かくれんぼ


 司令部を訪れたエルリック兄弟の前には、誰もいない司令室が広がっていた。人がいないと、日頃から雑然としている司令室も少しは広く見える。本当にもぬけの殻だ。昼休みだから、というだけではない。
 昨日来たときはみんな血走った目であちこちぶつかったりしながら書類に向かったり、とうの書類を破ったり、駆けずり回ったりしていたはずだ。その名残ともいうべき机の上に散らばった書類、床に直接積み上げられたファイル。突付けば倒れてしまいそうな、不安定な本のタワーは、エドワードには理解しがたい前衛美術のオブジェのようだった。
「兄さんに美術のことなんて語られたくないなあ」
 自分の上から室内をのぞきこんだ弟は、ごくごく当然の感想といったふうに呟いた。確かに、とエドワードは己の美的センスがこれまで他者に酷評されてきたことを思い出す。しかし、何度言われても自らのセンスを否定されるのは腹立たしいものだ。
 むかっとして言い返そうとしたところで、弟の大きな身体の向こうになじみの姿を発見する。
「ホークアイ中尉!」
「おはよう、エドワードくん、アルフォンスくん」
「おはようございます」
 彼女を通すために道を開けるついでに、両腕で抱えていた大荷物の一部をアルフォンスがさりげなく取った。こういう配慮が自分には足りない、と兄はひそかにため息をつく。
「ありがとう」
 窓際に置いてと頼まれたアルフォンスは、積み上げられたものを崩さないように机の間の道を選んで歩いていく。

「仕事してるの、中尉だけ?」
「ええ、そうよ。他はみんな、大佐を探しているの」
 隣の机から書類がなだれ落ちそうになっているので、エドワードはホークアイと二人してそのなだれをせきとめ、自分たちが座る分のスペースを確保する。
「廊下で聞いたよ。かくれんぼしてるって。大佐が一人で隠れてみんなが探してるんだろ?」
「もうだいぶ煮詰まっていたみたいだから、いい気分転換になるでしょう」
 さきほどすれ違ったなじみの軍人が教えてくれたところによると、仕事がたてこんで異様な雰囲気になっている彼らに、大佐が言ったのだそうだ。
『昼休みの始まりと同時にかくれんぼを開始する。わかるか?かくれんぼだ。隠れるのは私一人。見つけた奴には、二つの権利から一つを選ばせてやろう。食堂の食券一ヶ月分』
 ここでまず、野太い歓声が上がったという。
『もしくは、……私がそいつの言うことをなんでも一つ聞いてやる。人の生死と私の昇進に関わること以外という条件付きだがな』
 ずるいぞー!ちくしょー!彼女返せー!というやじとともに、やっぱり野太い歓声が上がった。あのマスタング大佐がなんでも一つだけ言うことをきくというのだ。それこそ、彼女を返す、もありだろう。
『タイムリミットは、昼休みが始まってから二時間。では、諸君の健闘を祈る』
 そして、ロイは一人だけ、昼休みが始まる前に司令室を出て行き、今に至る。
「大佐は面白いことを考えるんですね」
「面白いとか言ってる場合じゃねえぞ、アル。昼休みって一時間じゃん。タイムリミットは二時間って、勤務時間入ってるだろ」
「あ、そっか」
 ホークアイはひたすら苦笑顔だ。大佐がいないのは困る。でも、息抜きはさすがに必要。といったところだろう。
 エドワードは、すっくと立ち上がると自信ありげに胸をたたいてみせた。
「オレ、探してくる。中尉の仕事に差し障りが出るから」
 ありがとう、と涼やかな声を背に、エドワードは室外へと出た。
 まずは練兵場の隅にある倉庫へ。普段は鍵がかかっているし、鍵を持ち出してしまえば窓を割るしか入る方法はない。いくらロイが提案したお遊びとしても、窓を割ってしまえばおふざけの範囲にはおさまらないだろう。だから、いい隠れ場所だと思ったのだが。
 倉庫の入り口はあっさりと開けられていて、ちょうど出てきた軍人に聞くと「中にはいなかったよ」との答えが返ってきた。入り口の南京錠は見事に破壊されている。
「これ、どうすんの?」
「大佐に直していただくさ。あ、エドワードくんが直してくれるならもっといいけど」
「いーよ。やってやる。その代わり、おにーさんたちが探し終わった場所、教えてくれる?」


 そんなふうにしてあちこち壊している軍人たちに修繕と引き換えに教えてもらって消去法でめぼしいところを一通り探したが、見つからない。タイムリミットまであと三十分。最後の有力情報に向かって廊下を走っていたエドワードは、その場所を一旦通り過ぎ、突き当たりの角を曲がったところで違和感に気づいて足を止めた。
 そして、くるっと回れ右をすると違和感を覚えた場所まで戻っていく。
 この辺に、部屋が一つあったはずだ。
 人が多くなると必然的に物も多くなる。司令部の中には今はいらないけれどこれから先ひょっとしたら使うことがあるかもしれない物を放り込んでおく部屋がいくつもあった。大掃除のときにみんながいやいやながら片付けに取り組んで、完遂できずに投げ出してしまうような部屋が。
 エドワードは、戸の数とそれぞれの部屋の広さを考えて、ここで間違いないと確信した。窓から差し込む光で戸棚の陰になっている、ほんのわずかな痕。コンクリートの表面がでこぼこになっているところに左手で触れる。ここだ。
 辺りをきょろきょろと見回して誰もいないことを確認すると、両手をぱんと合わせて壁に向かってつきだした。
 元あった扉を思い出して錬成し、中に入る。もわっとした空気に、細かい埃が舞った。一年くらい掃除をさぼった古い家のような匂いがする。
「やあ、鋼の」
 窓際の逆光にうもれて、顔は見えない。けれど、穴をくぐったときから人がいたこと、それが自分が探していたロイ・マスタングその人であることはわかっていた。
 こんな手間をかけて隠れるような人間は、ロイのほかにはいない。
「何やってんだよ……ったく、いい大人が」
 ごちゃごちゃといびつに重ねられた椅子、小さな棚、帽子掛け、はては虫の食った服まである山の中をどうにか避けて窓際までたどりつくと、この司令部の中でも一応偉い地位にいる男は「一着は君だね、おめでとう」と真面目に微笑んで言った。
 もちろんエドワードはロイになどつきあうつもりはないので、窓辺の枠に座って動こうとしないロイを軍服ごと掴むと、ぐいっと引っ張った。
「ほら、出るぞ。仕事しろよこの無能」
「もう少しここにいたいな」
 わがままを言う大人は、びくともせずに座ったままだ。戦闘のときに経験とリーチの差を、自分に余裕がないときの周囲への対応に経験と器の差を、そしてこういうときは単に体重と体の強さの差を感じる。早く大きくなりたい。さしあたっては、平均より若干、限りなく若干控えめな身長が伸びるといいと思う。
「こんなとこ、埃くさいじゃん。あんまり長居するようなとこじゃないだろ」
「ここは少し窓を開けているから、外のいい空気が入ってくるよ。おいで、鋼の」
 エドワードは嫌な予感に手を離してロイから遠ざかるより早く、捕らえられた。
 さっきとは逆に、あっけないほど簡単に手を引かれ、ロイの膝に乗り上げるようにして窓に顔を押し付けられる。
 少しだけ開いたガラスの向こうから、涼しい風が気持ちのいい空気を運んできた。埃くささとは無縁の風。
 地上からは、いたかー?いないー!そっちはどうだー?こっちも見つからん!などと口々に交わす声が聞こえてくる。ちょっと上を見れば探してる人間はいるのに、とエドワードは可笑しくなった。でも、よく考えれば地上からはこの時間、日の光が窓に反射して中は見えにくい。ということは、どうにか壁の隅の小さな目印を見つけるしか手はないのだ。しかも、見つけたとしても壁に大穴を開けなくてはいけない。
 コートの裾についた汚れなど元から気にしない。ロイの膝から降りたエドワードは、うっすらと積もった埃など掃うこともなく、窓の真向かいにある高いテーブルに腰掛けた。みしみしと、重みを訴えるテーブルは、エドワードが少し動くたびに「気をつけてちょうだい!」と言わんばかりに悲鳴のような音を立てた。
「オレに見つけてほしかったわけ?」
 そのテーブルを選んだのは、足が高いからだった。窓枠に座ったロイと、ちょうど目線が同じ高さに来る。
 同じ高さに気をよくして、エドワードがからかうように聞くと、ロイは意外なことを耳にしたとでもいうように目を見開いた。ロイの反応に、エドワードもまた驚く。
「だって、あんな錬成痕、普通のやつじゃ気づかないだろ」
「錬金術師なら他にもいるよ。君だけでなく、アルフォンスくんもそうだろう。司令部内には国家錬金術師とはいかなくても、それ相応の知識を持った者もいる」
 ああ、言われてみればそうだ。そもそもアルフォンスは乗り気ではなくて中尉の仕事の手伝いに残ったから勘定に入れていなかったとしても、他にいる錬金術師のことはすっかり頭から抜け去っていた。
 まるで、ロイが仕掛けたかくれんぼは、自分だけを対象にしていると錯覚したみたいだ。
 自分――エドワード・エルリックだけを。
「……っ、オレ、帰る!じゃあな、早く戻って仕事し――」
「待ちなさい、鋼の」
 己の陥った錯覚に焦ったエドワードは逃げ出そうとするより早く、なんの焦りも見えないロイに腕をつかまれた。なんという素早さだろう。テーブルから降りる余裕すら与えてくれない。
「……放せよ」
「気になることが出来てしまった。ここから出るのは、答えを聞かせてもらってからだ」
 テーブルに置いた両手の上に、それぞれ両手を重ねられて、真上から問われる。このまま見上げれば、その先はあの黒い瞳だ。
「私としては……君がそう考えた理由を知りたいね」
 うつむいたエドワードの頭の上から、落ち着いた低い声が降ってくる。
「答えてくれないのか?」
 近づく呼吸に、髪が揺れる。恥ずかしさと混乱で答えられないでいると、あたたかいものが髪に触れた。
「黙っているなら、いつまでもこのままだよ。……鋼の」
 言えるはずないだろ。こんなこと。
 まさか。自分に探してほしかったのかと思って、嬉しかったなんてことを。
 言えるはずが。
「……クソッ。わかってんだろ、もう。性格ひん曲がってるな」
 髪に触れた唇が、笑みを刻むのがわかった。くすくすと震える息が、地肌に吹きかけられる。
「性格が悪い、とは言われたことがあるが、ひん曲がってるとまではね。君は本当に興味深いな」
 しばらく押し殺したような笑いが続き、それが収まるとロイはエドワードを解放してくれた。意地の悪い問いからは。こういうところはやはり、経験と器の差というものだろう。言い方をかえれば、手管、というものかもしれないが。
「さて……君は私に何をさせようというのかな?」
 身体の方は解放してくれないまま。今もロイはエドワードの両手をおさえている。
「食券選ぶと思わねえのかよ」
「鋼のは無駄遣いはしないが、食費を切り詰めるほどの節約家でもないだろう。となれば、食堂の食券一ヶ月分よりは、もう一つの賞品を選ぶと考えたほうが自然だからな」
 なんでも言うことを聞かせられる。人の生死に関わらない、昇進の妨害にもならないことだったらどんなにむちゃくちゃなことでもいいらしい。
 せっかくの機会なのに。
 なんだか完敗を喫したようで、いつもの傍若無人な要求を突きつける気にはなれなかった。
「……いい。なんも思いつかないから」
「珍しいね。てっきり、すぐに中央図書館に入った禁帯出の本でも要求してくると思ったが」
「あとでいい。一つ、貸しにしとく」
「では、残った賞品をあげようか」
 鋼のにだけあげる賞品だよ、と近づいてくる顔を押しのけることは出来ず、エドワードは目を閉じて待ち受けた。

ロイたんっておとなげないなあ。

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