絶することも必要だよ」

 拒絶など、出来ない。

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