一人の男、というのが一人前の男としてとか、弟と同一視しないでとか、そんなことを指しているのではないことはわかった。
 しかし青年は――アルフォンスは、わかってもらえないと思ったのか、なおも言い募る。
「僕はあなたのことが好きです。好きなんだ。兄でもなんでもない、あなたが先生を好きだったように、僕はあなたを愛している」
 もう、誤解しようもない。が、身の内にわいたのは戸惑いでしかなかった。顔を上げたアルフォンスの目からは涙がこぼれた。
「先生でさえ来たことがないのに、ここに連れて来てくれたときは嬉しかったです。先生ですら入れてもらえないあなたの領域に僕は入れてもらえた。けれど、あなたにとって僕は所詮、弟でしかないんですね」
「所詮って何だよ。お前に弟も、お前自身も貶める権利はない」
「キスだって、あなたにとっては単なる口移しでしかなかった」
 脳裏に、二度、水を己の口に含んで与えたときのことが浮かんだ。当然だ、あれは水分を取らせるための手段に過ぎない。
 僕は嬉しかったのに……と非難めいた口調で責められても腹は立たなかった。
「あなたは、口では拒みながら先生の気持ちを受け入れている。だから、あんなことだって受け入れる」
「……見てたのかよ」
「ねえ、エドワードさん」
 涙でゆらぐアルフォンスの瞳には、この瞬間自分しか映っていない。エドワード、という存在しか映っていない。
 それが嬉しいのかどうかはわからなかった。
 ただ、怖いくらいに真剣なのだと思った。
「僕は、何をしたらあなたの中に入れてもらえますか?」
 こんな目をするのか。淫靡にも聞こえる言葉がアルフォンスから放たれる。
 伸ばされた手に頬をゆるく撫でられた。その手つきは、まるでマスタングが触れてくるときのよう――
「っ、やめろ!」
 パシンと軽い音を立てて振り払うと、アルフォンスは痛がるでもなく、ましてやひるむでもなく、顔を寄せてきた。さっきまで力なく俯いていたのが嘘みたいだった。
 確かに、彼は一人の男だった。間近にせまるその強い視線。肌で感じる息。愛している、と囁く熱い言葉。
 誰だ、これは。この男は誰だ。
「アル、フォンス……」
 自分の知っている青年なのだと確かめるように呟いた名前に、男は笑った。
 エドワード、と呼ぶ。
 違う。これはアルフォンスじゃない。だって彼は、いつも穏やかで、真面目で、一生懸命で、優しくて、礼儀正しくて、こんなふうに、怖いと思ったことなんてなかった。背筋がぞくっと震える。
「嫌だっ、やめてくれ!」
 今度こそ力を込めて振り払い、押し返すと、男は一瞬息を呑み、そしておとなしく引き下がった。
 張り詰めた空気が途端に霧消する。取ってかわったのは、ひんやりとして静かな風の音だった。おそるおそる顔を上げると、そこにはもう、困ったように苦笑いを浮かべる青年がいた。
「帰ります。まだ汽車はあるはずだから」
 立ちあがって背を向ける青年はそのまま歩きだした。頭の中はまだ整理がついていない。呼びとめる言葉が出てこなくて、馬に乗って行けと言うのが精いっぱいだった。
 アルフォンスは、「さようなら」も「また、あとで」も何も残していかなかった。
 すぐそこにある繁みをかきわければ、斜面を伝ってアルフォンスを追いかけられるはずだ。
 けれど、座りこんだまま力が入らない。混乱は激しくなっていく一方で、ロックベル家に帰ったのは日が暮れてからだった。何かあったのだとわかっているはずなのに、ピナコが何も聞かないでいてくれるのがありがたかった。


 夜中ずっと起きていても答えは出ず、朝を迎えた。そもそも何の答えを出せというのだろう。アルフォンスを以前のマスタングのように想えるか? 今までつきあってきた恋人たちと同じように想えるか? アルフォンスを抱く? 抱かれる?
 考えたこともない選択肢をつきつけられ、なぜいまさらあんなことを、とアルフォンスに対する憤りすら感じた。そんな素振りなんて一度も見せなかったくせに。
 翌日、リゼンブールから戻る足取りは重かった。今日の夜にはアルフォンスと顔を合わせることになる。どうしたらいいのかわからない。どんな態度を取ったらいいのか。
 延々と悩む時間は店に帰って二階に上がった途端、別の不安にとって代わられた。
 開いているアルフォンスの部屋のドア。がらんどうの部屋の中。本も、服も、こまごまとしたものも、すべてが無くなっていた。
 テーブルの上には、白い紙が一枚きり。
『お世話になりました。いままで、どうもありがとう』
 紙切れ一つを残して、アルフォンスはいなくなった。



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