目印


 幼い頃、兄の姿が見えないのが嫌な時期があった。兄のあとについて歩き、兄が川に飛び込めばアルフォンスも飛び込み、兄が丘まで駆けて行けばやっぱりアルフォンスも駆けて行った。
 時々兄は「なんだよ、ついてくんな!」と怒って、アルフォンスがトイレへ行っている隙にこっそり外へ出て行ったり、アルフォンスが母さんの手伝いをしているときにやっぱりこっそり出て行ったりしたけれど、一度アルフォンスが兄を無理に追いかけていって怪我をして以来、そんなことは言わなくなった。どこへついていっても、しかたないとばかりに苦笑して、アルフォンスが追いつかないときはじっと待ってくれていた。
 今思えば、たかだか四歳や五歳のこどもが、一つ下の弟の面倒をよくあれだけ見ていたものだ。アルフォンスは、自分にもし弟がいたとしてもとてもあそこまでは出来なかった、と過去を振り返ることで平静を保とうとした。今アルフォンスの側には、兄がいない。
 ついさっきまで、ここで一緒に次の電車を待っていた。兄が「ちょっとトイレ」と言って姿を消してから三分も経っていない。そしてもう二分も経たないうちに戻ってくるだろう。トイレが混んでいたらもう少しかかるかもしれない。けれど戻ってくる。すぐに。
 早く帰って来てよ、兄さん。
 アルフォンスは大きな身体を縮こませて、トランクの隣にうずくまる。今日は暑いと脱いで置いていったコートがある。兄がたたまずに無造作にトランクの上へ放り投げていったコートは、少しずつその位置をずらしていって、もう落ちそうだ。アルフォンスは手を伸ばして兄のコートを引っ張ると、せっかくだからたたむことにした。気もまぎれるし。
 ここ、ほつれてる。
 兄が戻ってきたら、すぐ服がほころんだり汚れたりするようなことをしないようにお説教して、列車を待つ間に縫ってあげよう。鎧の身体は大きくて細かい作業は不得手だけれど、どうにか出来ないこともない。
 だから早く。兄さん。
 向かいのホームに列車がすべりこんできた。地面が震動する。ガタガタと細かく揺れる。視界も揺れる。列車がとまっても、視界はまだ揺れている。おかしいな、今日は暑い日なのに。だいたい、この身体は寒さなんて感じないのに。
 震えているのは、心。
「兄さん……」
 こわくなって、きゅっとコートを抱きしめる。赤いコートは人ごみにまぎれてもすぐにアルフォンスが見つけられるようにと兄が選んだものだ。人の多い都市でも赤いコートを着て歩く人間は少ない。事実、兄は目立った。少し離れても兄がどこにいるかはすぐにわかる。本当に、良い目印だった。けれど今、兄はその目印を身につけていない。
「兄さん、兄さん、兄さん」
「なんだよ、アル」
 頭上から降りかかった声は、何の陰も含んでいない。耳にしみついた兄の声だった。
「兄さん!」
 アルフォンスは勢いよく頭を起こし、一瞬で怪訝そうな面持ちになった兄にしがみつく。
「遅いよ兄さん!」
「ちょ……アル、腰!腰くだける!」
 壁の間際で起こっている小さな騒動に行きかう人々が視線を向けてくる。何事かと慌てる人もいる。けれど兄を離せなかった。そうやって、人々が興味を失って、あるいは奇妙な光景を風景の一部と割り切るまで、アルフォンスはじっと兄を抱きしめた。コートとは比べ物にならない安心感。
「どうした」
 苦笑する兄の姿は、幼い頃とよく似ていた。追いつくのを待っていてくれて、手をつないでくれた。一緒の速さで、並んで歩いた。時々、頭を撫でてくれた。アルフォンスとたいして大きさの変わらない兄の手は、なぜかとても大きかった。大きくて、あたたかい。
 鎧の身体では温度はわからないけれど、いまも兄の手はあたたかい。
「……ごめん、なんでもないんだ、ごめん」
 兄が戻って、側にいると、もうほんとうに何でもなくなった。どうしてあんなに不安だったのか、自分でもわからない。
「ほんとにごめん。ほら、列車来たよ。乗ろう」
 困ったような兄を解放して、荷物を持って列車に乗り込む。首を傾げていた兄は、アルフォンスが手招くとひょいっと乗り込んできて、さっさと席を見つけ、二人分確保した。
「この駅って、変な造りしてんだよ」
 さっきのアルフォンスの奇妙な行為を気にしてないかのように、兄はまったく別の話をし出した。
「さっきトイレ行っただろ。それが、ホームから案内板の矢印たどってったら右曲がって左曲がって右曲がって左、左、みたいな迷路なんだ。いざ戻ろうとしたら、違う道入っちゃったみたいで、さっき来たホームとまるっきり反対側に出ちまったんだよ。ようやく着いたと思ったら、お前いないだろ?うわー、どうしよって思ったら列車の隙間からお前が見えてさ。なんだ、反対のホームに来たんだってすぐわかったんだ。お前でかくて目立つから、遠くからでも見つけられるんだよな」
 はっとした。そうだ、赤いコートを選んだ兄が言ったのだ。どうして忘れていたんだろう。
 アルフォンスは兄の迷子になりかけた話に相槌を打ちながら、兄のくれた幸せな言葉を思い出した。
『これだと目立つからすぐ見つけられるだろ。まあでも、お前が見つけられなかったらオレが見つけるからいいんだけどさ』

兄さんの目立つ赤コートの理由を捏造。


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