オレンジ色の猫

 かなり貴重だというその文献はロイの伝手で借りたものだった。
 ロイの師匠が誰だかは知らないが「私の師匠の知人だ」とのことなので実力のある錬金術師なのだろう。喧嘩でロイに勝てないとは思いたくないがロイの錬金術への造詣の深さは認めている。そのロイが、何気なくエドワードが呟いた書名に反応し、「読みたいのなら借りてあげよう」と頼みもしないうちから段取りをつけたのは、きっとこの本にそれだけの価値があるからだ。
 本の中身は日記だった。しかし人に読ませることを前提としたものだからひとりよがりにならずに読みやすい。文章自体もうまく、とても面白くて、家族に起こったささやかなハプニングについて綴られた箇所などは深夜にも関わらず大笑いしてしまって慌てて口をつぐんだ。
 ホテルではなくロイの一軒家だからそれほど近所迷惑にはならないが、なんとなく窓の外なんかを見回し、明かりがついた様子がないのを確認すると、ほっとため息をついた。
 あらためて本から意識が覚めると、ずいぶん肩が凝っていたことに気づく。同じ姿勢で二時間三時間といれば当然だろう。目も疲れた。
 いつもなら客用のベッドにもぐるところだが、今日はあらかじめ、リネン類を洗いに出していると言われていた。毛布さえあればソファーでいいと答えたのはエドワード自身だ。しかし今夜は思っていたより寒い。暖炉に火をくべているから起きている分にはあたたかいが、朝まで火を消さないままというわけにはいかないし、消してしまうには寒すぎる。ふと迷ったエドワードの脳裏に、ロイのベッドが浮かんだ。
 数回、私室に入った際に見ただけだがかなり大きなベッドだった。二人くらい余裕で寝られそうな。
 ロイがそんなベッドを購入した理由は一つしか思いつかないが、今夜は相手もいないし、お邪魔虫にはならないだろうと、エドワードはロイの私室へ向かった。気配に敏い軍人だから、入るときに起こしてしまうかなと思ったが、杞憂だった。エドワードは上着と靴とズボンをぽいっと脱ぎ捨てると「おじゃまします」と小さく断って、ベッドの端にもぐりこんだ。
 端っこはシーツが冷たい。眠いから体はあたたかくなっていたがシーツの冷たさは染み入る。自然と体はぬくもりを求めてロイのほうへと寄っていく。さすがにくっつこうとは思わないのでぬくもりを感じるぎりぎりのところで止まったが、そもそも寝ている間に勝手にベッドに入られる時点でロイには迷惑だろう。しかし眠気と寒さのはざまにゆられるエドワードの頭からはそんなことはすぽーんと抜けていて、月明かりに照らされるロイの寝顔が穏やかなことに、なんとなくほっとして目を閉じた。


 ロイがいた。もともと童顔だがいまよりもっと若い。ベッドの前に立っている。ベッドには見知らぬ男が起き上がり、ロイをじっと見つめていた。
 ロイはなにかを決意した者の顔をしていて、男はそんなロイに苦悩しているようだった。
 会話の内容はわからない。エドワードはただ、目に映る光景を見るだけだ。声は聞こえない。
 ロイは国軍の軍服を着ていた。ゆっくりと頭を下げ、部屋から出て行った。声は聞こえないのに、男が「馬鹿者が……」と呟いたのがわかった気がした。愚かなこどもを咎めるような、それでいて案ずるような、二つがない交ぜになった双眸は、国家錬金術師になると告げたときのピナコに似ていた。そう、この男はロイの身を案じていた。
 エドワードは男に背を向けるとロイを追った。横顔を見た。いまにも泣きそうな姿に胸の奥が、きゅう、と痛んだ。ロイが何を決意し、男と決別したのかはわからない。が、ロイは決意するとともに深く後悔しているのだと思った。その後悔を抱きながらもその道を己に課した。握り締めた拳が震えている。エドワードはそっとロイの拳に左手を重ね、背伸びをして右手で頭を撫でた。なぜだかわからないけれど、そうしたくなったのだ。泣いているならなぐさめたい。震えているならあたためたい。人が、人として与えられるべきぬくもりを、他の誰かが与えられないのなら自分があげたい。
 ロイはしばらくじっとした後、エドワードをすり抜けて去って行った。見送る背中は、凛と伸びていた。


 師匠がいた。ベッドに起き上がり、ロイをじっと見つめていた。
 何度となく夢に浮かんだ師匠との決別の時。錬金術師よ、大衆のためにあれ。錬金術師として、又師匠自身の教えとして繰り返し心に刻まれた言葉は、この国で実行するには困難を伴った。国家錬金術師は軍の狗。国民のためでなく国家のために尽くすことを定義づけられた者。しかし議会が形骸化し、軍部が力を持つならば、軍に入ることこそが大衆のためになるのだとロイは考えた。若者の浅知恵と師匠は思ったのかもしれない。ただ、ロイにはもはやこの道しかなかった。だから、師匠に咎められようと、他の道は考えられなかった。
「ありがとうございました」
 ロイは深く頭を下げ、師匠に背を向けた。
 廊下に出ると、張っていた虚勢がぼろぼろとはがれおちていくのがわかった。この道しかなくても、選んだことに後悔をしたくはなくても、ロイの胸には後悔が澱のように積もっていた。錬金術師として育ててくれた恩に報いることが出来なかったこと、師匠の矜持を汚すような弟子になってしまったこと。ロイ自身が信じる、大衆のためにある姿であっても、後悔からは逃れられない。歩き出そうとした足が止まる。ここから離れてしまったら、もう終わりだ。師匠と会うのは本当にこれが最後になる。
 涙が流れそうになった、その時だった。
 どこからか迷いこんだ猫が、にゃあと鳴いた。黒猫かと思ったら、廊下のわずかな明かりにオレンジ色が映る。小さな猫は、ロイの足元にまとわりつくと、頭を押しつけるようにして何度も鳴いた。かがんで抱き上げると、猫はロイの頬をぺろりとなめた。くすぐったかった。そしてあたたかかった。このあたたかさを守るために、戦うことを決めた。ロイは師匠の部屋へ向かって、もう一度頭を下げた。


 目を開けると、辺りはまだ暗かった。月は窓から逸れ、視界はぼんやりとしている。ふと、ロイは違和感を覚えた。あたたかいのだ。自分の体温以外のあたたかさ。女性の柔らかさではない、別のもの。灯りをつけて驚いた。
「鋼の……」
 すぐそばで、エドワードが丸まっていた。すーすーと穏やかな寝息を立てている。なんでこんなところに……と考えて、思いのほか室内の空気が寒いことに気づいた。予想よりも冷え込んだらしい。ソファーに毛布では寒くて、このベッドが選択肢に上がったのだろう。しかし、まさかエドワードがこんなことをするとは思わなくて、本当にびっくりした。
「ああ、そうか……あの猫は君だったんだね」
 師匠との決別の時はよく夢に見る。何かに迷っているとき、選択を迫るように師匠は出てくる。寝ざめはいつも悪かった。頭が重く、体はだるい。でもなぜか今日は、頭はぼんやりしていても重くはなかった。どこか、晴れやかでさえあった。
 原因は、この子猫だったのだろう。
 あのとき。
 師匠の身体は病魔にむしばまれ、先は長くない。せめて、看取ってからでもいいのではないか。何度もそう考えた。しかし、師匠に自分の道を告げずに見送ることは、軍人になること以上にひどい裏切りであるように思えた。
 基礎を延々と教え続ける師匠に、なぜ自らの研究について教えてくれないのだと疑問に思い、反発した時期もあった。師匠の友人だった国家錬金術師が、自分の元へ来ないかと誘ってくれたこともあった。とても魅力的な誘いだったが、なぜかロイは断った。師匠に元にとどまり続けた。なぜかはわからなかったし、今でもわからない。己の通ってきた選択のすべてが間違っていたとは思わないが、正しかったこともないのだと思う。現に、イシュヴァールの英雄と呼ばれるまでになった。英雄とは勝った者の論理であり、事実は大量殺戮者に過ぎない。奪った命で救われた命があるとしても、それは正しいことではない。かといってすべてが間違っていたわけでもない。明確に区切ることのできない様々な事象にさいなまれ、その度にロイは後悔を背負ってきた。
 後悔を投げ出さないことだけがロイに出来ることだった。
 エドワードもまた、深い後悔を抱えて生きる人間だ。彼は、弟と自分のために国家錬金術師になった。資格を取るよう勧めたのは自分だが、ひいては大衆のためにと理由を求めた自分よりよほど明快だとロイは思った。そして結局、彼がしていることといえば、身体を取り戻すため、と言いつつ、旅先でいろいろな人を手助けしている。市井にいても力のない錬金術師よりもよほど「大衆のためにあれ」という教えを体現している。もちろんそれは、彼がまだこどもだから、ということもあるだろう。軍の狗、と言われても彼はこどもだ。そして人々は概して、天才という存在に弱い。こどもというだけで相手の緊張を解し、天才ということで人々の賞賛を集める。彼の優しさは時々わかりがたいが、理解されればそれは簡単に彼への信頼とつながる。ある意味で、彼はずるいのだ。
 しかし彼は、自分のしたことの責任を取ろうと努める。こどもだから、と逃げたって誰も怒りはしないのに。エドワードのそんなところがロイには好ましかった。彼の生き方はどこか自分と似ている。それでいて、自分には出来ない生き方を選んで進み続けるエドワードのことをロイはいつしか愛するようになっていた。
 もしいつか、エドワードが戦場に出ることになったら、自分はきっと、彼の資格が剥奪されるよう、持てる力を尽くすだろう。戦場ではお前の力など物の役にも立たないと現実を突き付ける。だって彼には人の命は奪えない。戦場ではためらったものが死ぬ。エドワードの命が失われることなど考えたくもないし、奪った命の分だけ重荷を背負う姿など見たくもなかった。
 人体錬成という錬金術師最大の禁忌を犯しても、ロイにとって、エドワードは綺麗な存在だった。そして、これからもそうあってほしい。たとえ押し付けであっても。
 この身が死に瀕したとき、一言「頑張ったな」と言ってくれたら、きっと笑って死ねる。
 ふと、エドワードが身じろいだ。
「……大佐……?」
「まだ日が昇り切るまでには時間がある。もう少し寝ていなさい」
「ん……」
 素直に頷いたエドワードは瞼を閉じ、離れた空間を埋めるようにロイの胸に顔を押しつけた。
 この存在を手放す日が一生来なければいいのに、とロイは願い、そっとエドワードの背中に腕をまわして抱き寄せた。
 

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何が書きたいのか自分でもよくわからないけど、結局兄さんと増田さんはよく似ている。