「ええ。大学が忙しくて泊まり込みなんですよ」
 大学が始まってからは休日だけの手伝いで店に出ていたアルフォンスの姿がさっぱり見えなくなり、どうしたのかと客に聞かれて答えるのも、もう慣れたものだ。口から勝手に出てきて、顔には勝手に苦笑が浮かぶ。
「大変ねえ。そういえばマスタングさんもここのところお見かけしていないものね」
 今もアルフォンスのことを聞いてきたご婦人は、エドワードの答えを受けて、そんなことを言った。
 指摘通り、マスタングも最近姿を見せない。一時期はうるさいくらいに通って来ていたというのに。
 実際、何らかの研究が佳境に入って本当に忙しいのかもしれない。だから、それが終わればアルフォンスだって――
「エドワード?」
 しばし意識が飛んでいたらしい。気づけば常連のその婦人が訝しげに見つめている。
「あ、ああ、すいません。ちょっとぼーっとしちゃって」
「珍しいわね。でもこの陽気だもの、無理はないわ」
 婦人は窓の外を眺め、燦々と降り注ぐ陽の光に満足げに目を細めた。
「雨が続いていたうえに寒かったから、ようやくお布団を干してきたの。今日はお日様の匂いのベッドで眠れるわ」
「いいですね。オレも後で干しておこうかな」
「干すなら早めになさい。日が落ちたらすぐに冷えるから、せっかく干してもじめじめしてしまうから」
「そうします。食後は紅茶になさいますか?」
「ミルクをつけてちょうだいな」
「かしこまりました」
 ランチの時間が過ぎ、客がのいたところで二階へ上がって布団を干すことにした。自分の分が一枚、と、アルフォンスが置いて行った分が一枚。
 干しているときに思ったのは、匂いってけっこう残るものなんだな、ということ。
 窓枠に半分折にした布団をかけ、だらんともたれてみる。呼吸をすれば、もうなじんだ匂いが入ってくる。わけもわからず、鼻の奥が、きゅっとつまった。
 こういう匂いをしていたんだと、離れてから初めて知った。
「大将〜、足りないものの買出しに……って何してんの?」
 二階の入口から顔をのぞかせたハボックが、布団でカバーした窓枠と仲良くしているエドワードを見て、首を傾げた。
「ん? 干してんの」
「大将がもたれてちゃ、布団潰れちゃうでしょうが」
「いいんだ。使わないんだし」
「でも干すんだ?」
「冬になったらオレが使うかもしれないから」
 へえ、と相槌を打ったハボックが、火のつかないタバコをくわえた。ハボックはがっしりとして背が高い。アルフォンスは少しひょろっとして背が高かった。
「なあ、なんで何も聞かないんだ?」
「聞いてほしいの?」
「わからない」
 そう、いろんなことがわからない。
 眼下の通りをゆく人々にもわからないことはたくさんあるはずなのに、誰もが何もかもをわかっているように見える。これもある種の現実逃避なのかもしれない。
「つーか、聞かなくてもわかるっていうかね」
「聞かなくてもわかる?」
 ハボックは、両手の人差し指を立てて並べる。右手の人差し指がエドワード、左手の人差し指がアルフォンス。そして左手を背中に隠して言った。
「こうなってから、大将がおかしくなった。ってことは、二人の間に何かがあった。そして、得てしてそれは色恋沙汰である。……大方、アルが大将に告って、大将がびっくりして『お前は弟みたいなもんだから!』とか言っちゃったんじゃないのかって、想像はつきます」
「すごいな……」
 大筋はばっちり合っている。まるで魔法使いか占い師みたいだ。
「で、どうするんです?」
「わかんね」
 ハボックの視線に、エドワードはもう一度つぶやいた。
「わかんないんだ……」
 通りでは誰かの名前を呼ぶ声と「待ってよ、おにいちゃん!」とうったえる可愛い声が上がった。小さなこどもを追って、さらに小さなこどもが走っている。
「あ」
 ちょうど店先で、妹のほうが転んだ。べちょんと顔から地面につっこんで、鼻をすりむいたらしく赤い鼻をして、ふえええんと泣きだした。近くを歩いていたひとが助け起こすより先に、前を行っていたお兄ちゃんがパッと振り向いて駆け寄る。
「大丈夫! いたくない、いたくない!」
 いたいよお!とぽろぽろ涙を流す妹の顔を、ポケットから出したくっしゃくしゃのハンカチで拭いてやっている。消毒薬でも持って行ってやるか、と身体を起こしたところで、むかいの店から出てきた主人が、いいよいいよ、というふうにエドワードに手を振ってみせた。片手に何か持っている。
「ほら、顔洗ってバンソウコウ貼ればあっという間に治るって!」
 主人に手当をされている妹の頭を、兄はずっと撫でていた。手当が終わると兄はまじめくさった声で「ありがとうございました」と頭を下げ、まだぐずっている妹にも挨拶をさせて、今度は二人で手をつないで歩いて行く。
「ああいうのじゃ、駄目なのかなあ」
 当たり前みたいに一緒にいて、当たり前みたいに手をつなぐ。
 でもアルフォンスが求めているのは、そういうものじゃない。それだけはわかっている。
 だから、アルフォンスと自分の気持ちは絶対に交差することがない。
「気持ちには答えられないけど、これまでどおり、ってわけにはいかないのかなあ……」
「そりゃ駄目に決まってる」
 ハボックは一も二もなく切り捨てた。
「最悪、っつーか最低っすよ。そんなん、両方がよっぽど綺麗事が好きじゃないと無理です」
「なんでオレだったんだろ。もっと、色々いるのに」
「それ、本人の前で言ってないでしょうね?」
 エドワードは首を振った。さすがに言えるはずがない。それくらいの分別はある。
 ただ、その疑問もまた、あの告白から身の内の渦巻いている。他にもっといるだろう。あんなふうに告白したりしなければ、今日もここでさっきの兄妹の微笑ましい光景を隣で眺めていたかもしれないのに。あんな告白、無ければ――
「最低だ、オレ……」
 ひとに焦がれる気持ちを押し殺したことのない自分が、他人にそれを強要しようとするなんて、最低だった。
 たぶん、アルフォンスはずっと我慢していた。いつからかは知らないけれど。
 違う、もう知っている。きっと、大学に合格して、合格祝いで酔いつぶれたアルフォンスを介抱したあのときにはすでに。
 出会ってから、たった一週間じゃないか。
「……オレなんかの、どこを好きになったんだ?」
「なんかって、大将……それ、自分を卑下してるんですか?」
「いや……卑下してるっていうか、自己嫌悪だ」
「珍しいなあ」
「そうでもないぜ」
 口移しはアルフォンスを苦しめた。好きな人間から触れられれば期待する。それはエドワードも同じだ。そして、相手にそのつもりがなければ苦しくなる。
 二回もしてしまった。なんで気づかなかったんだ。いつもはわかるのに。欲をともなう好意を抱けば、相手がそうであるかをなぜか敏感に悟ることが出来た。食い違いはなかった。いつもそうだった。
 それなのに、アルフォンスから向けられる好意は、まったくわからなかった。
 慕ってもらえているのだと思っていた。ふれあいは、じゃれあいなのだと思っていた。
 さっきの兄妹みたいに。
「……マスタングも、そうだったのかな……」
 呟く声が、自分でも頼りないくらいだった。
「先生は本気です。勿論、アルフォンスも」
 傍から見ていてわかるくらいの真剣な想いを、片方は冗談として流し、片方には気づきもしなかった。
 考える時間がほしい。ゆっくりと、じっくりと考える時間が。
 たとえ単なる結論の先延ばしであっても。
「もう一度、よく考えてみたらいい。アルフォンスだって大学はやめないだろうから、時間はまだある」
 ハボックは、いま自分が一番求めている言葉をくれた。
 その優しさというより甘さにすがってしまおう。
「でもさ、大将。そんなに悩むってことは、もう答えは出てる気がするんだけどね」
 答え?
 答えなんて、まだ見えない。見つかるのかも、わからない。


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