マスタングと並んでのんびりと構内を歩くのも久しぶりだった。通用門のひとつをくぐり、芝生を横切って教養棟へ向かう。正直、マスタングがいて助かった。なにせ、自分は青年の受講している教室を知らず、教務課にはなんとなく近寄りがたいからだ。
 大学に着いたのはもうすぐ午前最後のコマが終わろうという頃で、この辺りをアルフォンスは通るはずだ、とマスタングが言った場所で待つことにした。木製のベンチに腰を下ろそうところでふと気づく。
「飲むもん忘れてた。ちょっと買ってくるから、アルフォンスが通ったら引き止めておいてくれ。すぐ戻る」
 マスタングをその場に残して買いに走る。食料品を扱った購買は遠いが、飲み物と飴なんかの菓子を扱った店ならば近くにあるから、急いで買って戻っても、かかるのはほんの数分だ。
「おかえり。アルフォンスはまだだよ」
 立ったままだったマスタングが座れと示した場所にはなぜかハンカチが敷いてあった。
「あのさ……これには何の意味が?」
「他意はないんだが、ベンチがなんだかぺとぺとしていてね。誰かがジュースでもこぼしてそのままにしていったんだろう」
「だから?」
「そんなところに座るのは不快かと思って」
 気持ちはありがたいようなありがたくないようなで、少なくともこんなふうにしてもらって自分だけ座るというのは気がひけるし、もやもやする。マスタングが自分を女性として扱っていると誤解しているわけではない。ベンチにハンカチを敷かれて困ってしまうのは、そういう意味で腹を立ててるからではなかった。これがもし相手が自分でなく、例えばヒューズやハボックだったらこんなことはしないんだろうなと思うと、マスタングが完全に自分を友情以外でつきあう相手だと認識していることを実感してしまう。いや、わかってはいたけれど。
 出来ればマスタングとは、それこそヒューズとのようなつきあいをしてみたいのに、なかなかうまくいかないものだ。
 マスタングが「気を悪くさせたならすまない」なんて伏目がちに言うので、なんだか申し訳なくなって、結局好意に甘えることにしてしまった。
「少しずつほだされてる気がする……」
 ハンカチの上にどかっと座って小声で呟くと、マスタングが「どうかしたか?」と聞いて来る。
「何でもねえよ」
 しばらくすると、大荷物を抱えた金髪の青年が小走りに駆けて来るのが見えた。ここで待っていて正解だった。勢いよく立ち上がって手をぶんぶんと振る。
「おーい、アルフォンスー!」
「え? あれ? エドワードさん? ……教授も!」
 一瞬戸惑ったのちにどうしたのかと微笑んで首を傾げる青年の目の前に、ランチボックスの入った手提げ袋を持ち上げてやる。
「忘れ物よ、あなた。あたしがせっかく腕によりをかけて作ってあげたのに、忘れていっちゃうんだもの」
 精一杯かわいこぶって言う。きょとんとした青年の顔が面白くて、思わず噴出してしまった。マスタングも笑い出し、それに触発されたのか青年も苦笑いを浮かべる。
「すみません、せっかくエドワードさんが作ってくれたのに。それにわざわざ届けてもらうなんて、ほんとごめんなさい。ありがとう」
「いい天気だし散歩するついでだから気にすんな。……ほら、腹鳴ってるぞ。まさか昼飯抜くつもりじゃなかったよな?」
「え? ……ははっ、そんなわけないじゃないですか」
 あからさまに「抜くつもりでした」と顔が言っている青年の額をピシリとたたく。
「駄目だろー。飯はちゃんと食わねえと。……ホントはお前に時間あったら一緒に食べたいんだけどさー、急いでるんだよな?」
 ええ、と頷く青年はまた「ごめんなさい」を付け加えた。またしばらく「ごめんなさい」とあと「大丈夫」を禁止にしてやろうかと思う。
「今度、お前に時間がある日にも弁当作るよ。それで外で一緒に食おう。大学始まってからお前と昼食えるのって週に一度あるかないかだもんな。夜も時々いないし、まともに食えるの朝だけなんて、ちょっとさみしいよ」
 自分よりも背の高い青年を見上げると、青年は慌てたように視線をそらす。色素の薄い肌は日にやけたのか赤みを帯びていた。
「ほら、エドワード。アルフォンスが困っている。君にそんなつもりはなくても、責められているように聞こえるよ」
 その原因の一端を作っている男は、いけしゃあしゃあとそんなことを言う。
 しかしここで言い返すと話が長くなりそうだ。青年も去りがたいだろう。
「アルフォンス、オレそういうつもりじゃなかったんだ。でも一緒に食べたいのは本心だから」
 わかったと頷いた青年は、大荷物を抱えながら器用に弁当を持って走って行った。
「そんなにさみしいのなら、私がいくらでも予定を空けて相手をするのに」
 無駄にいい声で囁くマスタングを振り払ってうんざりした顔で見やる。
「あんたと差し向かいで毎日飯食ったらなんか疲れそう」
「アルフォンスならいいのかね」
「もちろん」
「羨ましいな」
 わざとらしくため息をつくマスタングは「こっちにいい場所がある」とベンチのハンカチをたたんで歩き出した。遅ればせながらハンカチの礼を言うと、マスタングは目をまるくして、次いで細めて「だからかなわないんだ」と呟く。
「何が?」
「ここで答えるとまた押し問答になりそうだからやめておくよ」
 そういう思わせぶりなところが気に入らないんだと言ってもマスタングは改める気配はない。まあ、言ってすぐ改めるような性格ならよかったというわけでもないし、こっちの言うことをほいほい聞くような人間ならば好きにもならなかった。
 マスタングとは身長が違うから足の長さも違って、当然歩幅も違う。平均身長に満たない自分が身長に見合った歩幅で歩くとやたらとちょこまかして見えるので、いつもちょっと幅を多めにとって歩く。そんな自分に合わせたスピードでマスタングは歩く。これでマスタングが足の長い体型だったら情けなくなるところだったが、幸い彼は長くもなく短くもない、平均的な長さの足の持ち主だった。体型は普通で、格好をつけているふうでもない。けれど、彼の歩く姿にはなんとなく目を惹かれる。理屈じゃないのだ、こういうのは。そして今は、その理屈じゃない感情に抗おうとしているところ。
 そういえば青年は身長とのバランスで考えても足が長かった。そしてゆっくり歩く。見上げて話かけると、たいてい、一拍置いて微笑んでから応えてくれるのだ。思い出すだけでも和む。
 弟のアルフォンスがそばにいたらこんな感じだっただろう。と、以前は考えていた。けれど、実際にこうやって青年と暮らしてみて、やっぱり彼はアルではないんだと思う。たぶん、アルとだったら、幼い頃は意識しなかったがかくれんぼ後の自分は結構なブラコンだったので、兄として弟をかまい倒して、鬱陶しいとか言われていたに違いない。それで結構喧嘩とかもして、それぞれやりたいことをやっていたはずだ。
 青年とは、互いに遠慮もあるし彼がどう思っているかはわからないが、自分としては一緒にこんなふうに歩きたいしご飯も食べたい。朝起きたら最初に顔を合わせる人間は彼、というのがすっかり習慣になったし、しばらく共に暮らせば見えてくる欠点もちっともいやじゃなかった(といってもほとんど欠点なんてないけれど)。簡単にいえば、一日中一緒にいてもちっとも苦じゃない。家族以外で狭い生活範囲で朝から晩まで顔を合わせて、いやじゃないというのはけっこうすごいことなんじゃないだろうか。
 そんなことを考えていたら、誰かに腕を引かれた。誰かといってもこの場にはマスタングしかいないので引っ張ったのは当然マスタング。ここでどうかなとマスタングが示したのは、構内にある小さな林の入り口だった。木陰の中にベンチがある。
「何を考えていた? ずーっとぼーっとしてたようだが」
 昼食を広げるスペースを真ん中に確保して腰を落ち着けたマスタングがからかうように問う。
「アルフォンスのこと」
「それは羨ましいを通り越して妬けるね」
「なに? オレに? アルフォンスに?」
「冗談で言っているんじゃなかったら、今すぐここで君を押し倒しているところだ」
「……あんたが言うと冗談に聞こえないね……」
「ご所望ならお応えしてもいいよ。君、外も嫌いじゃないだろう」
「真っ昼間からやる趣味はねーよ」
 というか、そもそも外でやる趣味もあんまりない。露出趣味はないし、外では他人の迷惑になりがちでもある。
「なんていったらいいのかな、アルフォンスはやっぱりアルじゃないんだなーって」
「アル……ああ、弟のか」
「アルの身代わりじゃないって思ってたけど、どっかで重ねて見ようとしてたんだろうな。でも暮らしてみて、まだ二ヶ月くらいだけど、全然違うんだ。アルフォンスはアルじゃない」
 マスタングのからかうような表情が真面目なものになる。低くて通る良い声。
「ならば、君にとってのアルフォンスはどういう存在なんだ」
「弟だよ。新しい弟。オレにはアルフォンスっていう、同じ名前の弟が二人出来たんだ。……アルフォンスがオレを兄貴って思ってくれるかは別としてさ。母さんやアルがいたリゼンブールの家を思い出すよ。ウィンリイとばっちゃんがいる家もさ」
 長期の休みに入ったら一度、あたらしく出来た弟をリゼンブールへ連れて行くのもいいかもしれない。ウィンリィとは会ったけれど、ピナコにはまだ会わせていない。きっとピナコも彼を気に入る。
 しばらく黙っていたマスタングは、「家族が出来てよかったな」と言った。優しくて、少しさみしそうだった。弁当を勧めると、フタを開けたマスタングの顔が、目に見えてほころぶ。
 食事中あまり会話はなかったが、気まずくはなかった。空は青く、風は涼しい。我ながら昼食はおいしく、腹も満たされる。マスタングともこういう時間が持てるのだ。
 青年といるときみたいに。
 まるで、家族みたいに。

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