朝起きて、まず最初にやること。
 アルフォンスの部屋のドアをノックして、返事がなければこっそり開け、まだ眠っていることを……というよりも、そこにいることを確認してそっと閉める。
 いなくなっていない。ちゃんといる。
 ほう、と安堵の息をついて朝食の用意に取り掛かる。これが日課に新しく加わった習慣だった。ほっとするし、単純にうれしい。
 少しして、床がミシミシ音を立てた。
「おはよう、エドワードさん」
「おはよう、アルフォンス。すぐ出来るから顔洗ってこい」
 頷いて洗面所に向かう後姿に、顔がほころんでしまう。
 答えの出ないままアルフォンスを迎え、気まずくなるかと思いきや、決してそうではなかった。拍子抜けするほどだ。
 アルフォンスが出て行く前にそのまま戻ったような、むしろそれよりもしっくりくる空気。欠けていたものがようやくぴったりとおさまった安心感。
 毎朝しみじみと思う。そして、出来上がったオムレツがテーブルの上で湯気を立てる頃にアルフォンスが着替えを終える。
「いただきます」
 朝食での話題は、たいていその日のアルフォンスの予定だ。今日も例外ではない。
 で、今日の予定はといえば。
「ちょっと実験結果をまとめるだけだから、お昼までには戻れるかな。ランチタイムは手伝えるよ」
「わかった」
 アルフォンスはその丁寧な口調をちょっぴりくだけたものにしてくれた。もともと両親にも丁寧に接していたから身についた性だったのだろうけれど、同じゼミ生に接するようなそれに、自然と機嫌がよくなるのが自分でもわかる。
 先日までとは雲泥の差なので、さすがに客にも気づかれてしまった。体調はもう平気なの?とご婦人がたに尋ねられた回数は、この一か月で両手にあまる。少し痩せたみたいだったから心配していたのよ、でもよくなったみたいでよかったわ。とそのたびに言われて、ええ少し機械鎧の具合が良くなかったので、と誤魔化してしまった。風邪で接客していたなんて言えばお客さんにわるいしと思ったが、これはこれでウィンリィに怒られそうである。
 ともかくも、ようやくご婦人がたの心配が止んで、文字どおりの平常運転の日々がやってきた、定休日明けの今日。
「なんか、今日お客さん少ない……?」
 エドワードの呟きに、ハボックも頷いた。
「そうみたいっすね。そういやさっき市場行ってきたときに風邪が流行ってるって聞きましたよ」
「へえ……風邪かあ」
 ストックを確認して、食後の飲み物にハーブティーを勧めてみたら、思いのほか注文があった。やはり、流行りの風邪に気をつかっているらしい。そして、どちらかといえば女性客本人よりも、その夫やこどもが引いているのだという。
「……さんは、旦那さんが病人食に飽きたーって言って、我がままにつきあうのに大変なんですって」
「今年の風邪はお腹にくるから仕方ないわよ。……旦那さんの気持ちもわかるけれどね。パンと牛乳ならなんとも思わないのに、パンを牛乳にひたして食べるのはどうして二、三食で飽きてしまうのかしら……」
「スープだけだとお腹にたまらないしね」
「こういうときはお米がいいらしいわよ」
「売っているのは知っているけれど、つかったことがないわ」
「パエリアなら作ったことはあるんだけれど、それではパンとかわらなそうね」
 目下の関心事なのか、テーブルを越えて常連同士のおしゃべりは賑やかになる。当然、会話の内容はしっかり聞こえるので、エドワードはその会話に割って入ってみた。
「お米を使ったお粥の作り方なら教えましょうか?」
 以前アルフォンスが二日酔いになった際に作ったお粥は夜のメニューに加えられたが、ランチには結局出さなかった。昼と夜とでは客層が違うから、夜にも顔を見せる客が今日は来ていないこともあってか、米の粥を知らない婦人方は興味津々だ。
「教えてちょうだい!」
 身を乗り出すようにしてせまられ、エドワードは半笑いで頷いた。

 幸い米は残っていたので、早速お米のとぎ方から炊き方、お粥にする場合の水の割合や火の調節についてレクチャーを始めることにした。カウンターにはずらりと一時的な生徒たちが並んでいる。
 みなさんの都合のいい日を合わせて後日、と思っていたのに、生徒たちの行動は素早かった。
『今日、これからでもいいかしら!』
 と皆、口を合わせて言った。トッピングにする食材は今ハボックが買いに走っている。そして、そんなところにアルフォンスは帰ってきたのだった。
「ごめんエドワードさん! ちょっとレジュメが行方不明になって……あれ? 皆さん、どうされたんですか?」
 店の入口で髪を乱したアルフォンスが呆然と眺めた。まだ肩で息をしている。よほど急いで来たのだろう。
「おかえり、アルフォンス。ちょっと即席料理教室始めたとこ。昼まだなんだろ? 作っといたから」
 首を振り振りやってきたアルフォンスは、生徒さんたちに挨拶をするとカウンターに入った。
「お粥?」
「そ。消化にいいメニューを、ってことで」
 ああ、いま風邪流行ってますもんね、と呟いたアルフォンスは、手を洗ってサンドイッチをつまみながら空いている椅子に腰をおろした。ここで見学するつもりようだ。たぶん、場合に応じては手伝ってくれるのだろう。
「分量は先ほど言った通り。ではお米をとぎます」
 すかさず「洗剤は?」とはさまれた声には「食材ですから、水だけでいいです」と答える。お湯じゃなくて水ですよとつけくわえて。
 研いで水を捨てて、新しい水で研いで、と何度か繰り返し、上澄みから濁りが減ったところで、また新しい水を張る。
「この状態でしばらく置いておきます」
 けっこう時間がかかるのねえ。かかるんです。
なんていうやりとりを随所にはさみ、しかしこれに具材を追加すればバリエーションも増えるし多少の作り置きも出来ると説明すれば、それは便利かもという肯定的な意見が次々と上がった。そう、多少粘り気が出てしまうのさえ我慢すれば(水を足せばいいし)、食べるたびに火にかけてあたためればいいお粥は、スープとたいしてかわらないのだ。トッピングを選べば、味だって変えられる。
 メモを取る奥さん方に、今度はおすすめの具材を紹介したり、各自で考えてもらったりしている間、アルフォンスはといえば、サンドイッチを食べ終わり、メモ用紙が足りないとかシャーペンの芯が足りないというご婦人に足りない物を持って行ったり、お茶を入れたりして甲斐甲斐しく立ち回っていた。なんともよく気がつくことだ。
 アルフォンスの穏やかな雰囲気は当然のようにご婦人方に受け入れられ、アルフォンスのほうも多少しつこいおしゃべりにだって嫌な顔一つせずにつきあう。アルフォンスはお客さんに対するときは、かならず笑顔を浮かべる。それは決して、いかにも作りましたというこわばったものでも張り付いたものでもなく、本当に「来てくれてありがとう」という心があらわれたものだ。だから雰囲気というものに敏感な女性たちにアルフォンスは気に入られていた。
 エドワードだってアルフォンスの笑顔が好きだ。しばらくは苦しかったりせつなかったり、……怖かったり、そういう顔しか見ることが出来なかったけれど、帰ってきてからのアルフォンスは以前と変わらない笑顔を見せてくれる。そう、以前と変わらない。変わらないけれど。
 そうやって彼女たちに向けるものと同じ笑顔が向けられるのが心の隅にちょっとだけ引っ掛かるのはなぜだろう。


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