あれからもう一度、青年は弁当を忘れ、一度目と同じように大学まで持って行ってやった。ひょっとしたら一緒に食べる時間が少しくらいあるかもしれないと、自分の分も持って行って、移動中の青年を捕まえて、だいじょうぶ時間はあると言う青年と昼食を食べた。この間、マスタングがハンカチを敷いてくれたあのベンチで。
 あ、こんなことが前にもあった、と思いかえしたのは、青年がポケットからハンカチを取り出した時だった。いや、正確にはベンチに敷かれたハンカチを見たとき。なぜならマスタングは、こちらが席をはずした隙に用意して待っていたのだから。
「……ありがとう?」
 疑問の形をとってしまったのはしょうがないと思う。なぜご婦人相手のようなことをしてくれるのだろうと聞く雰囲気ではなかったからだ。有無を言わせない笑顔というのはこれまでにも何度も見たが、青年の表情もまさにそれだった。
 間に一人分を置いて青年もベンチに座った。開いた一人分のスペースに昼食を広げる。蓋を開けた青年の顔がほころぶのを見て、己の口元がゆるむのがわかった。
 作ったものを喜んでもらえるというのはやはりうれしい。見て、食べて、終わって満足そうに「おいしかった」と言われると、こちらも満足する。あの店を継いだ理由の大半は、実はこういう満足感にあったんじゃないかと、最近考えるようになった。
 今日は比較的時間に余裕があるという青年は、食べ終わってものんびりとベンチに座ったままだった。水筒に用意してきたお茶のお代りを注いでやって、二人で背もたれに身を預けて空を見上げる。いい天気だなあ、そうですねえ、とか、まるで長年連れ添った老夫婦のような会話をしているうちに、あっというまに眠くなってしまった。食べたら眠くなるって、こどもか。
 睡眠欲、食欲、性欲。三大欲求に最近とみに弱くなっている気がする。特に最後。マスタングに仕掛けられてあっさりと零すようでは完全に欲求に負けてしまっている。
 そして欲として一番強いのは睡眠欲であるので、これにはためらいもなく忠実になる。人通りの少ない場所は静かで青年もしゃべらないのですっかり眠くなってしまった。
 うとうとし始めた頃に青年が口を開く。
「こないだは、マスタング先生とお昼を食べたんですよね」
 そう言っただろー、前も聞いたよな、それ。
と頭の中で答えつつ、こっくりとうなずく。
「君のおかげで好物にありつけた、と感謝されました」
 それは聞かなかった気がすると思いながら、首は縦に一回振る。
「先生はエドワードさんのことが好きですよね」
 もう一回振る。
「エドワードさんも……ですか?」
 好きか嫌いかと言われれば、好きかなあ、友人づきあいしたいという意味では好きだ。なので、ん、とさらにもう一回うなずく。
「そうですか……」
 なぜかさみしそうな気がしたが、とにかくうつらうつらしてしまってどうしようもない。ああ、やばい、と思ったときには上体が左にぐらっとゆれて、頭は青年の肘あたりに着地した。ぼーっと、弁当片付けた後でよかったとそのままずるずるすべっていき、最終的には青年のひざまくらにおさまった。
「風邪引きますよ」
 ひかねーよ。
「ほっとけないし、研究室につれていくわけにもいかないし……」
 髪を梳く手が気持ち良くてすり寄ると、ひざと手がびくっと震えた。
「……そんなだから、先生はエドワードさんを……」
 身じろいだあと、また手が髪を梳いてくれたので本格的に眠りに落ちて行った。急に手は冷たくなったが、触れ方があたたかかったので気にはならなかった。
 目が覚めるとそこは食堂の片隅で、なじみの女性がにやにや笑いながら見ていた。
「おはよう、お姫様」
「……誰が姫だよ」
 椅子を三つほどならべた簡易ベッドから身体を起こすと、目の前のテーブルにコトンとカップが置かれた。
「ありがと」
「どういたしまして」
 寝ぼけ眼でコーヒーをすする。しかしなぜ食堂にいるのだろう。疑問が顔に浮かんだのか、おいしいシチューをつくる女性は察して笑いながら教えてくれた。
「あんた、ベンチで寝こけちゃったからオースティン先生が運んでくれたんだよ。横抱きで」
「……オースティン? なんで?」
「アルフォンスくんからの預かりもの、って言ってたけど」
 合点がいった。すっかり眠っていた自分をそのままベンチの置いておくのはためらわれたに違いない。
 困っていたところにオースティンが通りかかった。がっしりとした体型のオースティンは苦もなく自分を抱えあげて運んでくれたのだろう。
 青年にはわるいことをしたし、オースティンにはこのあと礼を言いに行かなければ。
 昼も過ぎて食堂には空き時間を潰す学生の姿がちらほら見受けられるだけだ。休憩中の女性は、自身もコーヒーを飲みながら肩をぐるぐるまわす。
「肩、もんでやるよ」
「そうかい? じゃあ頼もうかね。最近すっかり凝っちゃってねえ」
 苦笑する女性の首から肩を経て、肩甲骨のあたりまで押してみると、あちこちにしこりがあった。
「ホント、凝ってるな」
「だろう? ……んー、右はもう少し下だよ。うんうん、そこ、そこいいわあ。うまいねえ、エド」
 ふと気配を感じて顔をあげると、食堂で働くほかの女性たちが小さな列を作っていた。浮かべられた笑みにはもうため息をつくしかない。
 結局、自分の手がぐったりするまで人の肩を揉む羽目になってしまった。お駄賃は、食堂で人気のケーキ半ホールだった。
「先生によろしくー」
 そんな女性たちの声を背に、オースティンの研究室に向かう。ゼミ室も同じ棟にあるから、家に帰る前に青年に会えるかもしれない。
 研究室の扉をたたくと、甘いものが大好きなオースティンは両手を広げて歓迎してくれた。礼に訪れたはずが、逆に熱烈に礼を言われる始末。ぜひにと引きとめられて、三時のティータイムに御相伴させてもらうことになった。
「でもなあ、エドワード。あんなとこで寝てたらマスタングにお持ち帰りされるぞ」
「なんでだよ」
「だってより戻したんだろ?」
「戻してねーよ。……つーかここ、オープンすぎるだろ……」
 手も腕もだるいが、頭までだるくなってきた。入れてもらったハーブティーはそれほど癖がなくて飲みやすい。
「お前と同居してるアルフォンスくんは、マスタングとのこと、知ってんのか?」
「知ってるよ」
「でも同居続けてんだな。やりづらくねえかなあ。自分の先生の恋人んちで暮らすのってさ」
「恋人じゃねーって」
「先生と別居中の妻の家に世話になってるようなもんだろ。俺だったら気づまりするねえ」
「……あんたのその性格だったら気づまりなんかするもんか。あんまりからかうなよ」
「誤解してるつもりはねえんだけど。こないだ構内のはしっこで仲睦まじく昼飯食ってたじゃん。だからてっきりお前ら元鞘なのかと……違うの?」
「だ、か、ら、さっきから違うって言ってんだろ!」
 まあまあ、ぴりぴりすんなって、とおかわりを注いでもらったハーブティーのカップを持つ手がかたかたと揺れる。
 これ、単品ではおいしいけど、クリームのケーキには合わないな。
とか他のことを考えて、人を苛立たせてくれる目の前の変人への怒りを忘れようと努めた。この男には同居している青年も世話になっている。
「アルフォンスはどーよ。あんたの目から見て」
 オースティンはあっさりと「いいねえ」と言った。
「よく勉強してるし発想がいいし、柔軟なのに頑固だ。真面目で……まあ、生真面目すぎるきらいはあるが、ああいうタイプが一人いるといいねえ。こないだはそこの給湯室で夜食作ってくれたんだ。うまかったなあ」
「あいつ、料理も掃除も洗濯も一通りこなせるぞ」
「そお? あー俺が男相手にたつんなら、即プロポーズすんのに」
「……たつ? 何の話だ?」
「だから男とセックス出来たならっていう話――ふぎゃっ」
「寝言は寝て言え、オースティン」
 ある意味でマスタングよりもふざけた男の頭をグーで殴ると、彼は頭を抱えて、出ない涙をぬぐう振りをする。
「乱暴なやつだな……アルフォンスくんに言いつけてやる」
「じゃあ、オレはオースティンに襲われたって言ってやる」
「やめてくれ……お前が言うと洒落にならねえんだよ。しかしまあ、あれだな。アルフォンスくんとマスタングは相性がいいな。アルフォンスくんは一途だし、マスタングは浮気者だから、互いに補完しあってんだろ。なんとなく散漫なとこがあったあいつのゼミが、きゅっと引き締まった感じがする」
 よそのゼミのことまでよく見ているなあと思ったが、そもそもこの科は他ではまずないくらいに各研究室の連携がなっているのだった。それぞれ率いている者は変人揃いだが、仲はわるくない。出張が入ったときは、他の教授、助教授にゼミ生を任せることもままある。オースティンの評価は、たぶん当たっているはずだ。
「一途か……頑固っていう意味ではそうかもな」
「ああいうタイプ、マスタングは好きだろうねえ。師として慕ってもらえるなら、俺もああいう子がいいなあ。恋愛なら勘弁だけどさ」
「ついさっき、プロポーズどうこう言ってやがったくせに」
「恋愛と結婚は別だろうが。一途は一歩間違えると思い込みが激しいタイプに変わるからな。軽くつきあうのが好きな俺みたいなのには正直、重い」
 なんで恋愛の話になっているんだろうと思いつつ、オースティンとこの類の話をしたことはあまりなかったので興味を覚えた。
 が、オースティンは恋愛話はあっさりと打ち切って話題の方向を変えた。
「アルフォンスくんはお前のことも好きだよなー。目指せ、トライアングラー!ってか」
「どっから突っ込んだらいいかわかんないけど、とにかく前提からして間違ってるぞ……」
「っつーかさあ、ここんとこその相性ばっちりなアルフォンスくんとマスタングがちょっとぎこちねえんだよ。アルフォンスくんとマスタングがっていうか、マスタングはいつも通りなんだが、アルフォンスくんの方が」
「アルフォンスが?」
 実はな、とオースティンが昼間の経緯を話し出す。
「ベンチの横を通りかかったときな、わりと近くにマスタングもいたんだよ。でもアルフォンスくんはお前を俺に寄こした。普通、そこはマスタングに渡すだろ。な? ちょっとおかしくね?」
 確かに一見おかしい。が、今のマスタングと自分の仲を勘違いしていたオースティンがあることを知らないだけで、種明かしをすればまったくおかしくなんてない。
「それはオレがマスタングに誘われて困ってるから、気をつかってくれたんだろ」
「え? 困ってんの?」
「それなりに。すごく」
「ふうん……」
 納得しがたいのかしきりに首をひねる姿に、まだ何かあるのかと視線で問えば、オースティンはたまたま論文について廊下で言い合っているのを聞いたのだと答えた。
「何かおかしいことがあるのか? 内容が論文なら、多少声が大きくなったって別に不自然じゃないだろ」
「普段のアルフォンスくんは議論が白熱しても口調自体は柔らかいんだ。でもそのときは、いやにマスタングに食ってかかるなあって感じで……珍しいこともあるもんだと思ったからよく覚えてる」
 寝不足でちょっと気が立ってたんだろ、と言い返したが、オースティンの研究室を辞したあとも、そのことは心の隅に留まっていた。
 感じたことは頭の中で明確な形を取れず、もやもやとしたもののままだった。というより気のせいだろう、きっと。
 定まらない思考は、それが自分の望まないものだからか、本当に形にすらならない些細なことだからなのか、それすらも曖昧にして行った。

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