二日酔いはどうやら免れたらしい。目が覚めると青年が寝ていたベッドはきれいに直されていて、当の本人はテラスで朝日を浴びていた。今日も気持ちの良い天気だ。ベッドから這い出ると部屋を出て青年の隣に並ぶ。
「昨日は、また迷惑かけてすみませんでした」
「あれはばっちゃのせいだから気にすんな」
 風はわずかに感じるくらいで、絶好の洗濯日和だ。
「今日は何したい? 馬を借りれば湖のほうまで行けるけど」
 いい天気だし、と付け加えると青年は一瞬ためらったように手すりをつかみ、呟いた。
「エドワードさんの家に、行きたい、です」
 途切れ途切れの言葉に、何をそんなに遠慮する必要があるのか不思議に思った。
「俺の家? いいの、そんなんで? あ、昨日言ってたっけ、案内するって。じゃあ朝飯食べたら行って来るか」
 一息置いて「はい」と答えた青年の笑顔が、やたらに眩しかった。


「わー、相変わらず綺麗だなー」
 ピナコや近所のひとが掃除をしてくれるために、玄関を開けても埃まみれにはならない。蜘蛛の巣だって張ってない。勝手知ったる自分の家を、青年を連れて早速書斎へと歩く。
 人の匂いがしない、本の匂いに満たされた家。リビングは家具が置いてある他はがらんどうで、その家具にも埃避けに布がかぶせてある。
 書斎に案内すると青年は感嘆したようだった。
「すごい……」
 壁一面に誂えた本棚はぎっしり埋まっていて、床にはうず高く本が積み上げられている。崩れると生死にかかわるのでかろうじて人の肩の高さまでにとどめてあるが、これでもやはり崩れて下敷きになれば無事では済まない。互いに、倒さないように気をつけながら本の林を縫って進む。
「えーと、化学関係はこの辺りに……」
といってもここにある本は大半が化学や物理学に関係するもので、古典なんかは申し訳程度にしかない。探しているのは、一般の本屋では手に入らないような出版数の少ない専門書だ。
「あー、ほら、あった。この山とこの山、あと、そこの二つ目の山、かな」
 青年にひょいひょいと指し示してやると、彼は「手にとってみてもいいですか?」と聞いてくる。律儀だなあと思いながら「もちろん」と答えると、彼は山の頂から一冊手にとって開いた。
「え……これって……っ」
 古ぼけた本は表紙も背もタイトルが読み取れない。目を見開いて中表紙に釘付けの青年は、己の見たものが信じられないのか、たどたどしくタイトルを指でたどった。
「なんで、あるんだ……」
 驚いた青年に、そんなにすごいものなのかと聞けば、「何言ってるんですか、エドワードさん!」とがっくがっくゆさぶられた。
「これ! 現存するのは三冊だけって言われてて! 一冊は国立図書館、もう一冊はうちの大学図書館の閉架にあるけどおいそれとは見せてもらえない貴重なものなんですよ!」
「残りの一冊は?」
「行方不明でした」
「じゃあ、その一冊がこれなんだろうなあ」
 国内国外を問わずほっつき歩いていた父親は、たまに帰ってくるときは本を大量に抱えていたことが多かった。貴重な本なんだと言うから、触ってもいけないんだと注意していたのに、「もし生活に困ったら売り払っていいからね」と母親に言っているのを聞いて、何のこっちゃと思ったものだった。
「うわあ! こっちは教授が探しててオークションで見つけたけど手が出ないって言ってた本! なんなんですかここ、エドワードさんのお父さんってどういう人なんですか!?」
「一応、学者……みたいな?」
「一応とか、みたいなとか、そんなレベルの蔵書じゃないですよこれ!」
「そう、なのか?」
「もうここ宝物だらけですよ!」
 久し振りに興奮している青年は、順繰りに本のタイトルを確認しては歓声を上げている。ああ、こういう性格だったのか。
「好きなだけ持ってっていいぞ。オレ、いらないし」
「馬鹿ですか、あなた!」
 馬鹿って言われた。
「アルフォンス、お前――」
「いいですか、エドワードさん? こんな貴重本、一介の学生に過ぎない僕なんかが持ってたらおかしいんですよあっというまにとられて国立図書館とかにしまいこまれちゃいますよ! そうしたら滅多に読めませんそんなもったいないこと出来ますか無理です無理もったいない!」
 ひとしきりまくしたてた青年は、一言できっぱり、
「ここで読みます」
と。
 そのままそこに蹲って、読み始めた。
「おーい、アルフォンスー」
 呼びかけても一切返事なし。超真剣だ。
 何回繰り返してもそんな感じなので、しかたなくあきらめた。もうこれは、梃子でも動くまい。
 しかたがないので、回りの山を少しずつ動かして、青年が辺りを確認せずに立ち上がってもぶつかることがないようにスペースを作ってやった。あとは、腰が痛くなったときように椅子をすぐに見えるところに置いて、その上にメモを残した。
『昼にまた来るから』
 書斎を出て、家を見てまわる。どこか変わったところはないか。といっても、めったに帰ってこないし、こんなところまで盗みに入る輩があろうはずもない。どの部屋も、家具に布がかぶせてあって、布のオブジェを飾った小さな美術館のようだ。キッチンやバスルーム、トイレといった水回り部分はそんなふうに覆うことも出来ないので、そこだけわずかに人のいる匂いがする。バスルームやトイレに入って、「うちに帰ってきたんだなあ」と実感出来るのは、ありがたいのやらさみしいのやら。
 ともかくも、そうやって家の中をうろうろしているうちに小さい頃を思い出して、ここは自分にとっての家に戻って行く。もう、自分以外は誰も帰らない家。
 書斎に一人、新しい家族のような存在がいることを思い出して、自然に口元がほころんだ。あの調子ではピナコの家に戻る時間も惜しいなどと考えていそうだ――あるいは、時間などすっかり忘れて没頭しているかもしれない。
 今晩はこっちに泊まるかな。ベッドが用意出来そうだったら。
「あとでばっちゃのところからシーツと毛布もらってくるか」
 自室のベッドにはさすがにそういうものは残っていなかった。あったとしても、日干ししないと使いたくない。そもそもタオルや衣服の類はあらかた処分したと言われたのだった。まだ着られるものは村のひとで分けたと聞いた。どうせ捨てるつもりのものだったから役立ててもらえたならありがたいと思う。
 窓を開け、はたきをかけて、空気を入れ替え、モップで床を水拭きに加え空拭きをすると、たいして時間もかからないうちに、ひとの過ごせる部屋になった。本当に、ここを維持してくれる村のひとの親切の賜物だ。
 電気は止めたが、水道は通っているのでトイレは使える。さっき一通り見まわったときにしばらく水を出しっぱなしにしていたので、管にたまっていた分は出て、臭みも抜けているだろう。
 一応書斎の前を通るとき、中に向けて「ばっちゃのとこ行ってくる」と呼びかけてみたが、返事はなく、青年の姿も本の影に隠れて見えなかった。
 ピナコの家に戻ると、昨日の店の主人が来ていて、久しぶりと挨拶を交わすと、昨日のことで礼を言われた。
「本当に助かったよ、ありがとう」
「いや、お互い様ってやつだよ」
「もう一人は?」
「あー、アルフォンスは今うちで読書に没頭中。書斎で本に埋もれてる」
「ということは学者志望かな」
「そ。すげー楽しそうだった」
 呼びかける声がまったく聞こえないくらいにな、と付け加えると、店の主人は苦笑した。
「ほっとかれてさみしいのかい?」
「んー……そう見える?」
 うん、と頷く主人にがっくり肩がおちる。
「せっかく休ませようと思って連れてきたのにさ、あれじゃ寝不足決定だよ」
「でも楽しそうなら、気分的に楽にはなるんじゃないか?」
 そうかもしれない。ということは、やっぱり自分はさみしいのだろうか。放っておかれて。
 それよりも、と主人は言う。
「娘にアルフォンスと聞いたときは驚いたよ。アルが帰ってきたのかって。それで確かめようと思って来たんだが」
「ばっちゃに聞いたんだろ? 違うよ、彼はアルフォンス・ハイデリヒ。正真正銘、アルとは赤の他人」
「……アルは?」
「見つからないけど……案外どっかで元気に暮らしてるんじゃないかって思うんだ。なんとなく、わかる」
 だからそんな沈んだ顔をするなと、うなだれる主人を励ましてみたけれど、励ますほうと励まされるほうがこれでは逆だ。
 もし誰か他の人に聞かれたらアルじゃないと伝えてくれと頼んだら、主人は一も二もなく請け負ってくれた。
「娘が、いい人だって言ってたよ、アルフォンスくんのこと」
「おう。いいやつだぞー。気が利くし頭いいし料理も出来るしその他の家事もばっちりだ」
「娘はエドのほうがいいみたいだけどな。……おのれ、エドワード! 娘はまだやらんからな!」
「まだってことは、そのうちってこと?」
「いや、一生やらん!」
 可愛い娘を溺愛する父親にとって若い男はおしなべて敵らしい。それは自分も例外じゃないのか、父親の目は存外に真剣だ。
 もし、あの戦争がなかったら。リゼンブールが戦乱に撒きこまれることがなかったら。
 今も当たり前みたいにここに暮らして、可愛いお嫁さんをもらってこどもが出来て、こんなふうに娘のつきあう相手を気にしたりしていたのだろうか。
 それとも平和だったら、この村に飽きて街へ出て、いろいろな相手と出会って今みたいに身をかためないままでいただろうか。
 考えるだけ無駄なことではあるけれど、このことが自分の性的志向に影響を与えたのかどうかは気になったことがあった。田舎町では住みにくいことは確かだし、でもここにいたら一生気付かなかったかなとも思う。可愛い孫を祖母がわりであるピナコに見せられないのは少し残念だった。自分だってこどもは好きなのだし。
 店の主人が帰って行ったあと、仕事中のピナコに聞いてみた。
「ばっちゃは孫の顔って見てみたい?」
「ウィンリィはあれじゃ孫の顔どころじゃないだろうよ。職人として腕を磨くほうが楽しいんだから」
「いや、オレの子」
「ふむ」
 ピナコは工具を置いてこちらを見上げた。
「結婚をするつもりはないんだろう?」
「今のところは」
「嘘をお言いでないよ、まったく。父親の影響は絶大だねえ」
 関係ない、とは言えない。自覚がある。
「まあ、結婚しなくたってこどもがいなくたって、家族は出来るんだ。それでいいんじゃないかい? 現に、アタシもウィンリィも、イズミさんたちだっているんだしね」
 頭の隅でいつももやもやと居座っていたものの正体がわかったと同時に、さあっと晴れていく。ピナコを祖母、ウィンリィを姉か妹だと思っていても、イズミに母親代わりだと言われていても、家族だとは思っていても、どこかで縁の不確かさを感じてしまっていたのだろう。案外自分は血のつながりというものを一番信じられるものだと思っていたのだ。馬鹿らしい。血のつながった父親を、一番信じていなかったというのに。
 自分のようなこどもになる可能性がゼロではないからこどもは作らない。その一方で、血のつながった家族がほしい。その矛盾を無意識のうちに抱え込んでいた。
 新しく出会って、自分から手をとって、同じ家で一緒に暮らしたいと思った初めての相手が、いる。ピナコの言葉がするりと心の隙間におさまったのは、きっとそのためだ。
「ありがと。オレさ、幸せだよ」
「そうかいそうかい」
 言葉こそおざなりだったが、もともと細い目をますます細くしたピナコは満足げに微笑んでいた。
 さあ、お昼は青年に何を持っていってやろうか。

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