気づかずに、踏み越えてしまった


 気を張った旅は、思っていた以上に体力を消耗させたのか、エドワードの風邪は長引いた。
 結局、最初に泊まった日から数えて一週間経っても相変わらずロイの家で過ごしていて、その間の数日はアルもロイに世話になっている。兄が迷惑と心配をかけたお詫びに、とアルは書庫の整理や掃除を手伝い、合い間に兄の様子を見に顔を出した。そのたびに、エドワードは赤くなる顔に四苦八苦しながら平静を装わなければならず、嬉しいのと焦りとが半分ずつで、しかしこういうのも悪くはないと思っていた。なぜなら、エドワードが困ると、ロイが助け舟を出してくれるからだ。
 アルにかけられる声に胸をときめかせたり、食事を持って来てくれることに鼓動を早めたりすると、そんな幸せとセットになった自己嫌悪が襲ってくる。それに押し潰されてベッドの上で丸くなる前に、何気なくロイが「よかったな」と頭を撫でてくれる。そうすると自然と、ああ、喜んでもいいんだ、幸せだと感じてもいいんだ、と思えてくるのだ。
 これまでロイのいる場所はエドワードにとっては甘美な逃げ場所でしかなかったが、熱を出して寝込んだあの日以来、落ち着くための逃げ場所ではなく、心から安らげる場所に変わった。ベッドは寝心地がよかったし、相変わらずパジャマのズボンは大きすぎて癪に障ったが肌ざわりはよく、不器用に刻まれた具だくさんのスープは腫れた喉にも優しかった。何よりロイの気遣いが伝わってくる。
 大佐には感謝しなくちゃね、とアルは何度も言ったが、本当にその通りだ。愚かなこどもに手を差し伸べ、受け入れてくれる。
 アルを好きだと自覚する前の普段のつきあいは、嫌味や先回りの応酬が多かったが、今思い返せば、それだってロイに甘えていただけだ。大人げないと周囲――主にホークアイやハボック――に指摘されはしても、ロイの態度はやはり大人だった。
「お礼とか、したほうがいいと思うか?」
 ちょうど換気をしにきたアルに聞いてみると、「そうだね。ずいぶんお世話になったし」とすぐさま返事があった。
「でも何がいいんだろうね、大佐の趣味はよく知らないし、……兄さんの趣味だと大佐が困りそうだし」
「ん? それはオレの趣味が高尚過ぎて大佐には理解出来ないってことか?」
「兄さん、本気で言ってるなら、美術書とか読みかえしたほうがいいと思う」
 兄のセンスをばっさり切って捨てる弟に、何を失礼なことを!と食ってかかることは出来なかった。この会話の最中も、毛布をかぶってアルに背を向けたままだ。
 エドワードの熱は高低を繰り返し、高いときにはアルが着替えを手伝ってくれたり(ほとんど着せ替え人形状態だったが)、ダイニングからベッドに運んでくれたりと接触が多くて、そんなときは嬉しさと恥ずかしさを感じる前に感情の針が思いきり振りきれてしまって、自分でもわけがわからなくなるのだ。ロイがいれば取り繕うことが出来ても、まるきり二人っきりだとそうもいかない。たぶん、近くで話したりするだけなら大丈夫だとは思う。でも、少しでも触れてしまうと、だめになってしまう。エドワードが意識してアルに触れないようにしていても、アルはエドワードの心の動きなどわからないから、無意識に熱を測ろうとして、温度を感じることの出来ない手のひらをしょっちゅうエドワードの額に当てようとする。そして、温度もわからない自分の鎧の身体に気づき、エドワードの気づかわしげな視線を安心させるように「まちがえちゃった!」などと笑うのだった。
 これは決してアルには伝えられないことだが、エドワードは今のアルが鎧の姿でよかったと思っている。本当に最低の兄だが、もしアルに体温があったら、意識が過ぎてアルの傍にいることすら出来なかっただろう。身体が無機物だからこそ、欲望は妄想の中に収めることが出来る。時には吐き出すことはあっても、なんとか傍にいられる。これだけは、ロイにも話したことがなかった。
 もしロイに話したら……さすがに軽蔑されるだろうか。
 エドワードが苦笑すると、笑った気配を感じたのか、アルがベッドをぐるりと回って、顔を覗き込んできた。
「だいぶ元気になったよね、兄さん」
「――っ!!」
 鎧の身体全体がアルの安堵を表していたが、エドワードは突然のアルとの距離のなさに驚き、思わず毛布を頭の先までかぶってしまった。
「……兄さん……?」
 可愛らしく響く声は困惑に満ちていたが、エドワードには取り繕う余裕もない。風邪とは別の意味で、かあーっと熱が上がり、頬が赤く染まる。いつぞやのホテルで鏡に映ったあの顔をしているに違いなかった。瞳が潤み、どこか物欲しげに開かれた口――アルを欲しがっている顔、だ。
「風が冷たかった? ごめん、今閉めるから」
 感情を抑えるために震えた身体を、寒さによる震えだと解釈したのか、アルは戸惑った様子で窓を閉めた。アルの行動の一つ一つがエドワードを悩ませる。何も悪くないのに。アルには何の責任もないのに。ただ、自分が弟に抱くべき感情を踏み越えてしまっただけで。
「……ごめんな、アルフォンス……」
「何を突然、謝ってるのさ。兄さんはいつもがんばりすぎるから、こんなふうにゆっくり休むことも必要だよ。大佐はよくしてくれるし、たまには甘えちゃうのもいいんじゃないかな」
 家に女性を招待できないのは残念がってるかもしれないけど、と茶目っ気をにじませてしめくくると、アルは1階へと降りて行った。
 一人残されたエドワードは、相変わらず毛布に潜ったままアルの気配が去るのを待ち、ため息をついた。この火照りも激しく高鳴る鼓動も全部、ただの風邪のせいならばよかったのに。
 一週間占拠してもなお、ロイの匂いがするロイのベッドで、罪悪感にさいなまれる。本来ならロイが一人で、場合によっては親しい女性と使うベッドで。
 一瞬よぎる胸の痛みの意味を把握するより先に、表に車が停まる音がした。


 慌ただしい足音はアルのものだった。階段をかけあがったアルが、らしくなく乱暴にドアを開ける。
「兄さん!」
 あまりの慌てように、エドワードは毛布から顔だけ出してアルを見た。
「大佐がたいへん!」
「え……?」
「って、ちょっと、大佐! だめだって! 危なっ……少尉大丈夫?」
「……まあな。なんとか……。まったくもー、大佐ー? そっちは大将のベッドだから、あんたのはそっち」
 聞こえてきたのはハボックの声で、エドワードがもぞもぞとベッドから這い出ると、そこにはロイを支えるハボックと、困った様子で立っているアルがいた。
「……そのグロッキーなの、大佐?」
 ロイはどことなくボロボロで、エドワードの角度からは見えないが、目の下には確実に隈が出来ているのだろう。
「あんまり疲れてるみたいだったから、車で送ってきたんだが、自分で歩けるって聞かなくてさ。ま、結局こんな状態になってるわけだけど」
 肩を貸すハボックは、ロイのベッドをエドワードが占拠していることを知っている。だから、この一週間ロイが使っていた客用寝室に連れて行こうとしたが、ロイの足は本来の自分の寝室に向かっている。本能がそうさせるのだろうか。
「大佐―、だからそこは大将のベッドですって」
「オレ、そっちのお客さん用でもぜんぜんいいんだけど、大佐に風邪移ったりしないかな? このベッド、ずっとオレが使ってたわけだし」
「シーツは昨日変えたばっかりだし、大丈夫じゃないかな」
 最終的には三人の意見が一致し、ロイはようやくお望みの自分のベッドに横になったのだった。
 ずるずると落ちていくズボンに嫌気がさし、結局パジャマの上だけ着ることにしたエドワードは、疲労の色が濃いロイの顔を見つめ、口を開いた。
「ひょっとして、もう移っちゃったのかな……」
 さんざん世話になったうえに、風邪まで移してはとんだ恩知らずである。しかし肩を落とすエドワードの言葉を、ハボックはあっさりと否定した。
「いや、ただの過労だな。最近デスクワークがたまってたし、息抜きできるようなこともなかったしさ」
「でも、やっぱオレのせいだ。仕事して帰ったら、夕飯作ってくれたり、風呂の用意してくれたりしてたし、帰っても休めなかったんだ……」
 まったくだめだなあと思った。ぜんぜんだめだ。迷惑をかけてばかりいる。
 うつむくエドワードに「大佐がやりたくてやったことなんだから、気にしなさんな」と明るく慰めの言葉を残し、ハボックは仕事に戻って行った。


 ……眠れない。
 …………ほんとうに眠れない。
 ………………まったくもって眠れない。
 一週間で慣れてしまった居心地のいいロイのベッドを恋しく思うほどに、客用ベッドでは一向に眠気が訪れなかった。いや、一週間で微かに安心出来る匂いはついているが、どことなく寒々しい。そもそも毎日寝てばかりいたから眠気に襲われないのは当然ともいえるが、ロイのベッドでは眠るのに困るなんてことはなかった。
 階下にはアルがいる。顔を合わせづらい。
 でも、このまま漫然と眠気を待つには、客用寝室というのは殺風景すぎて心もとない。
「……マスクすれば、平気だよな……?」
 問いには誰も答えてくれない。が、エドワードはこそこそとマスクをつけ、ベッドから抜けだし、部屋を出て、そろりそろりと廊下を歩き、こっそりとドアを開けた。ロイの部屋のドアを。
 ロイのベッドの右半分はぽっかりと空いていた。
「……お邪魔しまーす……」
 エドワードはただ、寂しかっただけだ。柄にもなく。そして、ロイのベッドはエドワードを簡単に夢の世界へと誘惑した。
 眠りたかった、ただそれだけだった。よく眠って、早く風邪を治せば、これ以上ロイに迷惑をかけなくてすむ。
 だから、このあと、どんな事態が起こり、自分の身に何が起きるかなんて、予想すらしていなかった。

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文字書きさんに100のお題 Project SIGN[ef]Fより 56:踏切

増田は連日連夜兄さんの悩ましげな顔を見せつけられるので寝不足になってしまいました。