風邪が移るかもしれない、と言い訳をして出来るだけの接触を断っても、広くない部屋で一緒に暮していれば、自然と距離は詰まってしまう。朝、洗面所で振り返ればそこにアルフォンスはいる。朝も夜も、食卓で向かいに座るのはアルフォンスだ。
 何もなかった振りをするのは、難しいことだった。
 普段通りとは、普段は意識しないでやっていることだから、普段通りと意識した時点でそれはもう別物だ。といっても、それを怠っては自分の心はだだ漏れになってしまうのだから、努力しないわけにはいかなかった。出来るだけ、普段と同じような振る舞いを心掛け、違和感を持たれないようにする。今のところ、そこそこうまく出来ていると思う。どうやら、他人のことには敏いらしいハボックに何の指摘も受けていない。気づいているけど言わないでいる、言い淀んでいる、という感じではないから、とりあえずしばらくは気を付けているつもりだった。
 でも、ちょっとしたことで、心臓が高鳴る。朝起きて最初に言葉を交わすのが自分で、その日の夜、最後に言葉を交わすのも自分なのだと気づいたとき。コップの中身が空になるとさりげなく立っておかわりを注いでくれるとき。よく見てくれているのだと嬉しくなる。笑いかけられると困ってしまう。どんな顔をしたらいいのかわからなくなるから。そのくせ、アルフォンスが店で客に笑顔を見せると、うらやましくなってしまう。あのとき、心に引っ掛かったのは、アルフォンスに笑顔を向けられることではなく、何の屈託もなくあの笑顔を受け入れられるご婦人方がうらやましかったからなのだろう。慣れていかなくてはならないことだけれど。
「エドワードさん、ちょっと休んだほうがいいよ。今なら僕一人でも手は足りるから」
 床に伏せったあの日以来、アルフォンスは営業時間中も折を見て休憩を勧めてくるようになった。身体を気遣ってくれるのはありがたいが、過保護に扱われているようで照れくさいし、まさかそのまま受け取るわけにはいかない。だから感謝は伝えつつも、仕事はこなした。時々ぼーっとしても、疲れているからだと思ってもらえる。
 ごまかせていると信じていたから、グレイシアの言葉にはドキリとした。
 ヒューズは週に一度のペースで顔を見せるが、エリシアがいるからグレイシアが店に来る頻度はそう高くない。家族を溺愛するヒューズが週一で来るのは、この店が一種の社交場で町の様子をうかがうことが出来るからだ。彼は職務に忠実でもある。
 エリシアが友達の誕生日会にお呼ばれだとかで、今日の彼女は自分の友人とランチを楽しみに来ていた。いつものように挨拶をして、注文を聞き、料理を運んで、彼女が食事を終え、会計をするときのことだった。
「大変だったわね。今年の流行り風邪はだいぶ重いもののようだから」
「まあ、なんとか。グレイシアさんのところは? エリシアは大丈夫?」
「今のところはね」
 心配する母の顔をしたグレイシアは、ふとエドワードを見つめる。
「エドワードくん、……無理はしちゃ駄目よ」
 彼女は気づかわしげに言った。
「……身体はもう平気だから。寝てばっかでちょっとなまっちゃったけど」
 苦笑してそう返すと、グレイシアは、違う、とばかりに首を振る。
「何か悩んでいるようだから。主人が言っていたけれど、あなたは自分自身の心配ごとは内にためこんでしまうきらいがあるのでしょう? 私に相談してとは言わないけれど、ロイさんやハボックさんはきっと聞いてくれるわ」
 おせっかいだったらごめんなさいね、と控え目に微笑むグレイシアをエドワードはまじまじと見つめ返した。
「オレ、そんな風に見える……?」
「見えるわよ」
「……ごめんなさい、気をつける」
「責めているのではないわ。あなたを心配しているの。そして、あなたには私以上に心配する人が傍にいるんだっていうことを伝えたかっただけよ」
 グレイシアはエドワードの返答を待つことなく、「それじゃあ、またね」と言って去っていった。後に残されたエドワードは、カランコロンと音を立てるドアを呆然と見るしかなかった。
 一目で見抜かれた。そのことに驚いて。


 けっこうな日にちが経ったというのに、頼みがあるとやってきたイズミは「病み上がりのところを悪いね」と前置きして話し出した。もうとっくに風邪は治っているし、イズミに世話になっている間に修行と称していろいろとしごかれたので体は出来ている。だからイズミに「病み上がり」などと言われると、どうにも面映ゆいような気がした。それにイズミのほうがよっぽど病持ちだ。
 頼みというのは、自分の代わりに会合に出てほしいというものだった。この街には商人や店主で作る組合があって、イズミは幅広い人脈でもってその世話人のような位置にある。会合には普段ならイズミが出るし、体調が思わしくない場合はシグが代わりを務める。しかし今回は、夫婦そろって契約先の牧場へ足を運ぶ予定だそうで、エドワードにお鉢が回ってきたのだった。特に議題があるわけではなく、定期的な報告会の域を出ないと聞いて、これまでにも出席したことはあるし、それなら出来そうだとエドワードは引き受けた。
 会合のある日は街の店の半数ほどは休業する。元はイズミのものだったエドワードの店も例外ではなく、早めに帰宅したアルフォンスに留守を任せ、指定された場所へと向かった。
 店を休業するなら昼間にやってしまえばいいのに、と思うのだが会合は毎回夕方から夜にかけて行われる。議題があるときは真面目に話し合いがもたれるそうだが、今回のような単なる報告会だと早々に酒が入り、一足飛びで宴会になってしまう。そうなると年若いエドワードなどは周りのいいおもちゃになるだけだが、皆よっぱらいのわりには節度をわきまえるので不快な思いはせずにすんでいる。ぐしゃぐしゃに頭を撫でられるのだけは閉口するが。
「ああ、そうだ。お前んとこは大丈夫か?」
 いま酒を酌み交わしているのは、ちょうどマスタングと同じ年くらいの男だった。雑貨屋と称しながら工業製品の流通も扱う店の跡取りである彼は、近頃は大学とも取引があるらしく、直前まではそんな話をしていたはずだ。それが唐突に話題を切り換えたのは、隣のグループから漏れ聞こえる単語が原因なのだろう。
「オレんとこも、近所でも、あったっていう話は聞かないけど……そんなに流行ってるのか?」
 近頃、ぼや騒ぎが数件起きているらしい。初耳だったので聞いてみれば、男はむしろお前が知らないことに驚いたと肩をすくめた。最近他に心を砕いていたから、店での会話も聞き逃していたのだろう。反省しなければいけない。
「大きな火事にはなってないが、ごみ置き場や納屋が燃えたんだ。タバコの不始末が原因じゃないかって話だけど、こうも多いとなあ。乾燥するこの時期に、わざわざ燃えやすいものがあるところでタバコを吸う馬鹿はいないだろって思うんだが」
「……放火?」
「の可能性もある。けど、火が起こるのは昼間なんだ。いくらごみ置き場があるのが路地裏っつっても、人の出入りは少なくないだろ。なのに目撃者がいない」
「火なんてつけようってやつは、少しは挙動不審になるはずだもんな。そうすりゃ周りから見たら目立つ。だから放火の線も薄いって踏んでんのか」
 でも、犯人が用意周到で、しかもなんの良心の呵責もない人間だとしたら。
 会合にこの話が出なかったのは、まだ頻発というほどの回数ではないからだそうだ。イズミからこの話は出なかったし、いまは様子見というところなのだろう。
「早めに手を打ったほうがいいと思うんだけど」
「俺もそう思う。でもパトロールするにしても人手がな」
 ぼやが起こるのは一般家庭ではなく商店の脇道だから、昼に人手を割いて見張るわけにもいかない。あれこれと互いに意見を交わすが酒が入った頭は思考には向かないし、二人では出てくる意見のバリエーションも期待出来ず、宴会もお開きの時間になってまた後日、ということになった。
 別れ際、男は言った。
「でもよかった。宴会もうさばらしになったみたいだな」
 どういうことかと視線で問えば、苦笑とともに眉間を指でつつかれる。
「ここに皺寄ってたから。なんか悩んでるみたいだけど、気分転換も必要だぞ」
 気を付けて帰れよ、と笑って去っていく男の背が小さくなっていく。過去に数カ月つきあったことのある彼は、エドワードの気持ちに敏い男だった。会ったのは久しぶりだった彼にこんなふうに気遣われるくらいに、心の葛藤が表に出てしまっていることに愕然とした。
 グレイシアに指摘されてからはもっと気を付けていたはずなのに。
 ふらふらと歩きだすと、足は勝手に店とは反対方向へと進んでいた。帰りたくないという無意識の気持ちがそうさせたのだろうか。途中で気づいて引き返そうとしたが、どうせだから酔いをさましがてら、夜の散歩で頭を冷やすのもいいかもしれない、と遠回りして帰ることにした。月のある夜、街灯に頼らなくても歩くには充分で、ほどよい冷気が心地よかった。とろとろと歩くエドワードに対して、帰路を急ぐのか、後ろからカツカツとテンポの速い足音が聞こえてくる。
「エドワードくん?」
 かけられた声に振り向くと、そこに立っていたのはホークアイだった。


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