手紙が届いたのは、11月7日のことだった。
 一ヶ月ほど家を空けて帰ってきたところにグレイシアから差し出され、封筒の裏側を確認するなり、エドワードは礼もそこそこに階段を駆け上がった。兄のあまりの慌てように驚いたアルフォンスも、一段抜かしで上がってくる。
 エドワードは部屋に入って荷物を放り投げると、急ぐあまりに震えてどうしようもない手で、不器用に封を開けた。
 差出人の名前はアルフォンス・ハイデリヒ。
 彼が死んで、もう一年が経とうとしている。



『 親愛なるエドワードへ


 これを読んでいるということは、貴方はこちらの世界へ戻ってきてしまったんだね。その前に、あちらの世界へ行けたかどうか、今の僕にはまだわからないのだけど。戻ってきたにせよ、行けなかったにせよ、悲しいことです。でも、僕は嬉しい。貴方が生きているということだから。ひょっとしたら、貴方は弟さんと一緒に読んでいるかもしれないね。


 僕は今、一つ考えていることがあります。ロケットを打ち上げるとき、貴方も一緒に乗せること。人の目を盗むことが難しいことも考えて、一人用の飛行機もこっそり作っています。もう二、三日もすれば完成します。間に合えばいいのだけれど。
 役に立つかどうかはともかくとして、設計図がもし必要になることがあれば、グレイシアさんに聞いてください。預かってもらっています。ああ、そうだ。この手紙はね、友人に頼んで、僕が死んでから一年後にこの住所に届くようにしてもらいました。貴方はびっくりしたかもしれないね。その顔が見られないのが残念だよ。』


 手紙を見てはいけないと思ったのか、弟はテーブルを離れて窓を開けた。一ヶ月とはいえ、人の暮らさない部屋にはすぐに埃がたまる。少し冷えるが、このままストーブをつけたら埃くささは増すばかりだ。アルは「ちょっと下に行ってくるね」と言ってぱたぱたと部屋を出て行った。
 すっと吹き込む風に、手紙がはらはらと揺れる。
 この寒さは身体に悪い。特に、持病を抱える人間には。
 よく言ったものだった。毎晩遅く帰ってくるアルフォンスに「ちゃんと食え。ちゃんと寝ろ。あったかくしてろ」と。アルフォンスは、ひとが食べないでいると口うるさく「食べないと伸びないよ」と繰り返すのに、自分が食べることには頓着しない人間だった。そういうところで、自分たちはよく似ていたのかもしれない。


『 エドワードさんの成長期がまだ続いているのか、それがわからないのも残念です。ちゃんと食べてますか?朝はコーヒーだけでごまかすなんてこと、やってないだろうね?それならそれで、せめて牛乳を入れてください。手に入りにくくなっているようだったら、前の通りを少し行った橋のたもとの道に入って歩いていくと知り合いの業者が小さな店を開いているのでそこを訪ねてみて。僕の名前を出せば少しは融通してくれると思う。』


「ったく、世話焼きだなあお前」
 朝食の席で、ちょっと目を離した隙にブラックコーヒーがミルクコーヒーになることなんて、数え切れないほどだった。どこに隠し持っていたのかと思う素早さで牛乳をぶちこんだアルフォンスは、僕は何もしていないよーという顔でとぼけてみせるのだ。
 おかげで、あの白濁した液体への嫌悪も少しは薄れた。コーヒーに少しでもミルクを足すことに慣れた。
 そうだ、こんな些細なことにもアルフォンスは目を向けて、変えようとしてくれた。
「はい、コーヒー。お湯が沸くまで時間かかりそうだったから、グレイシアさんにもらってきたよ」
 コトリ、と音をたてて置かれたカップからは温かそうな湯気がのぼっている。アルは当然のように牛乳を入れてくる。それがエドワードの飲み方だと知っているからだ。
「ありがとう」
「どういたしまして」


『 エドワードさんは案外と好き嫌いが多いよね。食べられないわけじゃないし、味にうるさいわけでもないのに、あれは嫌いだ、これも嫌いだ、とか。貴方の話の中では、ヘビですら食べていたっていうのに。』


「うるさい、馬鹿」
 無人島での生き残りを賭けた極限状態と、平和からはかけ離れていても人に溢れた街での生活を一緒にしないでほしい。それに、食べられるんだからいいじゃないか。


『 貴方の世界の話を聞くたびに、僕はこれはどこまでが真実でどこからが作り話なのかと頭を悩ませたものだったよ。エドワードさんの顔が真剣だから、本当に悩んだんだ。きっと真実なんだって信じられるまでには時間がかかった。』


 あのサーカスに出会う少し前のことだった。アルフォンスにいつものようにアメストリスでの出来事を話して、ハンドルの操作を誤って道に脇へとぶつかった。そのとき、アルフォンスは「またその話」と冗談のように耳を傾けていたはずだった。まさか。あのときもう、信じてくれていたなんて。


『 絶望、したんだ。』


 エドワードは急いで先を読み進めた。アルフォンスが何を考え、何を思ったのか。


『 寝食を忘れるほどに熱中していた貴方が、何もかもを投げ出してただ食べて、歩いて、寝て、身体が生きているだけの状態になったとき、僕はそのうち貴方がこの世界を認めてくれるんじゃないかと思っていた。
 こんなことを言ったら貴方は呆れるかもしれないね。好きでいてくれたかどうかもわからないけれど、僕を嫌いになるかもしれない。
 僕は、貴方が貴方のまま、この世界に留まってくれることを望んでいた。
 そして貴方が望んでいないことを知って、どんな気持ちになったのか。貴方にはきっとわからない。』


「兄さん……?」
 弟の訝しげな声が、気遣わしげなものに変わり、エドワードは自分が泣いていることに気づいた。一年前の夜に、ひとりで彼の部屋で泣いて以来だった。ぽたぽたと、手紙に落ちた涙で、彼の筆跡がにじんだ。
 確かにそこにあったはずのものが、形を薄れさせて現実と離れていく。アルフォンスの死と同じだった。あのときまで、一緒にいたのに。あのときまで、隣にいたのに。自分は、彼の死の瞬間も見ていない。生きている姿と別れて、次に会ったのは、地面に倒れ伏した姿だった。さよならを言えたのかどうかも覚えていない。言ってなかったかもしれない。
 言う資格なんか、なかったのかもしれない。
 この世界が自分にとって現実じゃないと、彼は知っていたのだから。空想の世界の人間に、心からの別れなど、する必要がないのだから。
 でもアルフォンス。オレは――。


『 僕は貴方のことが好きです、エドワードさん。だけど僕には時間がない。貴方の世界には僕がいない。だからせめて、何かを成し遂げて、貴方の中に残りたい。思い出してくれなくてもいい。ただ、貴方が生涯を閉じるときに貴方の中に流れるフィルムの一枚に僕を映してくれたらと思うのです。』




 強い風が吹き込んできて、封筒がすっとテーブルを滑り落ちる。
「兄さん、まだ何か入ってるよ」
 拾ったアルが中身を確かめ、驚いたような声を上げた。
「ほんとにそっくりだ」
 鏡と手に持ったもの――写真を見比べて言う。
 ロケット仲間でいつか撮ったものだった。みんな幸せそうだ。最先端の技術に携わることへの喜びと誇りとで、えっへんと得意げにしている者もいた。その中で、エドワードと並んでただ楽しそうに微笑んでいる。アルフォンスが馬鹿笑いしているのをエドワードは見たことがない。だから、エドワードの覚えているアルフォンスの笑顔は、この写真のアルフォンスと同じだ。少し、さみしそうな。
 今思えば、もう先が長くないことを予感していたからだろうか。
「ボクもおっきくなったらこんな感じになるのかな」
 こちらに来て、グレイシアやヒューズと会ったときも相当驚いていたが、自分の顔となるとまた別格の驚きらしい。 何度も写真と鏡を見比べるアルは、首を傾げてにこっと微笑んでみせた。
「あいつはお前みたいなやんちゃ坊主じゃなかったぞ」
「なんだよ、やんちゃ坊主って。兄さんはすぐボクのことこども扱いするんだから。背はもうすぐ兄さんを越すのに!」
「そういうとこがガキなんだよ。背は越せても年は越せないぞ、アルフォンス・エルリックくん」
「……な、なんか余裕ぶっててむかつくんだけど!兄さんのバカ!」
 鎧の姿だった14歳のアルよりもちょっぴり幼さが残る今のアルは、癪なことにこの一年でぐんぐん身長が伸びて、このままでは完全に見下ろされることは想像に難くない。
「ね、兄さん。アルフォンスさんって背が高かったんだね」
 弟が見たアルフォンスは横たわっているときの姿だけだった。写真で立ち姿を見て、周り――兄の身長と見比べての感想だろう。
「ボクもこの人くらいまで伸びるかな。父さんも結構高かったよね。母さんも低くはなかったし、兄さんはいったい誰に似てこんなにちっちゃ――んむー!にいひゃんいひゃいいひゃい、ひゃはひへー」
「失礼な口をきくのはこの口かなー、えー?アルフォンスくん」
 エドワードがアルのほっぺたを遠慮なくぐいーっとつねり、さらにおしりをたたく真似をしたとき、ちょうど誰かがドアをノックした。グレイシアの声がする。
「あ!ぐれいひあひゃんら!」
 ボク出てくるね!とどうにか兄から逃れたアルは、ほんのちょっとの距離を駆けて行く。後姿は身長が伸びてもまだ小さく思える。そのうちもっと、身体つきががっしりして、大人になっていくのだ。
「兄さん、こないだ頼んでたの、面会の許可が下りたんだって!今、秘書の人が知らせにきてくれたって」
「おう、今行く」
 この一枚はあとで写真立てに飾ろう。いつでも見られるところに。そして、明日はこの手紙を持って、アルフォンスの眠る丘へ。


『 結局、僕の願いはそこに尽きるんだ。貴方の世界にいたい。
  どうか、僕を忘れないでください。』


 ――アルフォンス。オレはもう、この世界のものだよ。だからやっと言える。お前が好きだった。お前のことが好きだ。
 弟の代わりでもなんでもなく。世界も関係なく。
 ここがオレの世界だから。


 手紙はこう結ばれている。


 エドワードさん、さようなら。
 そして貴方と、まだ見ぬ貴方の弟さんへ。


 こんにちは

 

Alfons Heiderich und Edward Erlic - Hallo -

地の文で「アルフォンス」=ハイデリヒ、「アル」=エルリック弟です。


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