後片付けなんかをしてから、お弁当を持って家を出た。空は晴れ渡っていて、出かけるには絶好の日和だ。自然とはずむ心のまま、近所に馬を借りに行ったらあいにくと出払っていた。
「すまないねえ」
「いや、いきなり貸してくれってこっちのわがままなんだから気にしないで」
 そう言ってもしきりとすまなそうに眉を下げる人の良い老男は、この馬なら力があるから二人くらい乗れるんだが、と一頭だけ残っていた馬を指した。
 かわりばんこに歩けばいいかとありがたくその一頭を借りることにして、じゃあお先にどうぞ、と青年に勧めたところ、手綱を引いた青年に「どうぞ」と乗るように示された。
 すぐ変わればいいか、と先に跨れば、青年は手綱を寄こして「少し詰めれくれますか」と言う。なぜ、と思いながらも言われたとおりに前に詰めると、青年はもたつくことなくひらりと馬に飛び乗った。
「え? ちょっ、アルフォンス!?」
「しっかりしたいい馬ですね。ありがとうございます」
 青年は老人に会釈をすると、軽く馬のしりを蹴った。軽快に歩を刻みだした馬の上で、こっちは混乱しきりだ。
「順番じゃないのか!?」
「二人乗れるって言ってましたよ」
「だって、狭いだろ」
「そんなに長い間じゃなければ平気でしょう」
 目的地まで歩きならともかく駆ければそう遠くはない。青年のいうことには一理ある。けれど、それとこれとはなんだか別問題のような気がするのだ。
「この馬も大柄な方ですし、あんまり狭くもないですよ」
「……それはオレが平均より若干小柄なほうだからと言いたいのか」
「エドワードさんが小さいからなんて言ってませんよ?」
 ああ、そうか。引っ掛かっていたのはこれか。成年男子とがっしりした体形ではなくともそれなりの体格をした男子が二人乗りしてもそう狭くないことが示す事実か!
 穏やかに降り注ぐ日の光が恨めしい。むかむかした腹立ちも、ぽかぽか陽気で馬に揺られているとどうにも持続しがたい。草原の一本道を過ぎて山に入る頃にはすっかり機嫌も直ってしまった。
「馬に慣れてるんだな」
「ええ、まあ。一応乗馬の指導は受けました」
「さすが領主の息子。なんつーか、乗り方も品がいい感じがする」
 頭の後ろで青年が、ふふっと笑う気配がした。
「でも町中の人でなければ、たいていは馬に乗れますよね。移動手段として車はそれほど一般的ではありませんから」
「田舎は道が整備されてないからなあ。農業用に持ってる人はいるけど、たいていは馬に荷車引かせてるな」
「エドワードさんはどなたに習ったんですか、乗馬」
 幼い頃は大人のいないところでの乗馬などもってのほかだったし(なにせ、馬は家族であり資源だ)、母は幼いこどもたちにそうさせる必要性を感じていなかった。この村を出て各地を転々としている間、移動手段として身につけたものだ。
「見よう見まね、かな。誰っていうわけじゃないけど……あえて言うなら、馬」
「馬?」
 人ではないのだ。
「最初に乗った馬。馬のよしあしってよくわかんないけど、真っ黒ですらっとした綺麗な馬でさ。すごく穏やかで、ガキのオレにもおとなしく扱われてくれて、馬具もなにもなかったのに乗れたのは、その馬のおかげ。それでちょっとだけコツをつかんで、そのあとは慣れ」
「よっぽどいい馬だったんですね」
「オレの命の恩人でもあるんだ」
 青年が驚いた様子が触れた背中を通じて伝わってきた。それは驚くだろう、指南役で命の恩人が馬だなんて。
「この村を出たあと、あっちこっちに行ったけどうまく小遣い稼ぎ出来ないときはやっぱり碌に食えないこともあったんだ。それでいつだったかな、行き倒れてたらその馬が目の前に現れた」
 その馬は、道端の、ちょうど段々に並んでいる岩の横にそっとたたずんだ。これを足がかりになさい、とでも言うような仕草に誘われて、必死に乗った。馬は淡々と道なりに進み、辿り着いた先の家に保護されたのだ。
「連れ戻してくれてありがとう、って感謝されたんだけど、ありゃどう見ても馬に拾われたんだよ、オレ。いい人たちだったなー」
「いい廻り合わせだったんですね」
「人生には二、三度はそういうことがあるんだと思う。オレにとって、一度目はその馬、二度目は師匠なんだろう」
「三度目は?」
「まだ無いか、もう無いな」
 そうですか、と青年は呟いた。
「その方々と馬には、その後会いに行ったんですか?」
「行ったけど引っ越してて、行方知れずだ。でもきっとどっかで人助けしてそうな気はする」
いつか会えたらいいですね」
「うん」
 山道ではあるが十分な広さがあって、ぽくぽくと馬も快適そうに歩いている。木の間からは時折、目的地が見えた。
「あそこだよ」
 指し示してもタイミングと角度が悪いのか青年には見えづらいらしい。
「ほら、そこ」
 顔を寄せて青年の視線に合うように指をさすと、ようやく青年は「ああ」と頷いた。
「もうすぐですね」
「だと思うだろ? でもあとひとまわりってとこだな」
「……山ですもんね」
 苦笑する青年は、それでも馬を急かすことなく一定の速度を保ち続ける。歩きだったら近道があると教えれば、「エドワードさんはそういうの好きそうですね」と言われた。
「近道が、ってこと?」
「というか、裏道とか細い道とかけもの道とか」
「……それはオレが小さいから通りやすいだろうということか?」
「曲解が過ぎますよ、エドワードさん」
 くすくすと笑う姿からはからかわれていることも伝わってくるが、あまり腹は立たない。もうとにかく、馬のかぽかぽ刻むリズムと頬を撫でる風と背中の体温が気持ちよすぎるのだ。こうやってしゃべってでもいないと眠ってしまいそうなくらいに。

 予定通り山をもうひとまわりして着いたのは、木々に囲まれた湖だった。山の中腹にあって山頂から地下を伝ってゆっくりと流れてくる水が湧き出ている、透明度の高い湖で、水底からまた地下に浸みわたっていくから、ひらけたその場所には本当にただ湖だけがあった。馬から下りた青年はぐるりと辺りを見渡して不思議そうに首を傾げた。
「川がない」
と。
 理由を教えてやると青年はやはり首を傾げたまま、「初めて見ました」と湖のまわりと歩きだした。
「どこまで行っても川なんてないぞ」
 手綱を幹にくくりつけ、具合のよさそうな場所を選んでシートを敷く。湖のまわりはたいてい日陰になって湿っているから、座るとひんやりした。シートの裏には草の汁で染みが出来るだろう。
 湖はそう大きくない。放っておくとしばらくして一周した青年が戻ってきた。
「おかえり。無かっただろ?」
「はい。循環がスムーズじゃなさそうなのに、水がきれいですね」
「湧水なんだ。で、湧いた水は土に浸みて地中で川になる」
「地中で?」
「だから魚もいないだろ」
 風が吹かなければ湖面もほとんど揺れることはない。じっと静かに眺めた青年は、まるで鏡のようだと評した。
「綺麗です」
 一度口をつぐんだ彼は、ぽつりとつぶやいた。
「でも、寂しい」
 どういうことかと聞いてみれば、青年は「そうは思いませんか?」と逆に聞き返してくる。
「どうかな」
 生き物がいないから寂しい。音がないから寂しい。自分一人しかいないから寂しい。ある種、外の世界から隔離されているから。
 けれど、知らない街中で、人込みの中で取り残されるあの感じと比べれば、こちらのほうがずっといいんじゃないかと思う。ピナコがいた、ウィンリィがいた、幼い頃から見守ってくれた人たちがいた、それなのに母親と弟がいないことでこの世にひとりぼっちだと泣いていたのはもう過去のことで、ここにいれば彼らはすぐそこに在る。青年にとってこの地は故郷ではないから、感じるものは違うのだろう。
 静かといっても、小鳥のさえずりは聞こえるし、風に揺れて葉が音を立てる。弁当を開ければ、徐々に会話は弾みだす。湖のまわりは、いつもよりわずかばかり、賑やかになった。
 食後のお茶をすすりながら、空を見上げる。本当にいい天気で、湖をぐるっと囲む木に切り取られ、少しでこぼこした円の形に青空が広がっていた。話すことはいくらでもあった。特に青年はここ最近は忙しくて生活もすれ違い気味だったから、町にいたころに交わす言葉といえば、朝夜の挨拶に弁当忘れるな、帰る時間は、ちゃんと寝ろよ、どうこう。会話だけ抜き出すと、まるで母と子のようだ。
 青年の話は当たり前だが大学での出来事で、忙しくふらふらになりながらも他の学生と仲良くやっている様子がうかがえた。
 この間、同科の教授であるオースティンが言っていたことを思い出して聞いてみようかと思ったところで、青年に先ほどの馬の話から旅先でのことを請われるままに話すことになった。
 なぜか、青年に対しては、己の生い立ちを直接教えたことはほとんどなかった。一部を、彼の両親が来たときに話しただけ。母親が亡くなっていることも、生物学上の父親は行方不明であることも、戦禍にあって片足を失ったことも、弟がいることも。
 何か思うところがあるのか、ヒューズもグレイシアもマスタングもハボックも、青年が弟に似ているのだということを彼に教えていなかった。
 あまり気にもとめていなかったが、もしかしたら自分が彼に教えるのをためらっていて、彼らはそれを敏感に悟っているのかもしれない。
 まるで身代りにしているようだ、と片時でも考えてしまったからか。
「オレがまだ小さい頃、国境付近で隣国と小競り合いがあって、それが戦争に発展した」
 それは知っているだろう、と相槌を求めれば、青年は無言で頷いた。
「この村も巻きこまれた。逃げる仕度をしていたところを襲撃されて……あっちこっちで火の手が上がった。これさ、この足は逃げる途中で燃えて倒れてきた木の下敷きになったんだ。戦争で母さんは死んで、弟とははぐれた」
 わずかに見開かれた目は、しかしすぐに元の穏やかで真剣なまなざしに戻った。おおげさに驚いてほしいわけではないと汲んでくれたのだろう。
「オレ、絶対弟は死んでないって思ってさ。ばっちゃに機械鎧作ってもらって、弟を捜しに出たんだ。ガキだったんだよ、闇雲に捜しまわったってしょうがないのに、じっとしてられなくて。さっきの馬の話はその旅の途中な。身体は丈夫だったし、自分で言うのもなんだけどガキらしい要領の良さっていうの? そういうのあったからさ、一度生き倒れたのは置いとけばあとはけっこううまくあっちこっち行けたんだ。で、今住んでる町に行ったらイズミ師匠と会って……」
 結果的にあの出会いは良かったと思えるが、出会いそのものの背景は語りたくない。とりあえず、ぶん殴られて正座させられて説教をくらった。そこのところは省くことにする。
「いつまでもふらふらしてるんじゃないよって叱られて、店に置いてもらうことになったんだ。それでオレは店に来る客に弟の名前や特徴を話して、何かそれらしい情報があったら、休みの日に捜しに行ってみたりしてさ。そんな生活してたんだ」
「でも、エドワードさんは休日もお店にいますよね。……言ってくれれば留守番くらいしたのに」
 遠慮しているのではないかと言外に含められたのに対し、違うのだと否定した。
「なんとなくなんだけどさ、あいつは生きてて、どっかで楽しくやってんじゃないかなって思うようになったんだ。もしこの世にいなかったら、オレはちゃんとわかるんじゃないかって。……双子じゃなくたってシンクロすることって何かしらあると思うんだよ」
 神妙な面持ちの青年に、本心から言っているのだと伝えるために笑ってみせる。
「弟さんの顔とか名前とか、教えてくれませんか? 知っている可能性はゼロじゃない」
「アルフォンス」
「はい」
「オレの弟、アルフォンスって言うんだ」
「え……」
「お前と同じ名前。すっげー偶然だろ」
 一瞬、驚愕に顔をゆがませた青年は、まるで隠すみたいに俯いた。そう、なんですか……とたどたどしく呟く声は、辺りの静けさにすら紛れ込んでしまいそうなほどに力ないものだった。
「あなた、が……」
 僕を拾ってくれたのは、いなくなった弟さんを重ねたからですか?
 本当に、小さな小さな声。そんなにも衝撃を受けることなのだろうか。失礼だが、疑問に思った。
「違う。……いや、最初はそういう部分もあったかもしれないけど……お前、アルとは違うだろ。新しく弟が出来たみたいだって思うようになった。……なあ、少しでもオレがアルと重ねて見たってのが嫌だったなら謝る。ごめん」
  疑問に思っても、失礼なことをしたのは確かなので、自然に頭が下がった。しかし、青年は俯いて膝を抱えたまま首を横に振る。そうじゃないんだとばかりに。
「謝ってもらう必要、なんて、ありません……」
 消え入りそうな声は、ひどく震えていた。
「アルフォンス……?」
「僕は、あなたにとって、弟……ですか?」
「ああ。アルフォンス・エルリックじゃなくてアルフォンス・ハイデリヒとして、な。こんな兄貴じゃだめってんなら、それはまた謝らなきゃいけないけど」
 違う、違うと青年は否定する。
「僕は、弟じゃ嫌だ。あなたのことが好き。一人の男として

 時間が、止まった気がした。



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