この恋の結末は、最初から見えていた


 いつのまにこんなに行儀が良くなったのだろう。
 少し前、きちんと入室許可を待って部屋に入って、今はソファーに座っている少年への素直な感想だ。そもそも、入室時にノックもしない、したとしても許可を出す前に勝手に開ける、ソファーを我がもの顔で占有、報告書類は文字通り放って寄越す、一応の上官に茶を要求、と態度の悪さデカさは折り紙つきというのに、ある日気付いてみれば彼はすでにこんな風だった。
 ロイの前にはきっちりと揃えられた書類が置かれている。一枚目を見る限り、字はあまりうまくはないが丁寧だ。さて紅茶でもいれてやるか、と立ち上がりかけるとエドワードがすかさず「オレがやるよ。大佐はコーヒーのほうがいい?」と言ってさっさと用意しに出て行った。部屋に残されたロイは同じく座ったままのアルフォンスに「あれはどうしたんだ?」と説明を求めた。兄のことならたいていのことは知っている弟は、ボクにもさっぱりですと首を振る。
「旅先で余計なトラブルに巻き込まれることが減って、良かったといえば良かったんだけど、なんか調子が狂うんだよなあ」
 エドワードが好きこのんでトラブルを引き寄せているわけではないことはロイもわかっている。しかしかの少年はとかくトラブル体質だ。相手に喧嘩を売らせたくする態度を取ってしまうというか、取ってしまうというか。要するに気弱な人間とは正反対の意味でからまれやすい。アルフォンスが言うには、それがここのところからまれることがほとんど無いのだそうだ。
「それはいつ頃からかわかるか」
「そうですねえ、だいたい……」
 弟のこたえは、ロイがエドワードを見て「あれ?」と思った時期と重なっていた。
「他の上官に何か言われたかな」
「あの兄さんが、そこらのおじさんの言うことを神妙にきくと思いますか?」
「……ないな」
 確実に無い。
「でしょ?」
 しばらく考えたものの答えが出ないうちに話題の当人が帰ってきて、ロイは書類をめくりがてら、いれてもらったコーヒーに口をつけた。 とりあえず喉をしめらせるために一口、と思ったのに続けてもう一口。
「なんだ、新しくいれたのか」
 給湯室にはたいていまとめて抽出したのが置いてあって、飲む人がその都度温めるようにしているからタイミングを誤るとひどく煮詰まったコーヒーに当たる羽目になる。しかしこれは濃すぎず薄すぎずいいあんばいだった。
「ちょうどストックが切れてたから」
「鋼のはなかなか入れるのがうまいな」
 ここで「大佐はへたそう」とか返ってくるのだとばかり思っていたら、現実に返ってきたのは「別に」と、そっけない一言だった。やはりおかしい。しっくり来ない。 ただ、この少年にも色々思うことはあるだろうし、落ち着きを持とうとするのはいいことだ。しっくり来ないからといって不思議に思うのはエドワードに失礼だろう。
 その時点ではそれ以上深くは考えなかった。

 エドワードが司令部に来ると、たまにロイから食事に誘うのがいつの頃からか習慣になっていた。エドワードは本を読むとき、考えごとをしているときは食事のことなど忘れ去っているようだが、そうでないときはよく食べるこどもだ。おいしいものを食べるのも好き。食事が出来ないアルフォンスの「兄さんが食べるのを見たい」の一言で、生理現象については迷ったりためらったりすることをやめたのだという。きっぱり割り切るのも大変なことだろうとロイは思う。
 だから、というわけではないが、彼らのつながりに敬意を表して昼食や夕食に誘うのだ。その日もそうした。いつものように「大佐の奢りな」の返事を待っていた。
「せっかくだけど遠慮する」
 エドワードに断られ、さて夕食はどうするか、メアリー、スーザン、キャシー、ミシェル以下省略の誰かを誘うかと算段し始めたところでホークアイによる残業のお願い、もとい命令がくだって、外で夕食どころの話ではなくなってしまった。読みたい本が入ったと図書館に行ったエドワードは弟とともに今日は徹夜だろう。
 仕事に一区切りがついて、さて自分の夕食はどうするかと椅子から立ち上がったところでノックとともに入室許可を求める声があった。本の世界に没頭しているはずのエドワードだった。
「中尉に残業だって聞いたら。夕飯持ってきた」
 トレイの上には湯気のたつカップと皿が二枚。バターの香ばしい匂いが部屋にただよう。
「これは中尉が?」
 違う、とエドワードは首を振った。とするとこれは彼の自発的な厚意だ。散らかったローテーブルの上は少年によってあっという間に片付けられ、食事の用意が整えられる。手際がいい。ロイはぽかんとして、促されるまま席についた。
「図書館か宿にいるものとばかり思っていたよ。何か用事があったのか?」
 エドワードは少しうつむいて、テーブルを指さした。
「これが用事」
 つまり、食事を届けるこどが用事、と。わざわざこのために来てくれたらしい。中尉に頼まれたのかと聞けば、エドワードは、そうとも違うとも取れるような歯切れの悪い返事をもらした。おかしい。はっきりきっぱりさくさくとした感じがまったくない。落ち着き以前の問題だ。そういえば顔色が悪い。頬の辺りの丸みも薄れたように見える。
「鋼の。ひょっとして具合が悪いんじゃないのか?アルフォンスは?鋼の一人で来たのか。なら、これをいただいたら宿まで送ろう」
 エドワードは一人で帰るとつっぱねたが心配なのでどうにか引き留めた。眠かったら眠ってしまってもいいと言うと、エドワードは所在なさげにソファーに腰をおろした。
「すまない、鋼の。言うのを忘れていたよ。……ありがとう」
 ようやくエドワードは少し笑った。

 ロイの仕事が終わるまで、エドワードはしっかり起きて待っていた。
「ようやく終わったよ。さあ、帰ろう」
 外に出ると思いのほか風が冷たかった。ぶるっと震えたロイに対し、エドワードは首をすくめる様子もない。やはりこどもは体温が高いのか。
「だいぶ冷えるね」
「……そう?」
 見上げるエドワードの頬が赤い。
「鋼の」
 手を伸ばすとエドワードはすぅっと一歩引いたがロイも一歩踏み出して距離をつめた。 きゅっと目をつぶるエドワードの額を手のひらで覆う。
「熱がある」
「ないよ」
「ごまかしても無駄だよ」
「具合、悪くなんてないよ」
「……すまない。もっと早く気付くべきだった」
 仕事が終わるまで待たせるなんてことはしないで、医務室につれていくか誰かに車で送らせればよかったのだ。しかしエドワードは、気にしないで、と言った。さらに重ねて「なんともない」と。
「私相手に強がりを言っても仕方ないだろう」
「本当に風邪とか病気じゃないんだ」
 そう訴える姿にごまかしは感じられない。
「アルにも心配かけてるのはわかってるんだ。ごめん。……でも、心配してくれてありがとう」
 はにかむ、その表情はこどもらしくてかわいらしい。なんとなくそうすべきだと思ってロイはエドワードの頭をぽんぽんと撫でた。
 並んで歩きだすと、エドワードはロイのいつもの速さに合わせようとしたので、エドワードの歩幅に合わせようとしたロイの数歩先を行くことになった。
「あれ?なんで?」
 振り返ったエドワードにロイは「ゆっくり歩きたい気分なんだ」とほほえんだ。
「何か悩み事でもあるのか?」
「きいてくれるの?あんたが?」
 まさか、とでもいうようにエドワードが驚くのでロイは少々不満に思った。
「私でいいなら話せばいい」
 それでも大人の自制心で不満を表に出さずにじっと待てば、エドワードはひゅっと息を飲み、ためらいがちに口を開いた。
「好きな人ができたんだ」
 なんと。この弟と賢者の石のことしか考えていないような少年が! からかいのタネが出来たと思うと同時に、これは茶化してはまずいのだと勘が警告する。その勘を無視するほどロイは若くない。
 先を促すように相槌を打つとエドワードは情けなさそうに眉を寄せた。
「ずっとその人のことが頭から離れなくて、オレこういうふうに人を好きになったのって初めてだからさ、どうしたらいいのかわからなかったんだ」
「気持ちを伝えるつもりはあるのか?」
「ないよ」
 あまりにもきっぱりと言い切るものだから驚いた。少し前を行くエドワードの顔はうかがい見ることは出来ない。どんな表情を浮かべているのか想像もつかない。
「こんなんじゃアルに心配かけるから、早く気持ち切り替えようって思ったんだけど……聞いてくれてサンキュ。これで忘れられる」
「いいのか、それで」
「いいんだよ。だってその人がオレを好きになってくれるなんて、ありえないんだから」
 そのままエドワードは走りだした。ここまででいいから、ありがとう、と言い残して。

 それからエドワードはまた弟とともに旅立って、次にロイに顔を見せたときにはもういつもどおりのエドワードだった。恋はふっきれたらしい。あの様子だとなかなか忘れがたかったように見えたが、案外と幼い恋だったのかもしれない。
 ともかくもエドワードはあのときの殊勝さなど微塵も感じさせず、報告書の字は解読ぎりぎり可能なほどに乱雑だった。書きなおしを命じると、頬を膨らませてぶうたれた。 めんどくせーの、と書類を鷲掴みにして去って行く後ろ姿にほっとしたものの、反面、気落ちする自分がいた。旅の間、時折思い出しては心配していた労力が無駄になったからか。
 それにしても憎まれ口をたたくエドワードに安心したのは事実で、その日の仕事はたいへんスムーズにこなせて定時を迎え、さあ帰ろうという頃だった。
 一人でやってきたアルフォンスは相談があると言った。
「兄さんが、泣くんです」
 起きているときのエドワードは元の兄に戻った。ただ、眠っているときに涙を流すのだと。
 夜中でも眠ることのないアルフォンスは毎夜毎夜悲しそうに何かをつぶやき、泣いている兄が心配でならなかった。その話を聞いたロイの胸ももちろん痛んだ。なんだ、忘れてなんかいないじゃないか。
 気持ちを押し殺して、忘れたふりをして振る舞って。
 無性に腹立たしくなって、アルフォンスに事情も告げずに宿へ向かった。追ってきたアルフォンスの言う部屋番号のドアを許可も得ずに開け放つ。勝手に入ってくんな!とむくれて怒鳴るエドワードの正面にロイは立った。
「忘れてないじゃないか」
「なんの話だ」
「君の抱いている気持ちの話だ」
「それならもう忘れた」
「強がるのはやめたまえ」
 真っ向からにらんできた金の瞳が、ふいにゆるんだ。あふれてくる涙が頬を伝う。
「あんたがそれを言うのか。他でもない、あんたが」
「私は君の後見人だ。もっと頼っていいんだよ」
 ロイの言葉に、エドワードはくしゃりと顔をゆがめた。
「最初から、かなわない想いなんだってわかってた。だから伝えるつもりなんかなかった。忘れられるはずだった。何もなかった頃に戻れるはずだった。だってあんたは気付かなかっただろう。あんたの前ではいつもどおりのオレだっただろう。なんでいまさら。ほっといてくれよ。頼むから。だまされてくれ……」
 消え入りそうに小さな声が、帰れ、と呟く。
「鋼の、心配なんだ。放っておけるわけがないだろう。こんなときくらい、大人に頼りなさい」
 はじかれるように上げたその顔は、絶望に彩られていた。こんなこどもが浮かべるには似付かわしくない。次いでエドワードは笑った。心の底からおかしいというように。自らを嘲った。
「オレはなんて馬鹿なことをしたんだろう。期待したのかな、ほんの少しでも。もしかしたら伝わるかもって。でも結果は見えてたんだ。オレはあんたのことが好きなんだよ、大佐。ははっ、何その顔。全然想像もしてなかったんだろ?とんだ間抜け面だな。後見人とか大人とか、そんなとこから見てほしかったわけじゃない。対等じゃなくたっていい。もっと、綺麗じゃない目で見てほしかった。欲望の対象として見てほしかった。オレさ、あんたに抱かれる夢とか見てたんだぜ。……そんな、哀れんでる目で見んなよ。さあ、出てけ。とっとと出てって忘れてくれ。もう迷惑かけないからさ。これでおしまいだ」
 突き飛ばされて、そんなに強い力ではなかったのによろよろと戸口まで後ずさった。
 バタンと音がして閉まる直前、耳に入ったのは
「さよなら、……ロイ」
 決別の言葉。
 確かに、この恋の結末は最初から見えていた。エドワードはロイにとって恋愛の対象にはなりえなかった。なったとしたら様子のおかしいエドワードにぴんと来たはずだった。それをわからずに、気持ちをこじあけ、しかも応えてあげられない。
 この先、何度もあの絶望と自らを嘲ける笑顔を思い出すのだろう。
 きっと、忘れることはない。

 エドワード、君を愛することは出来ない。
 そして、他の誰かを愛することも、もうないだろう。

「さようなら、……エドワード」

 その恋の結末は、最初から見えていた。


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か、解説ー……。
増田さんは兄さんをそういう意味で好きになることは絶対ないけど、この先誰かを好きになりそうだと思ってもきっと兄さんの顔がちらついて恋を始めることすら出来なくなる、ということです。まだ若いのにな。
兄さんが勝手だけどこどもだから許される、みたいな。