※吐いたりするのでご注意ください。
愚かな虫
どうやって司令部から宿へ戻ってきたのか、よく覚えていない。ただ呆然として、気づいたら宿の部屋の前に立っていた。アルフォンスはまだ帰っていなかった。
最近、ロイとは親しくない士官に声をかけられることが増えた。そのどれもが、古い文献が、珍しい文献が手に入ったから見に来ないか、というものだった。自分たち兄弟が賢者の石を探していることは司令部内では秘密でもなんでもないが、借りを作るのはためらわれた。司令部内で軽はずみな振る舞いをしてロイの不利益になることを避けるくらいの脳はある。それに何か嫌な感じがした。声をかけてくる男たちに共通したのは、悪寒、だ。視線が、身近な――たとえば、ロイやブレダ、ハボックといった大人たちとは違う、ねっとりとして脂っぽく、人の良い振りをして腹の内に何を飼っているかわからないような、気持ちの悪い――
『君のような子供も男の性的な対象となりうる』
「っ、うえっ……」
口を手で押さえてトイレに駆け込んだ。こみ上げてくるものに逆らわずに吐き出す。喉を通る胃の中身がますます吐き気を助長させた。
「がはっ……あっ、……う……」
瞼が熱い。喉が痛い。胃がむかつく。鳥肌がおさまらない。吐き気もおさまらない。
「あっ、ああ……ぐおっえええ……」
エドワードは何も無くなるまで、延々と便器に吐いた。吐いたあと、便器に縋るようにぺたりと座りこんだ。口の周りが苦いような甘いような酸っぱいにおいで気持ちが悪い。
膝を叱咤して立たせると、壁伝いに洗面台までたどり着く。勢いよく流れだす水で口をすすぎ、痛む胃へと水を流し込んだ。喉が焼けつくように不快だった。
その場にコートと服を脱ぎ落しバスタブに入り込む。蛇口をひねればシャワーからは冷たい水が降ってきた。震えをこらえていると少しずつ温かくなって湯に変わる。髪も肩も手も、タオルでごしごしと擦った。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。反吐が出る。
下卑た視線の男たちに。
否、……弟に欲望を向ける自分、に。
冷たい鎧の体に火照って熱を灯す身体。親愛の情を向けてくれる弟へ欲情する本能。
何もかもが相容れない。感情が噛み合うことはなく、また噛み合ってはいけない。消さなければならない感情。
すべてが混ざり合って消化しきれない食物とともに吐き出してしまえればいいのに。
ああ、気持ちわるいなあ。
レバーを引いて、便器に溜まったままの汚物を流す。気持ちわるさはまだ胸の中に残っている。
「兄さん、どうしたの? 顔色わるいよ?」
アルフォンスが戻ってきたのは日が暮れてからのことだった。吐いたものはすべてトイレに流した。コートも脱いだ服もすべて客室係に洗濯を頼んだ。アルフォンスににおいはわからないが、念のため換気もした。そして机に向って本を開いている。服を預けたときに漂うすえた臭いに気をきかせたのだろう客室係が運んできたはちみつたっぷりのレモネードは、半分以上残って本の脇で冷めていた。
「ああ、ちょっとな。うたたねしてた」
「また何も掛けずに寝ちゃったんだろ、兄さんてば。駄目じゃないか、お腹出して寝ちゃ」
ほら、ちゃんとベッドに入って、とアルフォンスに促され、素直にもぐりこんだ。綺麗にベッドメイクされていて、当然ながらシーツが冷たい。
「さむい……」
「寒い? やっぱり風邪引いたんだよ」
夕食を部屋まで運んでもらおうかと言うアルフォンスに首を振り、湯たんぽを頼もうかという提案には曖昧に頷いた。部屋を出て行く音を聞き届けてエドワードは毛布を耳まで引き上げてかぶる。アルフォンスと話すのがつらい。戻ってくるまでに眠れていればいいなと思いながら、ゆっくりと目を閉じた。
朝になって、寒いような熱いような身体をもてあました。毛布をかけても首の隙間から入り込む空気が寒い。逆に足元はやけに汗で湿っていて不快だった。身じろぎしたエドワードに気づいたアルフォンスが、つと顔を上げる。
「おはよう、兄さん」
ガチャガチャと鎧がこすれる音がして、アルフォンスが上からのぞきこんでくる。
「具合はどう?」
「なに、が……?」
声がかすれる。喉が渇いて、張りついているようだ。
「熱だよ、熱。夜中に息がちょっと苦しそうだったから、毛布をもう一枚かけて、おでこにタオルも置いてみたんだけどさ。声がかすれてるから、まだ下がってないのかな。触ってもボクじゃわからないんだよね、ちょっと待ってて。フロントに体温計もらってくるから」
「いい。平気だ」
「でも声が――」
「喉が渇いただけだ。水、取ってくれるか」
手伝ってくれようとするのを断って、エドワードは自分で体を起こした。
ぬるくなった水差しの水をアルフォンスから受取り、一気に飲み干す。
そうか、熱か。
さして暖かい季節でもないのに冷たい水をシャワーで浴びて、ろくに髪も乾かさずにいれば風邪くらい引くだろう。それとも、吐くほどのストレスが影響したか。
どちらにせよ、アルフォンスに心配をかけるのは本意ではない。多少体が辛かろうが、ホテルのベッドでのんびりと寝ているつもりはない。
「ありがとな。おかげでよくなったみたいだ」
水で喉のかすれはごまかせた。エドワードが安心させるように笑うと、アルフォンスは表情のないはずの顔をほっと和ませた。
「朝食はさっきホテルの人がこっちに運びましょうかって言ってたけど」
あまり食べられそうにないが、目の前で残せばアルフォンスは気にするだろう。
「下で食べるよ。ここ、換気しておいてくれるか」
「……そうだねっ、入れ換えたほうがいいね。いってらっしゃい」
手早く着替えて階下へ向かった。もちろん、食堂ではまともに食べる気はなかった。
「エルリック様、よろしければこちらを」
スープすらもてあまし、温かい紅茶だけをお腹におさめたエドワードの前に差し出されたのは一つのグラスだった。
怪訝に思って見上げれば、そこにいたのは昨日の客室係で、グラスからはショウガとハチミツの匂いがした。
「胃のお加減が優れないとお見受けしましたので」
「……ありがとう。これなら平気そうだ」
「何かありましたら、お申しつけください」
胃どころか、完全に体調が悪いのを見破られている。医者に行けと言わないのは、客室係としての領分をわきまえているからにすぎない。彼女の目は、強がる子供をあやすような表情をたたえていた。
「あの、さ……アルには言わないでくれるかな。寝てればすぐ直るし、あんま心配かけたくないから」
「かしこまりました」
お大事に、と折り目正しく礼をして彼女は席を離れた。
リンゴのジュースをベースにしてショウガとハチミツを加えた飲み物は、喉に引っ掛かることなく、すうっと下りていく。スープに閉口した胃にも優しく染み透るのがよくわかった。どことなく、体も楽になった気がする。あとでもう一度礼を言おうと思いながら部屋に戻ると、アルフォンスがちょうど窓を閉めているところだった。
「おかえり。換気したけど寒くない? 暖房入れようか」
「ああ、いいよ。自分でやるから――」
その言葉は、何の気なしに思い出した。
『一度、アルフォンスといるときの自分の顔を鏡でよく見てみるといい』
アルフォンスが近くにいて、鏡がそこにあった。
火照った頬は熱のせいだろうか。潤む瞳も熱のせいだろうか。鏡には映らない、甘く掠れる声もまた、熱のせいなのだろうか。
全部、風邪による熱のせいだと。そう思いこんでしまえれば楽だったのに。
笑いだすことも出来ず、その場にうずくまることも出来ない。ここから逃げだしてしまいたかった。いや、逃げなければいけなかった。アルフォンスに気づかれる前に。おかしいと思われる前に。
「……思い出した、行かなきゃならないとこがあるんだ」
「今日じゃなきゃダメなの? よくなったっていっても体調万全じゃないなら、あとに延ばしてもらったほうが」
「いや、今日しか駄目なんだって言ってて。ごめん、俺ちょっと行って来る」
「兄さん、ボクも行っ……兄さん!?」
アルフォンスの言葉を途中で遮って廊下に出る。背中に慌てて「無理しないでね!」と心配する声が追いかけてきて、胸がぎゅっと痛んだ。優しい、優しいアルフォンス。ただ逃げ出したくてついた嘘なのに、気遣ってくれる。
どうすればいい。
走りながら涙が出た。行先は一つしかない。何もかもを知っていて、受け止めてくれる人間が一人だけいる。行先はそこだけ。
唯一の逃げ場所。
「……鋼の、ノックぐらいしたまえよ」
鷹揚に構えた男の、開かれた腕の中に、ぶつかるように飛び込んだ。
文字書きさんに100のお題 Project SIGN[ef]Fより 71:誘蛾灯
同じ言葉が同じ文に出てきても気にしないで書いてみた。