ついに来てしまった。一か月経つか経たないかというところなのに、ずいぶん久しぶりのような気がする大学構内をぶらぶらと歩く。そもそも関係者でもないのに、学内にこんなになじんでいるのがおかしいのだが。
 考える時間がほしかった。だからハボックと話した日から一週間という期限を設けた。でなければ、いつまでもずるずると先延ばしにするばかりだ。
 考えても答えは出なかった。ただ、昼を食べる暇もないくらい忙しかったのに、こうやって差し入れもしなくなったからちゃんと食べているのか、痩せていたりしないかと心配になって、少し顔を見るだけでも、と思ったのはたぶん自分への言い訳なんだろう。
 真っ先に工学棟へ行くのはためらわれて、通用門から入ってまったく反対の方へと進んだ。時折、見知った人間に声をかけられ、挨拶をかわす。その中で、たまたま行きあったのがアルフォンスと同じゼミの青年だったのはよかったのか悪かったのか。
 アルフォンスとエドワードの関係が微妙なものになっているとは知る由もないその青年は気軽に声をかけてきた。
「こんにちは、久しぶりー、エドワードさん」
「ああ。久しぶり。相変わらず忙しいのか?」
 青年は察してくださいとばかりに、アイロンをかける暇もないといったよれよれの、それでも洗ってはいるらしいシャツをつまんでみせた。
「こんな状態だよー、もう。しかも洗濯はアルがやってくれるし。ていうか、すいません、アルの奴をずっと借りちゃってて」
 いや、別に。と曖昧に濁したのは、アルフォンスがいまの状況をどんなふうに相手に説明しているのかわからなかったからだ。
「ホントは俺の受け持ちなんだけど、予想外のハプニングが起きちゃってさあ、アルが手伝ってくれるっていうから巻きこんでほとんど研究室と部屋との往復ばっかで、って、エドワードさん、アルから聞いてるか。え? 聞いてない? ごめん、そんな余裕もなかったのかな。ほんとごめんね、エドワードさん!」
 何が何やら、こちらが反応する前にぽんぽんと喋る青年に拝まれて、ただもう頷くだけだった。
「すぐそこに部屋借りたんだけど、実験関係ない作業はそっちでずっとやっててさ、ちょっと研究室に忘れもの取りに来たんだ。部屋わかる? あのね、あそこ、屋根がぼろっちくて外に抜けそうな階段あるだろ? 見える? あの二階のこっち側ね、階段昇るとき気をつけてね。じゃ!」
 言うだけ言って去ろうとする青年を思わず呼びとめると、彼は首を傾げた。
「アルなら部屋にいるよ」
「ああ、うん……」
「様子見に来たんだろ? 今度は差し入れ持ってきてくれるといいなあ。よろしく!」
 今度こそ彼はさっさかと去って行った。一人残され、視線の向う先はおんぼろアパート。いまにも崩れそうで隙間風も入るが格安なので貧乏学生には人気、といった外観の二階建だった。ここまで来たからには、居場所を確認して帰るというわけにもいかないと思う。それに、アルフォンスが帰ってこなかったのは、研究が本当に忙しかったからだったのだ。それなら、顔を見て、ろくに食べていないのなら(洗濯が出来るくらいならちゃんと食べているだろうけれど)何か見つくろって届けてやってもいい。他に足りないものとか。店に取りに行って――
 違う。だって彼は、私物をすべて持って行ったのだから。
 答えが出るまで彼は帰ってこない。望む答えなど出してやれないのに。
 いつのまにか目の前にあったおんぼろの階段は、来る者を拒むような頼りなさだった。手すりをつかんで、端の方を一段一段昇って行く。会って何を言うんだろう。決めていない。何も言えない気がする。だったら、なぜ会いに行く?
 さっきの青年が、自分に会ったんだと言ったって、アルフォンスはきっと適当に話を合わせるだろう。詮索されないために。気まずくならないために。
 誰と。誰が。
 普通に考えたら、アルフォンス自身が、まわりと、だ。でも、店子が大家と気が合わなくて引っ越すなんてよくあることだから、まわりは気にとめることもないだろう。
 だとしたら……。
「オレのため、か……」
 彼は、しょっちゅう大学へ顔を出していた自分が、アルフォンスを追いだしたと誤解されることを避けている。たぶん、これはうぬぼれでも自意識過剰でもなんでもない。根拠はない確信だった。彼はそういうひとだ。
 そして、ここに住みついて、いつのまにかここを生活の拠点にして、店になんて来なくて、だんだんと遠くなっていく。同じ町で、歩いて行き来できる距離なのに、遠く。
 最上段をあがって、すぐのところに目的の部屋はあった。ペンキがはげて、ドアノブだっていまにも取れてしまいそうだった。何もしなくたってガタンとはずれてしまいそうなのに、いまは厚く立ちはだかる壁のようだった。
 ノックをすれば、呼びかければ出てくれるのだろうか。会ってくれるのか。ノックだけして、何も言わなければ誰かを確認するために出てきてくれるだろう。そして、困ったように笑う。返せる言葉を持たない自分に。
 でも、もしかしたら何も言わずにまたこの扉は閉ざされてしまうのかもしれない。
 手をのばせない。立ち去ることもできない。
 すぐそこにいるのに、まるで一人ぼっちになったみたいだった。

「じゃあ、これ届けてくるから。夕飯は何か買ってくるよ、何がいい?」

 扉の向こうからしたのは、聞きたかった声。わかった、という返事とともに立て付けのわるい扉が開いた。
「あ……」
 そう言ったきり、言葉が出てこなかった。元気だったか、とかせめてそれくらいは言えるはずなのに。
 口ごもってしまったエドワードにアルフォンスは困ったように微笑んだ。笑って、くれた。
「ひさしぶりですね、エドワードさん」
「……ん」
 馬鹿みたいにこっくりとうなずくだけで、何も言えない。アルフォンスは後ろ手にドアを閉めた。距離がわずかに近くなった。
「僕ね、ちょっと研究室に用があるんです。歩きながらでよかったら、少し話しませんか?」
 無言で頷いた。
 いまにも抜けそうな階段を順番にくだって、しっかりとした地面に降り立っても、どうにも足がふらついているような気がした。緊張している。顔をあわせるのは三週間ぶりだった。
 アルフォンスはゆっくりと歩く。急ぎたいのかもしれないのに、こちらにあわせてゆっくりと。
「まずは謝らならなくちゃいけませんね。いきなり逃げるみたいに出てきちゃってすみませんでした。お世話になったのに、ろくにお礼も言わなくて」
 ぶんぶんと首を振ると、アルフォンスが苦笑した気配がした。顔を上げられないから実際どんな表情をしているのかはわからない。
 ちらっと見た分には、特に体調がわるいということもなさそうだった。ああ、別にだいじょうぶなんだな、と思った。
「落ち着いたらあらためてうかがおうと思ってたんです。……さすがに、あの直後はあなたと顔を合わせることは出来なくって。少し離れて、頭を冷やしてからと思ってたら……さっきはびっくりしましたよ。戸を開けたらいきなりエドワードさんがいたんだから」
 その割には、ちっともびっくりしたふうではなかった。まるで何もなかったみたいに、挨拶をして、こうやって話を導いて、隣に並んでいる。
 ほんとうに、近くて遠かった。
「僕はもうひとつ、あなたに謝らなければならない」
 アルフォンスが足をとめた。自然と、エドワードも立ち止まる。こっちを向いて、との声に操られるようにアルフォンスを見上げた。
「告白を……して、ごめんなさい。本当はまだ言うつもりはなかったんだ。もっと一緒に過ごして、僕がどんな人間かをわかってもらえるくらに一緒にいて、それから伝えるつもりでした。あなたと離れて、よく考えたんです。どうすればよかったのか。これからどうすればいいのか。設計図を考えるよりも僕にとっては難解な問題でした。これが、僕なりの結論です」
 エドワードさん、と久しぶりにこの声で呼ばれるのがうれしいはずなのに悲しかった。
「あの告白は忘れてください」
 あなたを困らせるつもりはなかったから、と続く言葉は頭を素通りしていった。


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