もうすぐ長期休みだ。もちろん、店ではなく、大学の。
 こう浮かれていてはハボックからなにがあったのかを聞かれるのは当然のことで、鼻歌を止めてテーブルを拭く作業は止めずに答える。
「アルフォンスが休みになるから、ばっちゃんに会いに行こうと思ってさ」
 大学のスケジュール上での長期休暇開始の日から終了の日までばっちり休めるわけではないが、学期中に比べればほとんど休みのようなもので、一週間ほどまるまる空くのだと青年からは言質を取っている。それで、その休暇をリゼンブールで過ごそうと思ったのだ。
 もちろん、休暇をまるまるリゼンブールでつかうわけではなく、一度青年を実家に戻そうと考えている。両親とはとりあえず和解したのだから家に戻った途端に外に出してもらえなくなるなんていう心配はしなくてもいいし、家族なのだからやはり会いたいはずだ。こちらから言うまでもなく青年のほうから話があるだろうが、万が一青年から言い出さなかったら提案してみるつもりだった。
 その間、店は閉めることになるがハボックはどうするつもりなのかと聞けば、彼はさらりと「実家に帰りますよ」と苦笑いを浮かべる。
「旅行とかしないのか、彼女とかと。有給にするけど」
「大将、それ、一人身にはぐっさり来ますよ……」
「あ、ああ、ごめん……お前、よく振られるわりにはあんまり途切れたことなかったみたいだから」
「またまたぐっさり発言……」
 ジャン・ハボックという男は、高身長で体格も暑苦しくない程度にがっしりしていて、見た目は悪くない。というより見た目「も」悪くない。なにしろ性格がいい。仕事はしっかりするし、料理の腕は達者で、人に不快感を与えることがなく、気配りが出来る。「浮気はしない(ここ超重要)」し、約束をしたら必ず守る。真面目だが冗談も通じるし、必要とあればおどけることもいとわない。あまり欠点らしい欠点が見当たらない。
 結婚相手としては理想的ともいえる人間は、得てして恋愛対象にはなりにくい。現にハボックがつきあっていた歴代の女性たちが店にお客として来たときに話を聞くかぎり、その命題には頷けるものがあった。彼女たちは総じて「ジャンはいい人すぎるのよ」と言う。
愛してくれるし大切にしてくれるし一緒にいると楽だけれど、なんかつまらないのよね。
発言内容がハボックに失礼なうえ、そんな込み入ったことを質問したつもりはないのにぺらぺらしゃべる彼女たちの性格というか性質に辟易することもあった。自分もひとのことは言えないが、ハボックも実は趣味が悪いんじゃないかと思う。本人に伝えたことはないけれど。
 しかし誠実なわりにとても惚れっぽいハボックは、別れても前の彼女のことはそれほど引きずらずに次の女性に恋をする。だから、前回別れてからもう数ヶ月経っている今、新しく恋人が出来たものとばかり思っていた。そういえば、「ハボックの彼女」を最近店で見ることがなかったような気もする。なんだか本気で落ち込んでいるようなので気になってつい、人様の恋愛事情につっこんでみたくなる。
「珍しいな。そんな間空いたことないだろ?」
「放っといてくださいよう……かれこれ四ヶ月は片思い中なんだから」
「四ヶ月!?」
 驚いた。これまたハボックにしてはずいぶん長い。
「なあ、相手どんな人? 聴いてもいいか?」
「いいも悪いももう聴いてるじゃないスか」
「あはは、ごめんごめん」
「あんた、そんなに人の恋愛に興味持つタイプじゃないでしょうが」
 確かに。でもなんだか気になるのだ。気になってしょうがない。四ヶ月というハボックにしては長丁場な点で、ピンと来た人物がいるのだ。なかなか告白出来ないとするとこれまでの相手とは違ったタイプだと推測出来る。例えば、自分のことは自分でやります特にあなたの助けは必要ありません仕事をしない馬鹿はきらいですふざけている人はもっときらいですああ楽しいことは好きなんですよ程度にもよりますけれどなくっきりすっぱりはっきりした美人。
「ひょっとしてリザさん?」
 返事がない。図星だ。大正解だ。どんぴしゃ過ぎてショックを受けたのかハボックが固まっている。気の毒なことをしてしまった。
「えーと……ごめんなさい」
 とりあえず謝ってみたが、固まった状態からなんとか抜け出したハボックは恨めしそうな顔つきだ。
「酷い。大将がそんな人だとは思わなかった。酷い。人でなし!」
「すまん。謝る。このとおりだ。許せ」
「人の気も知らんと婚約者まで演じて!」
「あれは別にオレが持ちかけたわけではなく、あ、いや、オレがわるかったです」
「腕なんて組んで!」
「ホント、オレがわるかった。ごめん。ホントだって。な? 許して?」
 がっくりと肩を落としてしゃがんでしまったハボックは図体のでかいこどもにしか見えない。
 ほんとうに、悪いことをしてしまった。
 悪いことをしてしまったついでに思い出したことがある。ホークアイと一緒に彼女の祖父の元へ行ったときのことだった。あのときはすぐに忘れてしまったけれど、彼女には好きな人がいると勘が告げたのだ。そしてそれはあの馬鹿じゃなく、とすると彼女の交友関係を知らない自分にはまったく予想し得ない相手だと。はたして、その相手が目の前で地面と仲良くなりかけている男である可能性があるかどうか。
 まあ、ほとんど可能性はゼロだろう。二人ともあまり面識ないし。
 いや、会った回数が限りなく少なかろうとハボックは彼女を好きになったのだ。逆がありえないとは言い切れない。それにわりと女性に好かれやすく入れ込まれやすいマスタングを、あれだけ普段から傍にいるにも関わらず恋愛対象外と見なしたのだから、マスタングとは対極にいるようなハボックは案外ホークアイの好みかもしれない。
「だいたい彼女、きっと教授のことが好きですよ。教授、あれだけモテるんだから」
 手持ち無沙汰なのか、ハボックはしゃがんだまま雑巾を手にとって床を拭きはじめた。落ち込んでるのに不思議なことをする男だ。むしろ落ち込んでるから気を紛らわせたいのか。
「世の女性がみんなモテる男を好きになるとは限らないだろ」
「そりゃそうですけど……過去の俺の彼女たちは、俺を振ったあと教授に目ぇ向けてました」
 つきあうに至ったかどうかはともかく、だそうだ。
「でもさ、リザさんはマスタングのこと別に好きじゃないぜ? そういう意味では」
「なんで大将がそんなこと知ってんですか?」
「聞いたもん」
「ええ!?」
 そのときのくだりをおおまかに話してやったが、それでもハボックは床を拭く手をとめない。ごくごく狭い範囲だけがぴっかぴかになりそうだ。
「マスタングもリザさんをそういう意味で好きになったことは、無いと思う」
「それも聞いたんですか? 教授本人に?」
「当たり前だろ。だって自分の恋人のすぐ近くにああいう美人がいたら気になるじゃん。気にしたまま黙ってるのは性に合わないからさ」
「で、聞いたと。それで信じたと」
「浮気はするけどそういう質問に嘘をついて答えたことはないから。それがあいつなりの誠実さってやつだったんだろ。他は全然だめだめだったけどさ」
 ハボックは目を丸くし、ようやく床を綺麗にする手を止めた。
「教授は変なとこに信用あるんだなあ。わからんでもありませんが」
 なるほどと頷くハボックの様子に、前々から気になっていたことを思い出した。
「あのさ、お前ってあいつとつきあい長いの?」
 店でのつきあい以上に、ハボックはマスタングのことを知っている節がある。といってもハボックのプライベートを把握しているわけではないから、店の外で彼の交友範囲がどうなっているかは知らない。その知らない範囲でつながりがあってもおかしくはない。ただ、そう気が合うようでもないから、わざわざ店という仕事の場以外で交流を持つとも考えにくいのだ。
 しゃがんだまま顔を上げたハボックは、あれ?と首を傾げた。
「言ってませんでしたっけ? 教授とはまだ軍にいた頃に会ったんですよ。向こうが上官でこっちが部下」
「はあ!? マジで!?」
「もちろん。俺が元軍人ってことは知ってますよね? 教授がそうだったことは?」
「知ってる」
 一応。元々は士官学校の出で、どこぞの研究施設が占拠された際の突入部隊を指揮して功績を挙げたのに、そこで行われていた研究に興味を持って、とっとと軍を辞めて大学に入りなおして今の地位にいるということは、聞いたことがあった。そのまま続けていたら将官になってたんじゃないかと、その話をぼけーっと聞きながら思ったものだ。不覚にも、ああかっこいいなあなんてうっとりしたことは全力で忘れたい。
「ほんの一時期ですけどね。部下のことを考えてくれるいい上官でしたよ、有事の際は。普段はちょっとアレでソレだったけど……」
「ん、なんかよくわかる……」
「そんなこんなで異動があって、次に当たった上官が酷くてですね、一度死にかけたもんだから親に泣かれちゃって、それで除隊を願い出たってわけです」
「なかなかヘビーな身の上だったんだな」
「よくある話ですがね」
 今になってようやくこんな話をするのがなんだかおかしかった。この町に来てから知り合ったひとの中ではハボックはつきあいが長い部類に入るのに、マスタングが上官だったとか、ハボックが死にかけたことがあるとかちっとも知らなかった。何がきっかけで過去の話をするかわからないから人とのつきあいはおもしろい。
「よかったら一緒に来るか?」
「リゼンブールに?」
 ハボックは一瞬考え込むようにして、しかしすぐに首を横に振った。
「せっかくだけど、やめときます。母親に顔出せって言われてるし、リゼンブールとは反対方向ですからね。アルフォンスと二人でゆっくりしてきてください」
「……そっか。じゃ、また今度な」
 曖昧に笑ったハボックは、こっちをじっと見つめて言う。
「何かあった?」
 あったといえばあった。ただ、それは人にいうにはあまりにもあやふやで、自分でもよくわからないことだったからこう答えた。
「何もないよ」
 あやふやで、あいまいで、だから、気のせいだと思ったのだ。

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