送るよ、とエドワードが言うと、ホークアイは少し思案し、一杯つきあってくれないかと誘ってきた。あまり酒を過ごしたわけでもないのでもう一杯くらいなら問題なかったし、何よりもホークアイからの誘いなど滅多にあることではない。一も二もなく頷いて、彼女の希望に沿うような店に案内した。
 路地を入ってすぐの、控え目な看板を掲げたその店には、たまに一人で飲みに来る。夜中に開店し明け方まで営業しているので、店じまいをしたあとでもゆったりした時間を過ごせた。マスターは無表情というわけではないにしろ愛想はなく口数も少ないが、エドワードは気に入っていた。
 カウンター席に腰かけ、オーダーを済ませると、ホークアイはその表情を少しゆるませた。
「雰囲気のいいお店ね」
「だろ? 一人で飲みたいときにたまに来るんだ」
 頼んだものが来て、グラスからちびりちびりと口に含むホークアイの横顔は、常になく憂いを帯びていた。
 何か話したいことがあるのだろう。そう思って、じっと待つ。
 しばらくしてホークアイは、ほうっとため息をついた。
「ごめんなさい、突然誘ってしまって」
「別にいいよ。リザさんと二人っきりで呑んだなんて、あの野郎に自慢出来るし」
 あの野郎、は日頃ホークアイにつれなくされている教授のことだ。まさかあの男が何かしたとは思わないが、いったい何の話だろう。
 こちらの聞く体制が整っているのを感じ取ったのか、 わずかに苦笑した彼女は「あまり、人とこういう話をするのは慣れていなくて」と呟いた。
 ぽつぽつと彼女が話しだした内容に、エドワードは先ほどの彼女と同じようなため息をついた。
「結婚を勧められたの」
 ホークアイは良家の子女といっても過言ではないし、そういう家であれば両親が縁談を考えるのも無理はない。
「おじい様がもう長くはないらしくて、孫の顔が見たいって」
「え? あのじいさん、体悪いの?」
「いいえ、あれは母方の祖父で、今回は父方の祖父の希望」
 大学のトップを務めるほうは、病気?何それ。老いる?何それ。なひとなので想像しがたかったが、父方の祖父は前前から患っていたらしい。
 すでにずいぶんと患っていたところに、年も相まってそろそろ覚悟を、と言われたそうだ。しかし彼女には確か、と思い当たることがあった。
「……リザさんには好きな人がいるんだろ?」
 ホークアイは迷わずに頷き、それから、しまったとでもいうような困惑の表情を浮かべた。その様子がなんともかわいらしい。
「……それは関係ない。縁談にしても強制というわけではないの。私が祖父の希望をかなえたいと思っただけ。でも……私には出来ないのよ」
 縁談は必ずしも悪いものではない。良い伴侶に巡り合うこともあるだろう。でもすでに、好きな相手がいるなら無理したっていいことはない。
「告白、しないの?」
 しない、と彼女は言った。続いて、したくない、できない、と。
「私ね、駄目なのよ。そういうの。格好悪いっていうわけじゃないけど、自分から言えないの。向こうは私のことはよく知らないし。単なるお客としか思ってないわ。よくて、知人の知人かしら。そんな人間に告白されたって困るでしょう? ……ううん、困る顔を見たくないの」
 想像するだけで怖い、ともらす彼女は途方に暮れたようにグラスを揺らした。
「教授に告白するほうがマシだわ」
 ぽつりと呟いた言葉に、エドワードは思わず吹き出した。
「……! それ、さすがにあいつが可哀想!」
 この場合、双方の心が互いに向いていないからこその冗談だ。
「でも、気持ちはわかるな。前のオレなら、さっさと告白しちゃえばって思うけど……いまだったら無責任にそんなこと言えないや」
 以前なら、好きだと思ったらすぐに踏み出せた。でも今は踏み出せないし、してはいけない。理由は違ってもホークアイの気持ちはよくわかった。
「ひょっとしてエドワードくんも……?」
「そ、リザさんと同じ。片思い中」
 同じね、と苦笑した彼女は、酒を一口、まるで苦いものみたいに飲みこんだ。アルコールを含んだ息が色っぽい。普段きびきびとしている彼女だからこそ、余計にそう感じる。この姿を見せれば男なんて一発で墜ちるだろうに、と考えてしまうのは自分がその男だからなのだろうか。現に、彼女にそんな感情は抱いていないのに、一瞬くらりと来た。
 これほど魅力的だというのに、彼女は一歩を踏み出せないでいる。もったいない、と思う。けれど、彼女は別に誰かに背を押してほしいわけではないのだろう。
 怖い、とホークアイは言った。それは自分を否定されることに対してかもしれないし、告白によって関係性が変化することこそを恐れているのかもしれない。もちろん、その先のことだって。似ているな、と思った。自分と彼女は。
「珍しいわね。あなたはもっと行動の早いひとだと思ってた」
「ははっ。自分でも驚いてるけど、今回ばっかりは……」
 気持ちの赴くままに動かなくてよかった、と言おうとして思いとどまった。彼女に言うべきことじゃない。
 なんと続けたものかと迷っていると、ホークアイは察したのか、先を促そうとはしなかった。
「マスター、何かつまむものはあるかしら」
 ございますよ、と静かに応える主人にホークアイは適当に見つくろってくれるように頼んだ。
「夕飯を食べていないのよ。こんな時間に食べたら太っちゃうっていうのはわかっているのだけれど」
「リザさんだったら別に気にしなくていいんじゃない? 太ってないし」
 健康的で姿勢がよくて美しい身体だと思う。が、男の目から見るのと女性本人が考えるのとでは基準が違うから、ホークアイが気にするのも当然といえた。
「一人暮らしだとどうしても食事を作るのが億劫になってしまって駄目ね。今日みたいに遅くなる日だと、出来合いの物を買ったり、パンだけで済ませてしまったり」
「どっかの誰かさんみたいに酒飲んで済ます、なんてのじゃなければ大丈夫だよ」
 どっかの誰かさん、が誰のことを指しているのか正確に理解したのか、ホークアイはようやく憂いのない笑顔を見せた。
 彼女との共通する話題といえばもっぱらマスタングのことだった。先ほどまでの話は、もうあれで終わりにすることにしたらしい。そもそもホークアイがあんな話をすること自体が不思議なのだ。身の内をさらけ出すような、深い話をする仲ではないのに。それだけ彼女の心が沈んでいたということかもしれない。だとしたら、話を聞くだけでも力になれたのならよかったのだが。
 帰り際に謝られた。あんな話をしてしまってごめんなさい、と。
 それに対して、思ったことをそのまま伝えると、彼女は「私も」と言った。
「私も、エドワードくんと似ていると思うわ」
「じゃあ、今度はオレの相談に乗ってよ」
「私でよければ喜んで」
「あ、そうだ。遅くなって夕飯面倒になったら、うちに来なよ。食事出せるし、リザさんなら閉店過ぎても歓迎する」
 ぜひ伺うわ、と応える彼女の声が少し震えたように聞こえたのは、気のせいだったのだろうか。


 ただいま、とそっとドアを開けると、小さな明かりを背にアルフォンスが振りかえった。
「おかえり、エドワードさん」
「まだ起きてたのか。先に寝ててよかったのに」
「ん、ちょっとやることがあったから。随分遅かったんだね」
 酒臭い、とつぶやいたアルフォンスが、さっと水を入れて持って来てくれる。
「会合終わって酔いざましに散歩してたらさ、リザさんに会ったんだ。一杯誘われたからつきあってきた」
「酔いざましのあとにお酒飲んだら意味がないでしょう」
 苦笑気味に肩をすくめ、アルフォンスは「おやすみ」と言って自室へと入っていった。思わず伸ばした手を見て、ため息を吐いた。
 その背中に手を伸ばせる距離を、自分から捨てたのだ。
「早く、慣れなくちゃな……」
 冷たくなってきた水道の水を飲み干し、服をその辺に脱ぎ散らかしてベッドに潜り込んだ。こういうときは、寝てしまうに限るから。


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