記憶の中にある色、それは


 背をたたく手があたたかい。
 不埒な熱とは全く違う、穏やかなあたたかさにエドワードは息をつき、ロイの胸を押しやった。
「落ち着いたようだな」
 ぽそりと礼を言い、ソファーに座る。まだこの部屋を出たくなかった。
「その様子だと気づいたか。……それで知恵熱とは、全く君は子供だな」
「逆だ」
と答える声はやけに掠れていた。喉が痛い。
「風邪引いて、あんたのいうとおり……見て……で、……逃げてきた」
「なるほど。ではアルフォンスが心配しているかもしれないな。連絡を入れておこう」
「っ、だめだ、アル
には――」
 喉がひきつれてむせた。呆れたようにロイが横に座り、背中をさすってくれる。
「用事が出来たとでもいって出てきたのか。ならば、なおさらだ。ホテルには戻りたくないんだろう?」
 走ってきたせいか上がった熱で頭がぼーっとしてくる。考えをまとめられないまま頷くと、ロイがいつもと何も変わらない態度で、
「君に悪いようにはしないよ」
と言うから不思議に思う。
「なんで……そんなに色々してくれんの?」
 いまさら、と言ってもいい疑問にロイはからかうように笑った。
「迷ってる子供を導くのは大人の仕事だろう」
 子供扱いすんなとか、こんなもの子供の抱える悩みじゃないだろとか、反論はいくらでもあったが、エドワードがそれを口にすることはなかった。
 今の状態が、あまりに心地よすぎて。
 出会った頃には、こんなふうに接するようになるとは思わなかった。からかわれるのは嫌だったし、わかっていることをしたり顔で諭そうとする態度も気に入らなかった。それが、いつの間にかこんなにも頼りにしてしまっている。誰にも言えないような、後ろめたい気持ちを打ち明け、否定しないでいてくれる相手が出来るなんて考えもしなかった。
「……大人って、すごいな」
 自分の人生のほぼ二倍を生きている男を見上げると、苦笑交じりのため息とぬるい感触が降ってきた。
「随分と素直なことだと思ったら、……熱のせいか」
 これ以上熱が上がらないうちに、とロイに鍵を渡され、エドワードは医務室で見てもらってから司令部を出た。台所もベッドも適当に使っていいし、暇だったら本棚も自由に見ていいと許可ももらった。言われたとおりに外に出る前に食堂に寄ると「大佐から聞いてるよ」と待ち時間もなく、軽食を持たされた。そしてふらふらと門を出ようとしたところで車が待っていた。どこまで至れりつくせりなのだ。あの男は人を甘やかすにも程がある。
 それにいらつくことなく、むしろありがたいと思ってしまうのは、実際精神的に追い詰められているからと、あとは風邪の症状が悪化したせいだろう。
 ロイの家には数度来たことがある。遠慮なくベッドに直行しようとしたが、一旦もぐってしまえば出られそうにない。そう予想できるだけの体のだるさはあったし、逆にそう考えられるだけの思考能力は残っていた。コップを水で満たし、タンスをかきまわす趣味も余裕もないのでその辺りに干してあったタオルを借りることにした。今日はハウスキーパーは頼んでいないと言っていたから、これを干したのはロイ自身だろうか。ハンガーにかけたあとに隅を引っ張ってしっかりと伸ばしているのは軍隊仕込みかな、と思いながら、エドワードはコップと食堂で持たされた袋、それに処方してもらった薬を手にして二階へ上がった。
 迷うことなく、いくつか並ぶ扉からたった一つを選択して開ける。数度しか来たことがないのに寝室の場所を知っているのは、頼まれて起こしに来たことがあるためだ。何度電話をしても出ないし、いま手は空いていないし、と困るホークアイを見かねて蔵書でもかっぱらいがてらアルと一緒に訪れた。アルに一階を任せてエドワードは二階を探し、階段から二つ目のドアを開けたところで毛布にくるまっているロイを見つけた。
「あ、そっか……だからか」
 靴やコートを脱ぎすて、ベッドに仰向けになると、なぜか天井に見覚えがあった。この家に泊まった記憶はないのに。
 首を傾げたところで思い出したのだ。
 あのとき、呼びかけても起きないロイの身体をゆさゆさと揺さぶって、そうしたらゆっくりと目を開けたロイが寝ぼけた声で「おいで」と。ふいをつかれたエドワードは、ロイに腕を引かれるままベッドに倒れた。受け身を取り損ねて、ロイの両腕に囲われ、殴って起こそうにも腕を動かせない。結局、アルフォンスに助けられるまで、ロイの腕の中だった。その日、寝不足だったエドワードは、心地のいいベッドと温かい腕についうっかり、ミイラとりがミイラになってしまうところで、アルフォンスに救出された後に一発殴って仕返しをしたところまで思い出した。
「っ、……あっ」
 機械鎧をつけた身体をアルフォンスはあっさりと持ち上げた。組み手でもアルフォンスはエドワードの上を行く。力でかなわない。もし組み敷かれたら……倒錯的にそんなことを思う。生身を取り戻したら、アルはどんな大きさの手で、どんな声で、どんなに熱いのか。想像すると体温がぎゅっと上がるのがわかった。
「や……だめ、だっ、だめ……っ」
 熱の集まろうとする場所を見ないように意識して、シーツを縋るように握り締める。大きく息を吸って、吐いて、時折むせて、熱を逃がす。必死に見つめた壁は涙の込み上げる瞳の先で、穢れ一つ見せずにたたずんでいた。
 ぼやける視界には定期的に掃除がされているだろう、清潔感のある室内が映っている。蜘蛛の巣がはる余地もない。中でも真新しさが残るのは壁と天井だった。
 ロイを殴って起こしたとき、やけに天井が綺麗だったので聞いてみたのだ。そうして返ってきた答えにエドワードはアルフォンスとともに肩をすくめることとなった。
『これで、焼いてしまってね』
 これ、と言いながらロイは中指と親指を擦り合わせて音を鳴らせてみせた。発火布をしたまま眠り、寝ぼけて錬金術を発動させてしまった――あまりにも間抜けかつ危険な所業に、兄弟はこう言うしかなかった。
『オレ、これから先なにがあっても大佐と同じ建物で寝たくねーわ』
『ボクも』
 壁は壁で、やはりこちらも寝ぼけて起きがけにメモを取ってしまったことがあるせいだった。そのメモというのが構築式というのがまだ錬金術師らしくて救われるが、国家錬金術師がメモといえど無造作にさらしていていいわけがない。そんなこんなで壁の張り替えを定期的にしなくてはならず、ロイの寝室の壁はいつも新品同様だった。
 真っ白ではないこの色は、目に優しくて落ち着く。もたげ始めていた昂ぶりは、壁の象牙色に少しずつ静められていった。
 司令部の執務室の壁もこんな色だった。
 逃げ込む先はいつも同じで、同じように迎え入れてくれる。いつも同じ匂いがして、同じ色があった。
 本当に、とても落ち着く場所だった。


 かさかさと音がするのが気になって、くっつきたがる瞼をどうにか押し上げた。
「起こしてしまったか」
「……いや、いい……いま、何時? アルには……」
 時計を見るためか、少し間があった。
「七時だよ。昼は食べなかったようだな」
「ごめん、すぐ寝ちゃったからさ」
「夕飯の用意が出来たら呼びにくるからもう少し休んでいるといい」
 着替えのついでに様子見に来た、といったところだろう。普段着を身につけたロイは、ベッドサイドに放置された紙袋を手に取った。中には食べ損ねた昼食が入っている。
「アルフォンスがあの後、司令部に来た。熱なんて出して兄の威厳が塵になりそうだから家には来るなと言っていたと伝えておいたぞ」
「てめっ……ああ、うん、いーやもう、それで……」
 急に飛び起きようとしたから、頭がクラッとする。エドワードは頭を押さえてベッドに逆戻りした。理由はもう何でもいい。本当の理由は言えるはずもないのだから。
「明日の昼には顔を出すと言っていたよ」
 会いたいような、会いたくないような、相反する気持ちにエドワードはため息をついた。ベッドが軋んで、ロイの手が額に当てられ、何も言わずに離れていく。
「熱、下がっただろ?」
「いや、まだ少し熱い。それにずっと寝ていたといっても、夜になれば上がるものだ。無理はするな」
 身体はだいぶ楽になった。安心して眠れたことがずいぶん助けになったのだろう。
「君の分はスープにしようかと思うが、他に食べられそうか?」
「うーん……腹減ったかも。それ、食べるよ」
 ロイは紙袋を開け、中を見てからにおいをかいだ。傷んでないかを確かめたらしい。まるで母親だ。
「大丈夫そうだ。……私の料理の腕は微妙だそうだから、あまり期待はしないように」
 ロイの料理に関しては彼の部下から話を聞いている。元より期待するつもりはない。ただ、世話になっている身でそんなことをいうのもはばかられて、エドワードは口をつぐんだ。
 部屋を出るロイを見送り、ゆっくりと身を起こす。
「あれ……?」
 起きてようやく気がつくのも間の抜けたことだが、着ているものが自分の服ではなかった。ということはロイはエドワードが目を覚ましたときに帰ったのではなく、もう少し前に帰宅していたらしい。
 ロイのにおいがするパジャマは、当然のことながら、忌々しくも手も足も長さが余っていた。舌打ちしてクルクルとまくると、上はどうにかなったが、下は腰の部分が余りすぎてずるりと下がる。仕方がないので下は脱いで、置いてあったスリッパで寝室を出た。
「寝ていていいと言ったのに」
 足音に気づいたのか、キッチンで振り返ったロイの、鍋を出す手がぴたりと止まる。
「そこのソファーで待ってるよ。手伝うなんて言わないからさ。……大佐?」
「……えっ、ああ、うん。わかった、温かくしていなさい」
 微笑むロイに首をかしげ、エドワードは様子がおかしいと思ったのは気のせいにして、その辺りに置いてあった毛布にくるまった。
 ダイニングテーブル越しに毛布の中から観察する。なんというか、動作は遅くはないのに不器用というか、肉をさばくのはうまそうなのに野菜の皮を剥くのは下手だとか、味見をしながら自分で「何がおかしいのかわからない」といったふうに戸惑ったりする姿を見ていると、なるほど、料理の腕が微妙というのは頷ける。
 しかし、自信がなさそうに出されたスープは、それなりにちゃんと食べられる味だった。熱のせいで舌がバカになっているかもしれないのでおいしいかどうかの判断は保留にしておいた。
 ついでに、じゃがいもやにんじんの大きさが揃っていないことへの言及も。
 充分に人を甘やかしておく器を羨ましく思っていたが、こんなところで欠点を見せるロイがエドワードにはおかしくて、この場所は居心地が良すぎて、なんとなく幸せな気分になりながら、またロイのベッドで眠りについた。

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文字書きさんに100のお題 Project SIGN[ef]Fより 23:パステルエナメル

実は増田さんの理性は、ほころびを生じていました、みたいな。