少年の親は町に出ていたり、畑に行っていたりで、留守番の祖母は少女が捻挫したことを聞くとひどく心配し、夕方になったら迎えに行くと言った。
 家族ぐるみで親しくしているようで、店に戻ってその旨を伝えると、少女はほっとしていた。
 早めに店を閉めた少女に見送られて家路についたのは、ちょうど夕陽が山裾にかかる頃。先ほどの様子を思い出しながら、少女とずいぶん打ち解けていたことをからかうと、彼はしかめっ面で「エドワードさんはにぶすぎます」と呟いた。
 意味を視線で問えば「追及するのは野暮」と返ってきて、こういうあいまいな会話になるときの理由に思い当たる。
 確かに鈍かった。
「10歳差くらいあるんだけど」
「……年は関係ありませんよ」
 約10歳上とつきあったことはあるが(それも直近のことだ)10歳下はさすがに無い。そもそも好きになる相手は年上か同い年で年下というのは覚えがなかった。
「そんなに鈍いつもりはなかったんだけどなあ」
「自分のことって案外わからないものですよ」
 これまでは、相手を見て脈があるかどうかはすぐにわかった。だから、ひとの気持ちに敏い性質だと思いこんでいたが、こんなふうに一方的なベクトルの対象になった場合にはちっとも気づけない。己への認識を改めなければならないようだ。
「そりゃ、足に触られるのなんていやだよなあ、女の子だし」
「いやというか……恥ずかしいんですよ」
「ん、あれはオレが悪かった。それに男と女は違うしな」
 個人差はあるけど、とつけくわえる。青年の場合はどうだろうか。
 そういえば出会ってこのかた、この青年に恋人がいる様子は微塵も見えない。昼食を取る時間にも追われるような生活だ、それどころではないのだろう。
「さわられたい、ですか?」
「オレ? 相手によるけど、好きだったら触りたいし、触られたい。それ以前に女の人の身体って好きだな」
 芸術的なセンスがないとさんざんからかわれても、これだけは自信を持って言える。が、
「綺麗だもんな。こう、体のライン、が」
 なんだか急に自分の言っていることが恥ずかしくなってしまった。
「……エドワードさん、なんでいきなり照れてるんですか」
「だって……お前とこんな話することになるなんて思わなかったから……なんか恥ずかしい」
 うつむくと、上から青年の明るい笑い声が降ってきた。
「エドワードさんって、可愛いな」
「なんだよ、それ……」
「ほんと、……可愛いです」
 その言葉にはからかいの色がまったく含まれていなくて、見上げると青年の横顔はまっすぐ前を見ていた。だからまるで空気のように当たり前にその言葉が身体の中に入ってきた。
 心がほかほかとあたたまる。
「それってさ、褒め言葉なのか?」
「……単なる感想です」
 こんなに素直に受け取れる「可愛い」は初めてだった。
「お前、好きな子にもそんなふうに言うの?」
「……さあ、どうでしょうか。なぜです?」
「口説くには向かないなあと思って。ドキドキするより、ああそうなのかって思う。でも言われたら嬉しい、かな」
「意味がよくわかりません」
 横顔が意外なことに不機嫌そうだ。からかっているつもりはないと弁明すると、「誤解なんてしてませんよ」とそっけない。
「だいたい、好きな子なんていません」
「忙しいもんな」
「エドワードさんこそ、どうなんですか?」
「いないよ。最近は夜も外に出ないから、そもそも出会いがない」
 青年が来てからというもの、店を早めに閉めても、定休日も、夜は帰宅する青年を迎えてやりたくて外を出歩かなくなった。酒を飲みたいなら、家でも飲める。
「お前といるほうが楽しいし」
 さんざん酔っぱらった姿を見てしまったので青年には飲ませるとしてもワインの一杯程度だが、つまみをたくさん用意してだらだらとしゃべりながらの晩酌は日々の楽しみだった。それもここ一カ月ほどは片手におさまるほどの回数になってしまった。
 それが今日も含めてあと数日は、ほとんど一日中一緒にいられるのだ。
 幸せだなあと思う。隣を歩いている青年にはゆっくり休んでほしいと思う。
 そして、この休暇が楽しいものになればいいと思う。
 沈んで行く夕陽が美しくて、それきりほとんど無言で歩いた。とても居心地がよかった。


 遅くなった言い訳は一切無用だった。店に来た客の一人がそのあとロックベル家に立ち寄ったそうで、言い訳どころか逆にねぎらわれた。
 といっても自分は別にお客さんというわけではないので台所に立ったら、当然青年も手伝うといって、結局ソファーで夕食が出来るのを待っているのはピナコ一人のみ。おいしく食べてくれたピナコには「いつでも嫁に来られるね。いつにする?」と言われた。もちろん冗談として。
「オレが嫁ならウィンリィは新郎かよ」
「いや、あたしが新郎だよ」
「すげー年の差夫婦だな」
 馬鹿なやり取りを青年は笑って見ていた。ピナコに「アルフォンス、あんたでもいいよ」と言われても、ぴくりともせずに笑顔を浮かべる。
「僕にはピナコさんの妻はとても勤まりませんよ」
「言うねえ」
 満足そうに微笑んだピナコは青年の空いているグラスに酒を注いだ。彼女自身は明日の仕事のために多少嗜む程度だから、ここ最近立て続けにもらったという酒をこの機会に消費してしまおうという心づもりらしい。
 とりとめもない会話の間にも青年は杯を重ねていく。
「ウィンリィもね、あの子の両親が結婚した年を過ぎた。そろそろ誰か連れてくるかと思いきや、そんな気配さらさらないんだよ」
「あいつの恋人は機械鎧だからな」
「エドワードさん、美しいですもんね」
「アルフォンス、助詞が抜けてるぞ、助詞が」
 ウィンリィと初対面のときに見せた足の機械鎧を、それからも数度見せたことがあった。そのたびに青年はおそるおそる、けれど熱心に丹念に機械鎧を眺めた。機械でさえも視線の熱さを感じるものなのかとしみじみ思ったものだ。
「正直、ウィンリィはエドを選ぶもんだとばかり思ってたんだよ」
 それは前にも聞いたことがあったので、これは青年に向かって言っているのだろう。
「ちっちゃい頃から仲良くてね、ウィンリィはいつもこの子の世話を焼いていた」
「逆だ、逆」
 ピナコは反論をまるきり無視し、セロリを一口かじった。
「大きくなってももちろん好きだったんだろう。だけどエドがここを離れてから、機械鎧に打ち込むようになって、修行するといって独り立ちした。あのときに吹っ切ったんだね。まったく、あたしの孫を振るとはいい度胸だよ、この子は」
 やけに感傷的になっているのは酒のせいだろう。ピナコだって酒に飲まれる。
「ま、この子が絶対所帯を持たないってわかったらもうどうしようもなかったんだ。家族はほしいのに」
「ばっちゃん……!」
 咎めるとピナコは苦笑してグラスを掲げた。
「酒で口が滑っちまったよ。それに……ご覧、寝ちまってる」
 青年はテーブルにつっぷしていた。
「あー、つぶれちゃったじゃないか」
「前触れがないんだね、この子」
 食事の後で片付けも終えたため、テーブルの上はグラスとボトル、あとは簡単なおつまみの皿だけで、青年はそれらを綺麗に避けて倒れていた。器用なものだ。
「……運べるかな」
 前回はマスタングが手伝ってくれたが、今日は一人だ。まさかピナコの手を借りるわけにもいかない。
 階段は広いから、背負えばなんとかなるだろうか。
「あとはあたしがしとくから、エド、あんたもお休み」
「ありがと、そうさせてもらうわ。おやすみ」
 ぐったりした青年をどうにか背負い、よたよたと階段を上る。無意識の内にも結構しっかりとしがみついてくれているので、思っていたよりは楽だった。
「飲むのも久しぶりだもんなあ」
 片方のベッドに青年をおろし、靴を脱がせて上掛けでくるむ。服は皺になるがしかたない。
 ぐってりとした青年のために水差しを用意して、窓を少しだけ開けて風を送ってやる。
「……エドワードさん」
 しばらくして青年は薄眼を開けて、ぼんやりと視線をさまよわせた。
「結婚、したくないんですか」
「聞いてたのか」
 ごめんなさい、聞こえましたと謝る青年に、別にお前が気にすることじゃないと返して、すがるように伸ばされた手を取った。
「しないよ、たぶん。はっきり決めたわけじゃない。でも、たぶんしない」
 青年はどうしてかと聞かなかった。包み込んだ手は熱を持っている。
「水、飲むか?」
 ほしいと求めた青年を起こそうとすると、頭がどうにもふらふらするらしくてすぐにベッドに沈んでしまった。ストローはあるかと頭の隅で考えながら、水差しを持って中身を口に含む。青年に覆いかぶさって指で唇をこじあけ、なまあたたかい水を注ぎ込んだ。
 雛に餌を与える親鳥のようだと思いながら、何度も、何度も。

>> 26