その日はいつもどおりの日だった。起きて、朝食をとって、ハボックが来て、買いだしに行って、ランチで奥様方を出迎え、夕方になってまた店を開けて、客が来て、ヒューズは妻と娘を連れてきた。しばらくは遠慮がちに降っていた雨は、そのうちどしゃ降りになった。
 彼に気づいたのはどしゃ降りになる少し前のことだった。何があったわけでもなく、ふと窓の外に目をやったときに通りを歩いてきた姿が目に映った。扉に寄って来たから客かと思ったら、彼は店に入ることなく姿を消した。てっきり通り過ぎたのかと視線を手元に戻すと急に雨音が大きくなった。傘を持ってきていないのにと嘆く客の声に、忘れ去られて持ち主を失った傘のストックで足りるだろうかとそらで数えているところに、客が駆け入ってきた。急に降って参ったよ、と愚痴をこぼす常連客の向こうに、彼が見えた。扉の上は庇があるから雨宿りをしているのだろう、段になっているところに腰をおろしていた。客の出入りのたびに邪魔にならないように避ける後姿が気になった。知っている、と思ったのだ。
 会ったことがあるわけじゃない。大きさは違うけれど、しゃがんで何かを見ている弟のこじんまりとした背中に似ていた。だから確かに「知っている」のだった。
『そんなとこに座ってられるとさ、客の出入りに邪魔なんだけど』
 振り返った彼は背中以上に弟によく似ていた。想像した確信の中の弟、アルフォンスに。
『すみません。急に降って来たものだから、雨宿りさせてもらっていました。小降りになってきたのでこれで失礼しますね。ありがとうございました』
 小降りの頃からそこにそうしていたくせに、と思いながら彼の服を掴んだ。ヒューズに指摘されたように、わけありなのはわかっていた。仕立てのいい服でそれなりの家の子だとは知れたし、焼け出されたとか追い出されたというような陰もない。家出少年――この場合は家出青年か――とは深く考えなくても答えが出る。
 声をかけた。店に入れた。事情を聴いた。選択肢は一つになった。
 ここで暮らせ、と提案した。彼は受け入れた。店から場面は二階へと切り替わった。記憶をたどる映像は、夢なのだとおぼろげに理解する。
『いままでお世話になりました』
 彼は頭を下げた。きちんと躾けられたことをうかがわせる丁寧で完璧なお辞儀。それに対してこっちはおたまを片手に振りかえる。そう、昼食の支度をしているところだった。
『え?』
 何を言い出すのかと驚いて動けないでいると、彼は苦笑する。
『やだなあ、エドワードさん。昨日言ったでしょう。卒業したから家に帰るって。荷物はもうまとめてありますから、後で業者さんが取りにきます。それじゃ、本当にありがとうございました。お元気で』
 あっさりと身をひるがえす彼に、どうして、と問いかけても振り返ってはくれなかった。卒業なんてまだずっと先のことだった。卒業してもこの道を進むのだと言っていた。そうしたら、ずっとここにいるはずだっただろう。そんな、あっさりと。去ってしまえるなんて。送り出す心の用意なんて出来ていない。
 でも夢だから。これはいずれ来る未来のうちの一つ。
 でも夢なのに。名前を呼んで、振り返ってもらえないのに呼んで、呼び続けるこの痛みがやけに現実味を帯びていた。痛い。


『アルフォンス』


「ああ、おはようございます、寝坊助のエドワードさん。あははっ、よだれのあと、ついちゃってますよ」
 流しに向かっていた彼は振り返って笑った。部屋にただよういい匂い。朝ごはんは彼のお手製だ。
「昨日、だいぶ飲んでましたね。だめですよ、二日酔いになるほど飲んじゃ」
 あー、悪ぃ。でもお前も酔いつぶれてたことあったじゃん。人のこと言えないだろー?
「……もう。そのことは忘れてくださいよ」
 口をとがらせ、すねてしまったのか、彼はそっぽをむいた。そのまま「とにかく顔を洗ってさっぱりしてきてください」と言ってくる。
 寝坊して、誰かがいて、朝の支度をして迎えてくれる。洗面所に追い立てられて、顔を洗って、テーブルにつけば、香り立つ紅茶が出される。なんていい朝だろう。誰かと暮らす生活。かたわらに誰かがいる生活。
 幸せってこういうことを言うんだろうな。
「いきなりどうしたんですか」
 なんでもない。……いや、違う。お前がいなくなる夢を見ちゃったんだ。
「変なエドワードさん」
 うん、おかしいよな。お前はここにいるのに。
「本当に変ですよ」
 なんで?
「だって僕、戻ってなんていませんから」


 『あなたが僕を拒絶したんです』


 目が覚めた。馴染みのある天井の染み、何の変哲もない匂い。いつもの、店の二階。毎日を過ごす場所。
 伸ばした手は何もつかめなかった。
 呆然として、何もつかんでいない手を眺め、朝が来たことをぼんやりと認識する。
「夢、か……」
 アルフォンスはいない。いつもの光景に、ひとが一人足りなかった。
 ベッドから下りて、隣の部屋をのぞく。空っぽだ。がらんどうで、ぽっかりと無くなってしまった、中身の無い部屋になってしまった。
 夢の中でまでいなくなった彼は、もちろん現実にもいなかった。
 先週、帰宅してテーブルの上に載っていた置き手紙を見つけた。表には『お世話になりました。いままで、どうもありがとう』とだけ。咄嗟に生じた憤りと、他に自分でもわからない衝動と、悲嘆で、ベッドに飛び込み、身を縮こまらせているうちに眠りにおちた。毛布は十分あたたかいはずなのに、ひどく寒かった。
 翌朝、ひょっとしたら帰ってきているかも、と思ってわずかばかりの期待を胸に起きたが、やはり期待はあっさりと打ち砕かれた。かわりに、置き手紙の裏にもまだ何かが書かれているのを見つけた。
『ハボックさんには、研究が忙しくて大学にしばらく泊まり込むことになったとお伝えください』
 二人の間に何かあったのだと勘繰られることを避けるためなのだろう。そんな言い訳を残していくなんて、ずいぶんと用意のいいことだ。
 ただ、ハボックは勘がよかった。しかし、詮索してほしくない心情を慮ることのできる男だった。
 だから、あからさまに何かあったのだという空気をまとう自分に、何も聞こうとしなかった。そうやって、アルフォンスが来る前と表面だけは同じように、一週間が過ぎた。
 一週間だ。いない時間のほうがずっとずっと長かったのに。
 アルフォンスがいないことに、いまだに慣れない。


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