※ハッピーエンディングと矛盾してて、さらに氷の人が余裕で生きてます


人は人で、どこまでも人で


 ヴァルドラの町はあちこちが破壊され、北方司令部もまた例外ではなかった。もっとも、司令部に関してはエドワードがアルフォンスとともにやむを得ず爆破したりハンマーで叩き割ったりもしたので、どこまでがあの怪物や抵抗してきた軍部の人間によるものなのかはわからない。
 しかしいずれにせよ司令部復旧に協力するようにという命令を素直に聞く気になれなかったのは当然と言えた。ヴァルドラ市街の復興にならば喜んで手を貸すが、何故ヴェルザの一族による襲撃を助長するようなことをした軍部に協力しなければならないのか。軍の理不尽さは承知しているつもりだったが、結局は、つもりでしかない。現に、大総統にたてつくという普通なら極刑ものの事をやらかしてしまい、アームストロングに殴られた。
 ロイとアームストロングに免じてか大総統は他人から見れば鷹揚な態度でエドワードを許し、エドワードには何のお咎めも無い。アームストロングに殴られた箇所は痣にもならず、彼が気を遣って力をゆるめてくれたのがよくわかる。軍の濁ったところを飲み込んで大総統に頭をたれる二人を、エドワードはこどもらしい潔癖さで嫌悪し、その一方で敬意を持ち、深く感謝した。
 自分は随分と大切にされている。
 今も、結局ロイの計らいで市街地へ寄越されて、アルフォンスとともにあちこちから引っ張りだこだ。案外と心配性なのか、ロイはエドワードの護衛にハボックをつけている。トリガーはすでに手配されているが依然足取りはつかめず、いつまたエドワードが狙われるかわからない。
『軍としても、ヴェルザの件に関して聴取する必要があるからな。大総統の勅令が下っているよ』
 どうしてか渋面ではき捨てるように言ったロイは、ひょいひょいとエドワードを手招いて、刺された箇所に服の上から手を当てた。
『この手で奴を見つけたいものだ。そうしたら私が直々に――』
 そのときちょうどハボックが来たのでロイの言葉は途切れたが、後になんと続けようとしたのかはわかった。決して、トリガーに復讐しようという気持ちはエドワードにはないので、入室を許可するロイに「そんなことしてもらってもオレは嬉しくない」と言うと、彼は「レアにするだけだよ」と笑った。
「エドワードさーん、こっちの塀もお願いしまーす」
 道の向こうから呼ばれて物思いから覚めたエドワードは、ハボックと並んで歩き出した。


 一通りのことをやって、昼休みを取ることにしたエドワードは行儀悪く歩きながらハボックと一緒にサンドイッチをつめこみ、途中で花屋に寄って花束を見繕ってもらうと病院へ向かった。
「ソフィ、具合はどうだ?」
 エドワードが差し出した花束を嬉しそうに見つめるソフィは「ありがとう」と言って鼻を近づけた。
「いい匂い」
「だいぶ顔色が良くなった」
「ええ、もう大丈夫。でも先生が退院させてくれないのよ。あとね……」
 ソフィは言葉を濁しつつ、病室の隅に視線をやった。椅子から立ち上がった男は、ソフィの抱える花束を受け取り、「活けてくるわね」とすたすた病室を出て行った。以前のような上半身丸裸の衣装と違って、今はその辺を歩いている人間となんら変わらない服を着ている。口を開かない限り、わりと整った顔立ちのごく普通の男だ。
「いい人なんだけど……先生と一緒になって私をベッドに縛り付けておくのよ」
 もちろんソフィの手足を無理やりベッドにくくりつけておくという意味ではないが、トリガーの矛先がいつエドワードからソフィに向かうかわからないので、彼が多少過保護な面を見せても仕方の無いことだろう。
 なにしろソフィは彼の命の恩人なのだから。
 クレイギンに撃たれた後、どうにか一命を取り留めた彼は聖印の名残なのか驚異的な回復を遂げ、ソフィの護衛に名乗りを上げた。
 そもそも、なぜトリガーがエドワードの命を狙ったのか明確な理由はわからず、ただ己の目的の邪魔をしたからだろうと推測されているに過ぎない。しかしだからこそ、エドワードと行動をともにしたソフィが標的になる可能性も充分にある。
「お前のことが心配なんだよ」
「……わかってる」
 でもたまには病院の外に出たい、とソフィは口をとがらせた。一応、彼がそばについて敷地内の庭を散策することは許されているが、もともとその外見の印象に反して人好きでがやがやとにぎやかなところが好きなソフィには、静かすぎる病院にいることは苦痛らしい。
「その気持ち、よくわかるよ。今はオレも護衛付きだしさ」
「じゃあ、何か。大将は俺のことが鬱陶しいって?」
 戸口の脇にもたれて立っているハボックが、肩を竦めて小さく抗議した。笑いながらなので、本気で文句を言っているわけではない。
「いーや、少尉には感謝してるよ。だってずっとオレについて回らなきゃなんねえんだもん」
「大将はちょこまか動いてついてくの大変だよ」
「ちょこまか……ホントね、エドにちょこまかっていう表現はぴったり」
 ちょこまかっていうのは小さい動物がせわしなく動くことを表現したものなんじゃないですかそれじゃあオレは小動物ってことかつまり小さいってことか!
 と己の思考回路がはじき出した答えは、自ら小さいと認めるような気がして、エドワードは叫ぶのをすんでのところで思い留まった。
 エドワードの治癒と引き換えに感情が抜け落ちたような状態になったソフィはすぐさま病院に運ばれ、そしてエドワードたちがリゼンブールへ戻る寸前に記憶も感情も何もかもを取り戻した。けれど、聖印の力を酷使したことで身体への影響は免れず、そのまま入院を続けることになったのだ。そしてトリガーの件が明らかになり、病院を移ってもう二週間が経つ。
「街の様子はどう?」
 窓から見える風景は、当初から比べればだいぶ以前のものに戻ってきている。壊れた建物は直され、家の外へ出たがらなかった人々は普通に道を歩いている。ただ、行きかう人の話し声や荷馬車の音は通りから離れた建物には届かない。人は無音の空間にさらされると簡単に狂うというが、それに近いものはあるだろう。ソフィがストレスを感じるのも無理はない。
 だからエドワードはこうやってまめにソフィに会いにくる。たいていはアルフォンスも交えて三人一緒だが、軍人を嫌う人々の家の修復にアルフォンスの力があると助かるので弟は兄よりも忙しく、こんなふうにハボックと二人のときもある。
「だいぶ元通りになってきてるんじゃないかな。教会にも人が集まってたよ」
 ほんの短い間だったが、自分たちの拠点となった場所だ。行く先々でアルフォンスが猫を集めてくるので、いっそ猫教会とでも呼んだほうがいいような状態になっている。
 時折、ソフィの傍をふらっと離れるノルンの向かう先はあの教会だろう。
 ほんの数週間前のことなのにやけに懐かしく思い出しているエドワードの耳に静かな廊下からいつになく焦ったような靴音が聞こえて来て、その音の主はノック無しにドアを開けて入ってきた。彼の主義そのままに美しく活けられたはずの花も、少々乱れている。
「鋼の錬金術師!」
「どうしたの?」
 ソフィが首を傾げると、レオニードは花瓶をサイドテーブルにダンと置いた。
「アイツが現れたわ」
 誰のことかを聞くまでもない――トリガーだ。
 花瓶を抱えて病室へ戻る途中、そのことを伝えようしてこっちへ向かっていた看護師に呼びとめられたのだと前置きしてレオニードは言った。
「受付でソフィと鋼さんのことを聞いてきた男がいるんですって。ソフィが入院していることは教えないように言い含めてあるから受付の子も、そんな人は入院していないって答えたそうだけど」
 もともとこの病院は、患者側が許可している人間以外に病室を教えないという、情報保持のしっかりしたところだ。門扉で常に人が見張っているし、外部から容易に侵入出来ないようになっている。大きくはないが、信用の置ける病院だ。
 だからこそ、逆にソフィが保護されているならば軍部かここだろうと予測もつく。居場所が特定されるのと警護のしやすさを秤にかけて、この病院を選択したのだ。
「それ、いつのことだ?」
「ほんの十分前よ。アイツはまだきっとこの辺りにいる」
「ハボック少尉!」
 わかった、とハボックは身を翻して病室を出て行った。しかし司令部へ連絡して周辺を捜索するまでのタイムロスが痛い。
「ちょっと見てくる。ソフィはここにい――」
「貴方も駄目よ」
 レオニードが駆け出そうとしたエドワードの腕をしっかりと掴んだ。細身に見えても意外に力がある彼の手は、振り解こうとしても振り解けない。
「放せよ!」
「放さないわよ」
 反射的に怒鳴ったエドワードに、彼はかつての属性を思わせるひんやりとした声で言う。
「頭を冷やしなさい。少尉が連絡すればすぐにこの一帯に包囲網が敷かれるわ。それまで待ちなさいな。貴方がここで出て行ったら、ソフィが心配して病室を抜け出してしまうわよ」
 そう言われるとエドワードには言い返す術が無い。ソフィはやると言ったらやる子だし、レオニードも片時も目を離さずにいるわけにはいかない。
 ただ、こう続けてしまうのがレオニードの好戦的なところか。
「軍人どもが包囲したら、貴方が出て行くのも悪くはないわ」
「囮ってことか」
 即納得するエドワードにソフィが異論を唱える。
「ちょっと!駄目よそんなの!レオニードも何考えてるのよ。たった今エドを止めたばかりじゃない!」
「こうするのが一番早いと思うのよ。確かに危険ではあるけれど、周りは大勢で見張っているからそうやすやすと刺されたりしないでしょう」
「そういう問題じゃ――」
「でもさ、レオニード。周りをうろちょろする奴がいたらトリガーもうかつに手を出して来ないんじゃねえの?」
 口をはさもうとするソフィを今は聞かないふりをして、エドワードは最もな疑問をぶつける。が、レオニードはあっさりと「その辺は奴の性格を考えれば簡単」と答えた。
「ほんのちょっとではあったけれど、共同戦線を張っていた仲よ。……まあ、仲なんて言いたくもないけれど。ああいうのは、目の前に餌をぶらさげられると我慢出来ないのよね。普段は慎重なくせに、肝心なときに単純に飛びついちゃうの」
 エドワードの記憶にあるトリガーは、アルフォンスをメカにしようとしたり、マメタンクの脱出口を電動にしたりするよくわからない思考の持ち主だったので、慎重という言葉からは程遠いように思われた。だからレオニードの意見にも半信半疑だ。
 小首を傾げるエドワードに気づいたのか、彼は「ま、私の主観だけどね」とあっさりしたものだ。
「でも試してみる価値はあるでしょ。どうかしら、鋼の錬金術師」
「乗った!」
 エド!とソフィが咎めたが、エドワードは考え直す気は無かった。遺恨は早く白日のもとに晒したほうがいい。エドワード自身はともかく、ソフィが狙われる生活をこれ以上続けるのは苦痛だと思ったからだ。
 トリガーを捕らえるのは大総統の意向でもあった。
 大総統の思惑はわかる。彼はトリガーに証言をさせたいのだ。今回のことは全てクレイギンが仕組んだものであると。
 あのクレイギンが部下に、大総統からの勅令であると明かすはずが無いから、トリガーはクレイギンの命令ということしか知らないだろう。クレイギンは手柄は全部自分のものにしたい男だ。
 そしてロイの思惑は大総統とは別のところにある。と、エドワードは思っている。ハボックが連絡を入れたあと、たいして待たせないうちに近辺に捜査網が敷かれ、おまけにロイ自らがやって来た。
「司令部空けていいのかよ。あんた、司令官だろ?」
「仕事を割り振れる人間がいれば機能はするさ」
 暗にあとは人任せにしてきたと言い切り、ロイは発火布を両手にはめる。司令官のお出かけの犠牲者はブレダとファルマンあたりだろうか。
 ロイが自分の有能さを示し、ひいては大総統にアピールするために現場へ出てきたのではないことはエドワードにも充分わかる。「ま、なんせ大総統の勅令だもんな」などと憎まれ口の一つや二つは叩いてしまうけれど。ロイがいつものように軽口で応酬してこないで、「たまには外もいい」と言って伸びをするのでなんだか調子が狂ってしまう。
 それからまもなくして、エドワードは街なかを歩いていた。もう営業を再開している店に顔をのぞかせたり、オープンカフェでお茶を飲んだり、誰も手を付けられないような派手な壊れ方をしている家を直したり、とこの二週間やって来たことと同じことをしている。傍らにはハボックがついているのもいつもと同じだ。ずっと護衛がついていたので、ここで急に一人で歩いていたら変に思われる。
 軍人たちは一部は軍服のまま、大半は普通の服に着替えてあちこちに散らばっている。ある程度油断させないとトリガーは出てこないと踏んでのことだ。
「大将、ちょっと切らしたから買ってくる。ここで待っててくれ」
 途中でハボックが、これ、と煙草をくわえる仕草をし、エドワードは頷いた。束の間、ハボックがエドワードから離れて雑貨屋へ入っていく。来い、来るなら今だ、来い。半ば祈るような気持ちでエドワードはそのときを待った。
 道の向こうから、廃材を積んだ荷車が何台も来て、その周りを何人もの人間が崩れ落ちないように支えている。何人も。何人も。エドワードはざっと見て、目的の顔が無いのと、帽子を目深にかぶったような人間もいないのを確認して緊張を解いた。
「坊主、ちょっとどいてくんな」
「あ、邪魔してごめん」
 エドワードがさっと横に避けると、声をかけてきた男はありがとなと言って通り過ぎていく。その後ろを別の男が――誰かに似ている――ああ、トリガーに似てるんだ――でも眼鏡が無い――何かが光っている、反射して、硬く反射して――
「危ないっ――」
  誰かの叫びに、エドワードは目を見開き、突き飛ばされた。誰かの足が蹴り上げる。金属のきらめきが宙に浮き、そのまま地面へと落ちた。
 トリガーには逃げる間も与えられなかった。
「よくやった、氷の魔術師」
 力強い響きとともに、炎が爆ぜた。
 人間の表面を火が這って行く。トリガーの喉はもはや苦痛の叫びしか上げられず、辺りをのたうちまわった。
「大佐!」
 エドワードの視線の先には、走ってきたのか多少息を乱したロイがいた。
「奴の身柄を確保。搬送先は軍病院だ。表面を焼いただけだから早く尋問が出来るように治療をせっつけ」
 あわただしく部下に命令を下し、トリガーを無視してエドワードの方へ歩いてくる。
 まず、エドワードをくるっと360度回転させた。
「大佐?」
 何をしているのかと思ったらロイはこんなことを言った。
「怪我は無いね」
「見りゃわかるだろ」
「だからそれを今確かめたんじゃないか。私は長生きをすることにしているんだから寿命が縮まると困る」
 どういう意味かと聞く間も無くレオニードと話し始めたので、エドワードはロイの言ったことを反芻し、なんだかくすぐったいような気分になって地面を蹴った。


 トリガーの尋問が始まったのは、彼を捕らえてから五日後のことだった。
 ロイは「レアにするだけだ」という冗談めいた宣言通りに火力をだいぶ弱めていたので怪我自体はそれほどひどいものではなかった。ただ、身を隠しながらの生活のせいで消耗していたために、体力の回復が待たれたのだ。
 エドワードは取り調べの行われる部屋の隣室に入ろうとしたが、ロイのやんわりとした拒絶にあって仕方なく、少し離れた別室にいる。自分は当事者だし軍関係者なんだから話を聞く権利があると強く主張したにも関わらず、ロイは是とは言わなかった。
 エドワードの知りたいのは、トリガーがなぜあんな暴挙に及んだのか、その理由だ。行方不明のヴィーナス・ローズマリアやボリス・ハンマーのこともある。
 トリガーが一人でいることから、彼らの身に何かがあったことは容易に考えられるが、どうも彼らが危険な状態に陥ることがエドワードには想像出来なかった。
 それなのに。
「ローズマリア中佐は亡くなったそうだよ」
 おとなしく別室で待っていたエドワードがはじかれたように顔を上げると、戸口にロイが立っていた。手には本を持っている。
「何で?!」
 ロイは少しためらって言葉を探していたようだったが結局は至極ストレートな表現を選んだ。
「あの怪物に食われたそうだ」
 束の間、言葉を失った。
 冷静に考えれば、彼女も腕はたちそうだが、空を飛び神出鬼没のそれらにふいをつかれれば命を落とすのも無理は無い。現に、町中でも多くの一般兵が身体の一部を失ったり行方不明になったりしている。けれど、あのバイタリティと、周りを威圧するようなオーラを目の当たりにすると、とても信じられなかった。
「同じように彼女の部下の……ハンマーといったかな、彼も亡くなった。タグが引っかかった遺体が見つかった」
 つまり、タグが無ければ判別がつかない状態ということだ。
 ロイは思い出すのも嫌だというように眉間に皺を寄せ、行儀悪く机に腰掛けた。
 トリガーは憑りとりつかれたように二人が食われていく様を語ったのだという。
 その場にいる下士官が一人、こらえきれずに吐いた。他の者も皆一様にうつむいて込み上げる吐き気を抑えるのに必死の中、ロイは淡々と尋問を続けた。その過程でふに落ちないことがあって彼の私物から日記を探したそうだが、そんなことはロイの次の科白を聞いた途端エドワードの頭の中から抜け落ちた。
「どうやらトリガーは彼らを見捨ててにげたようだよ」
 ダンッ!と机を叩く音が狭い室内に響いた。どれだけの力を込めたのか、打ちつけた左手が痛い。
「……あの野郎!」
 ただ上司という感じではなかったのに。
 一人の女性として慕っていたのだろうに。
 それを捨てて逃げた?
 勢いよく立ち上がった拍子に椅子が倒れて不快な音を立てた。
「待ちたまえ、鋼の!」
 それほど機敏そうには見えないのに、軍人だけあってロイの反応は素早い。走り出そうとしたところを捕らえられて、エドワードは後ろに転びそうになった。
「何すんだよ!」
 振り払おうとした手もやすやすと捕らえられる。ついさっきもこんなことがあった。
 周りの人間は、どうしてこうも機敏なのか。
「君に奴を殴らせるわけにはいかない」
「だって尋問してんだろ?!あんたたちだって、そういうこと全然やらないわけじゃないんだろ!だったらオレが――」
「本心から言っているのなら、私は君を軽蔑するよ」
「……っ」
 言いたいことはあった。尋問が手荒になるケースはきっとある。実際、エドワードもそういう場面を何度か見た。だから、ロイがエドワードに軽蔑するなんて言うこと自体がおかしい。そんな権利はないのだから。
 けれど、今、エドワードが直接暴力を加えたら、それは口を割らせるためではなく、単なる私刑だ。そうしたらロイは上官としてエドワードを咎めなければならない立場にあり、彼は多分そんなことはしたくない。エドワードだって、ロイにそんなことをさせたくはない。
「……ごめん」
 エドワードがおとなしく椅子に座ったのを確認すると、ロイはまた机に腰掛け、手にした日記をぱらぱらとめくりだした。
「それ、何?」
 先ほどロイが何かしら言っていたような覚えはあるが、何であったかは思い出せない。
「トリガーの日記だよ。奴が口を割らないものだから、ヒントがないものかと思ってね」
「え?でも動機はわかったんだろ?オレたちがあいつらの邪魔したから……」
「それだけではないよ」
 これは私の全くの勘だが、と前置きしてロイはページを手繰った。
「まだ何か隠しているような気がするんだ。罪に問うには君という被害者がいるから証拠としては充分なんだが、隠していることがあるなら今のうちに明らかにしておきたい」
 ロイの勘はそれなりに当たるし、事件をうやむやにしないところはエドワードの好むところだったので、ロイが日記に目を通している間、エドワードは椅子に座って眺めていた。
「ああ、そういうことか」
 一人で納得しているようなので、エドワードは気になって、身を乗り出して日記をのぞきこむ。
 ここだと指で示されて文面を追った。
「これ……オレのこと?」
 だろうね、とロイは頷き、エドワードによく見えるようにページを傾けた。
「中佐が、オレの10年後が楽しみ?」
「君の将来性に期待していたらしいな。ローズマリア中佐は目が高い。ただ、10年後は少々遅すぎるんじゃないかな。せめてあと数年後と言っていたら完璧なんだが」
「数年後どころか数年前に手ぇ出した奴が何を言うか」
「私は青田買いが好きなんだ」
 ぬけぬけと言うロイの頭を、ぽかりと叩いた。背伸びしなければ届かないのが悔しい。
「そっかー、10年後のオレねえ。ちょっと怖い感じだけど、あんな美人とおつきあい出来るってのは嬉しいな」
「鋼のはああいう女性がタイプなのか」
「オレ、多分気の強いタイプが好み」
「……私は性格を変えたほうがいいのかな」
 案外と本気で嫉妬しているらしいロイがぽつんと呟いたが、エドワードは聞かなかったことにした。
「ひょっとしてさ、これが理由、とか……?」
 思い至った考えにエドワードがおそるおそる伺うと、ロイは「そうかもしれないね」とあっさり答える。
「冗談だろ!」
 どんなニュアンスでローズマリアが10年後云々と言ったのかエドワードにはわからないが、とても本気とは思えない。自分のこどもが大きくなってモテたら嬉しいとかいう母親のような気持ちだったんじゃないかと思う。彼女が何歳かは知らないけれど。
「あながち冗談ではないかもしれないよ。奴は思い込みが強いそうだからね、愛しい上司が少しでも興味を覚えた人間は全て敵、とみなすタイプとも考えられる」
「冗談だろ……」
 脱力してしまったエドワードは、机の上でへなへなとへたりこんだ。そして、実際にトリガーがロイの指摘を認めたので、ますますへたりこむ羽目になった。
 今度はエドワードが強硬に主張して取調室の隣室に陣取り、向こう側からは見えずこちらからは見えるという窓越しに取調べの様子を見ることになった。ロイは心配していたようだったが、幾分落ち着いたトリガーが混乱して我を失くす事態に陥ることはなかった。隣室で一緒に見ていたロイが「さっきとはまるで別人だな」と零したところを聞くと、先ほどはよっぽど酷い状態だったのだろう。正直、さっきはこの場にいなくてよかったとエドワードは思った。
 トリガーは、訥々と話した。ロイが要領よくまとめた質問をトリガーに向き合った部下が与えていく。トリガーは、途切れがちではあるが一つ一つ丁寧に答えた。火傷に引き攣れる痛みを堪え、全てを語り終えたときには、何かが剥がれ落ちたみたいな面持ちをしていた。
「なあ、大佐。……ローズマリア中佐が、亡くなったのはどこなんだ?」
 告げられた場所は、頭にすぐ浮かんだ。
「行ってくる」
「私も行くよ。用意をするから少し待っていなさい」
「先に行ってるってば」
「いいから。たまには言うことを聞きなさい」
 じゃないとこうするよ、と囁きながらロイはエドワードの額に唇を寄せた。避ける間もなく、エドワードは憮然として柔らかなキスを受け入れる。
 こうやって触れられるのは久しぶりで、いつ誰が扉を開けるかわからないのに、もうしばらくこうしていたいと、思ってしまった。


 屋上は、風が強かった。
 人が立ち入らないところは後回しにしているために、関係者以外立入禁止の札とロープがある他は、凄惨な現場が残されているのみだった。砕けた壁もそのままだ。瓦礫に混じって、血の乾いた跡がある。顔全体が口のような、醜悪な天使はここで彼らを襲ったのだ。
 そして、トリガーは見ていた。素手で、持っていたとしてもたった数発しか放てない銃だけで、どうやって天使に対抗出来たというのだろう。どうして、命を犠牲にして彼らを助けないことを糾弾出来るだろうか。なぜ、他人に自己犠牲を強いることが出来よう。
 エドワードは、この場を目にして、ようやく自分の傲慢さを知った。復讐はしないまでも、決して刺されたことを忘れはしない。彼の罪を許しはしない。自分に責任があったとも思わない。彼の罪は彼自身の罪を他人に転嫁したことにある。三人がクレイギンの命令に従うのも、結局は彼ら自身が決めたことだ。そして、トリガーとハンマーがローズマリアに従うのも同じこと。この事態を招いた一因は、トリガーにもある。罪は、償われなければならない。
 ハンマーのいた場所の名残りに目をやると、「あまり見ないほうがいい」と囁かれた。そんなにやわじゃねえよと言い返せば、ロイは「私が見せたくないんだ」とエドワードの頭をぐいっと前に向けた。
 ここに来る前に触れられたとき、離れがたかったのは、思っているよりも気弱になっていたかららしい。いつもなら、余計な配慮だとつっぱねるところを、エドワードは素直に従って血の飛び散った場所から目を離した。その先に視線をとらわれる。
 それは、風にゆらゆらと揺れた。
「これ……」
 エドワードは指先でそっと摘む。紅い色の切れ端。彼女のほかは誰も身にまとうことのない、紅い軍服の。
 彼女がここにいた証だった。
「オレ、あの人たちのこときらいじゃなかった」
 彼らが軍人じゃなかったら、もう少し幸せな出会いをしていただろうか。
 ローズマリアが学校の先生か何かで、ハンマーが近くのパン屋さんで――あんな格好の先生はやだな、と無性におかしくて笑い出しそうになって懸命に堪えた。涙が出そうなくらいにおかしかったけれど、頑張って堪えた。
 傍らに立つロイは、何も言わない。泣けとも泣くなとも言わない。泣いているのかとからかいもしない。ただ静かに、そこにたたずんでいる。
 彼はどう思っているのだろう。
 自分もいつか戦場に赴かなければならないときがくるかもしれない。その覚悟はあると告げたのに、こんなふうに、少しでも関わった人の死で思いが簡単に揺らいでしまう。こどもだからしょうがないと諦めているのか。それとも、こんなことくらい乗り越えて見せろと心の内で叱咤しているのか。
 握り締めた手が震える。これから何人の死に直面することになるだろう。片手では足りないかもしれない。両手でも足りないかもしれない。すでに数え切れない命を屠った男の隣で、こんなことを真剣に考えること自体が冗談めいている。男の手を取って、受け入れて、愛していると言われて、「オレも」と返した。自分がどこまでロイ・マスタングという人間を知っているのかも未だ不明だ。己に都合の良いところだけ見て、都合の良いところだけ受け入れているのかもしれない。だって今だって、彼の手が紅く染まっていることを充分にわかってはいない。どん底から引き上げてくれた強い手にしか見えない。そして、優しい言葉をくれることを期待している。弱さなんて見せたくないのに。
 それなのに、ロイはくれるのだ。全てをわかって。
「鋼のは、充分強いよ」
 その言葉だけで。揺らいでいた足元はしっかりと大地を踏みしめる。優しさに憤って、優しさに自らの情けなさを露呈されて。優しさに救われる。
 この男が軍人じゃなかったら、自分たちは出会っていない。
 あのとき、ああしていたら、こうしていたら、という「もしも」は所詮、過去への未練と未来への足踏みでしかないのだ。
 振り返る時間があるのなら、その分前へ進まなければならない。目的のために。
「早く、軍となんかおさらばしてえな」
「それがいいと、私も思うよ」
 眼下にはヴァルドラの街が広がっている。深い怨念に晒されても、大地は泰然とそこにある。いつでも、足の下には地面がある。踏みしめた足を受け止めてくれる大地が。
 大佐とおんなじだ。
 口には出せない言葉を胸のうちに仕舞いこんで、エドワードはロイの腕を引き寄せた。

 


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