いびつなデルタ 2


 廊下の角を曲がった先で、赤いコートの肩が誰かに抱かれているのが見えた。
「……かく……が、……あって……」
「……話だと……ねえ」
 親しげに話しかける年配の男に対し、エドワードの腰は引け気味だ。表情は笑ってはいるが、こめかみがピクピクと震えている。男はおそらく賢者の石について調べているのを知って、いい資料があるから見せてあげようとでも持ちかけているのだろう。
 エドワードがどうあしらうのか興味はあった。いままでにもこんな場面には遭遇したことはあるが、今回もまた同じように拳を握りながら曖昧に断るのか。それとも――
「やあ、鋼の」
「っ、大佐……!」
 はじかれたように振り返ったエドワードは、ロイの姿を見てほっとしたように緊張を緩めた。まだ甘い。自分を狙っている男のすぐ前で隙を見せてはまたつけねらわれるだけだ。
 ロイは観察するどころかすぐに助け舟を出してしまった自分の抑えの利かなさとエドワードの迂闊さを内心で笑い、顔には愛想笑いを張り付けた。
「先日の報告書に瑕疵があった。書きなおして提出しなおせ。至急、だ」
 エドワードは一瞬不満気にしたものの、それが言い訳であることに気づくと「わかった」と頷いた。
「というわけなので、これで失礼します。お誘いくださって、ありがとうございました」
 男にぺこりと頭を下げるとエドワードは足早に去っていった。
「すみませんね、あの者は目を離すとすぐに消えてしまいますから、こういうことは早め早めに言い渡しておかないと事務が滞るんですよ」
 ちゃんと見ているのだぞと暗に含めて言えば、男は牽制を苦笑で受け流す。
つないでおくのも上官としての責務だと思うがね」
 言葉の裏で、男としての甲斐性の無さを揶揄している。愚か者め、とロイは自分の倍の年齢でありながら同じ階級に甘んじている男を蔑んだ。愛想笑いの下であからさまに拒絶されている輩に甲斐性どうこうのと他人を揶揄する権利などない。ましてやその発言で史上最年少の国家錬金術師をただの稚児としか見ていないことを露呈しているのに気づきもしない。
「最低限、軍属としての任務は果たしていますから、研究のために旅をさせるのには何の問題もないでしょう。あれの尻ぬぐいをするのと研究成果とで等価交換、といったところでしょうか」
 あくまでも優秀な人材を保護しているのだというさりげない強調は、男のだらしのない歪んだ表情を見ればこれっぽっちも伝わっていないことがわかった。もはやため息しか出ない。
「彼には大総統も目をかけられています。いつ、閣下にやんちゃをして咎めだてをされないかと気が気ではありませんよ」
 大総統閣下の肩書を出せば、男はわかりやすく顔をひきつらせた。
「では、失礼いたします。彼を見張らなければなりませんので」

 まったく、大総統閣下様様だ。と、コーヒーを二人分もらってから来た道を戻りつつ、ロイは肩をすくめた。
 嫌味を言っても通じない相手には、自分より上の、この場合は遥かに上の地位が意味を持つ。虎の威を借る狐になろうと、ロイの矜持に傷はつかない。いくらエドワードのためとはいえど、あんな輩の恨みをかって足を引っ張られるのは真っ平御免だからだ。
 執務室を開けると、奥の机の向こうにエドワードは座っていた。机の上はロイが部屋を出たそのままに散らかっている。
「書き直せ、と私は言ったはずだが」
「え? マジで書きなおすの?」
「ははは。本当なら書きなおしてほしいところだがね、あいにく既に中尉が処理してしまった。次からはもっと丁寧に書いてほしいね」
「……わかった。あの、さ……」
 ロイの座るべき椅子に深々と腰をおろして、床に届かない足をぶらぶらと揺らしながらエドワードは視線をさまよわせる。何を言おうとしているのかはわかったが、ロイはエドワードの口から聞きたかったのでじっと待った。室内はとても静かだった。だからエドワードの歯切れの悪い小さな言葉も充分に響く。
「……さっきは、ありがとな……」
「何のことだい?」
「っ、……礼は言ったからな!」
 ロイが嘯けば、エドワードはたちまち頬を染め、そっぽを向いた。赤くなったのは怒りと、あとは幾分の照れのためか。ずいぶんと可愛らしいことだ、とロイはほくそ笑んだ。
「ところで何故君はそんなところに座ってるのかな」
「……他に座るとこ、ねーじゃん」
 言われてみれば客用のソファーは書類と本にうずもれていた。個人的に続けている研究のための資料だ。あとはそれに紛れ込ませた内部資料。
 試しに、片付けを手伝ってくれないか、と頼んでみれば、存外あっさりとエドワードは頷いた。礼のつもりらしい。
 内部資料といっても暗号がかけられているし、エドワードは軍の機密情報をよそでべらべら漏らすような人間ではない。ロイは軍人としての意識に欠けていると自分を評しつつ、書類の分類をエドワードに任せた。中身についての詮索も禁止はしない。
「これ、焔の錬金術?」
 ロイが頷くと、エドワードは紙の色とページを照合しつつ、テーブルの上から手をつけ始めた。時折、興味深げに中身に目を通している。
「射程距離を伸ばすための研究、ってとこか」
「よくわかったな」
「この錬成陣、大佐のに似てるし、メモ書きあるし。……あ、見ちゃまずかった?」
「かまわない。好きなように見るといい」
 しばらくぱらぱらとめくっていたエドワードは、ふと手を止めてロイを見た。
「あのさ」
「……ん? 何だ?」
「距離、伸ばしてどうすんの?」
「戦場で役立てるためだよ。それ以外に何がある」
「嘘つけ」
「私の場合は弾切れということがないからな。距離を伸ばせれば大砲の必要がなくなる。文字通りの戦闘兵器だ」
「違う、そうじゃない。俺が聞きたいのは……」
 エドワードは口をつぐんだ。どう言ったらいいものか、考えあぐねているのだろう。
 聞きたいことがどんなものかはだいたい想像がつくし、どんな答えが求められているのかも予測できたが、実際に聞かれない限り答えるつもりはなかった。
「コーヒー、冷めてしまうよ」
「ん」
 エドワードは紙の束を持ったまま、机に腰かけてカップに口をつけた。いまさら行儀の悪さを咎める気にもなれない。
 注意すべきことはもっと他にある。
「さっき、何を話していたんだ?」
「ああ……知り合いの家に賢者の石に関する本があるから行ってみないかって。タイトル聞いたら、持ち出しは出来ないけどここの図書館にあるし、なんかやな感じがしたから断ってたとこ。……最近、ああいうのよくあるんだ」
 自覚はあるらしい。そして「何か」はわからなくても「やな感じ」がするのなら、感覚としては間違っていない。
「……俺の後見人は大佐だって知ってるだろうにな。簡単に取り込めるようなガキに見えんのか」
 前言撤回。まったくわかっていない。
 ロイは大きく大きくため息をついた。もっと早く話してきかせればよかった。
「君が声をかけられるのは国家錬金術師の肩書があるからではない」
 少年はきょとんとしてロイを見下ろした。
「その容姿だ。髪の色と同じ、珍しい金の瞳。整った顔立ち、鍛えてあっても未成熟な身体」
「おい、ちょっと待ってくれ、それじゃ俺は――」
「君のような子供も男の性的な対象となりうる、ということだよ」
 ぱくぱくと泡を吹いたように言葉が出ない。そんな少年を見て、ロイは肩をすくめた。
「気付かなかったとは恐れ入る」
「ばっ……だって俺、ガキじゃん、柔らかくねえし、いい匂いもしねえし、胸だってあるはずなくて――」
 ロイは思わず笑い出した。焦るエドワードがぽかんと口をあける。
「鋼の、君だって柔らかくもなく、いい匂いもしない、ガキで胸のない弟を愛しているじゃないか。自分を棚に上げて可能性を否定するのは賢いとは言えないな」
「あ……ああ、うん、……でも、さ……」
「もちろん、君の肩書をまったく認めていないわけじゃないだろうがね。軍部においての強者、弱者の分別は一般社会におけるよりもずっとはっきりしている。君は子供というだけでたいていの人間に侮られるんだ、例え史上最年少で国家錬金術師試験に合格した天才児であろうともな。危機感の無さが加われば、ますます侮られる。それが君の現状だ」
 エドワードは机の上に腰かけているから、うなだれて顔が金髪に透けようとその表情はロイの目によく映った。
 嫌悪、と評するのが最も似合うだろう。大人に性的な対象として見られることへの嫌悪と、弟をそのような目で見る自分への嫌悪。
 そんな顔をするな、と言えば、エドワードは途方に暮れたように肩を落とした。ロイの視線に込められる熱にも気づかず。
 頭の中で何度組み敷かれ、何度喘がされていることも知らずに、エドワードはロイへ答えを求める。どうしたらいいのかと。
「声をかけられるのが多くなったのは最近だと言ったな」
 小さな身体がこっくりと頷いた。
「ならば一度、アルフォンスといるときの自分の顔を鏡でよく見てみるといい。君が思う以上に、表情は雄弁なものだ」

 きっと、艶めいて見える自分に驚き、慌てふためいてまたこの部屋にやってくるはずだ。そうしたら、答えを教えてやろう。
 ロイは胸の内でひそかに笑い、腰を浮かせてエドワードの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。わざと、エドワードがいやがる子供扱いをするために。
 自分に対してだけ、警戒心を抱かせないためには必要なことだ。一度だけ自慰を手伝ったことが悪い方向へと至る可能性は出来る限り排除せねば。
 折に触れ、後見人として、大人として安心させ、エドワードが楽に心をゆだねるようになればそれに越したことはない。
 逃げ場所は簡単に、檻へと変えられるのだから。

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増田はだめな大人だなあ。