デッサン
〜水色の恋〜
第48話 水の優しさ
 
鏡に映る自分・・・ 誰でもそれは”自分”であることを当たり前の様に認識できる。 だが・・・。鏡に映る顔が見たこともない顔だったら・・・? 知らない顔。知らない声だったら・・・? 言葉では言いがたい違和感。 砂糖が”甘い”のは当たり前なのに自分には甘いという感覚が 欠けている様に・・・ 奇妙さにさいなまれる。 (『藤原陽春』これがオレの名前・・・) スケッチブックに書いてみる・・・ 水色の色鉛筆で・・・ (オレの名前は藤原陽春・・・。だが実感が沸いてこない・・・。 ”オレ”だという感覚がわからない・・・) 鏡の中の顔は知らない顔・・・ 顔だけじゃなく身内の名前も顔もなにもかも初めての感覚・・・ (・・・。オレは・・・オレは・・・) 狭い病室・・・。閉じ込められているようだ・・・ だが・・・ 立ち上がり病室を出ようと少し歩くと・・・ 「・・・ゲホ・・・ッ」 激しい眩暈が襲い、立っていられない・・・ 重たい点滴を引きずって倒れる陽春・・・ 「兄貴・・・!!」 昼食を持ってきた夏紀は食器を放り投げ陽春を起こす・・・ 「おい・・・。誰か・・・。誰か・・・!」 看護婦を呼ぶ夏紀・・・ 「・・・迷惑をかけて・・・すみません・・・すみま・・・」 倒れこむ弱弱しい兄の姿が・・・。夏紀には辛く映った・・・ (兄貴・・・) 夏紀と陽春の両親は医者に詰め寄った。 なんとか普通に歩くことはできないのか、眩暈を防ぐ薬はないのかと・・・ 『直接的な原因がはっきりしない 限り・・・根本的な治療法はみつかりません。 あえていうなら気長なリハビリと・・ご家族の支えが一番の薬です』 そんな応えしかかえってこず・・・ 「最近の医者は心ってもんがねぇのか!クソッ!!」 病院の庭のベンチに座り、水里に陽春の様子を伝えていた・・・ 「・・・只でさえ記憶がなくて困惑状態だってのに・・・。部屋から 出ることもできねぇなんて・・・。精神的に相当参ってくるだろうが・・・」 「・・・」 水里は黙って聞いている。 「・・・。なんとか・・・。お前ならなんか兄貴を元気付ける方法 知ってんじゃねぇかって思って・・・」 「・・・。買いかぶりすぎだよ。私なんて・・・」 「スケッチブックにな。兄貴自分の名前何度も何度も 書きなぐってんだ・・・。それも水色の色鉛筆で」 「・・・。水色って・・・」 夏紀がどうして他の色を使わないのかと尋ねたら陽春は・・・。 「・・・”この色が何だかが落ち着くんです”だってよ・・・。 記憶はなくても・・・。『好きな色』までは変わってねぇんだな・・・」 水里は少し俯いた。 「兄貴の背中がよ・・・。小さく見えるんだ・・・。あんなに大きく広かったのに・・・。 弱弱しくて・・・。見てられない・・・」 「・・・夏紀くん・・・」 夏紀の思い詰めた声に・・・兄を思う弟を感じる水里。 「・・・わかった。私なりに考えてみる・・・。病室の中で・・・春さんが リラックスできる、ほっとできる方法を。考えるから・・・」 「・・・頼む・・・」 (私に何が出来るかわからないけど・・・。春さんのためなら・・・ 何だってする。考える・・・。24時間考える・・・) ジーパンをぎゅっと握り締めて水里は思った・・・。 翌日。 「タ・・・タライが歩いてる!??」 看護婦がおどろている。 ナースセンターの受付をでっかいタライが通り過ぎる。 「あ、すんません。ちょっくら通らせてくださいね。看護婦さん」 水里はにこっと笑い、よいこらしょ、と陽春の病室へ向かった。 (・・・どうやってもって来たのかしら(汗)) 「・・・春さん。こんちは!」 ガタン! ドアにタライをぶつけて水里は入ってきた。 「・・・や・・・山野・・・さん・・・?」 「あ、すんません。騒がしくしちゃって・・・。ちょっとデカイものを 持ってきたもので。よっこらしょっと」 水里の背丈ほどある木製のタライを軽々と背中から降ろす水里。 (・・・(汗)) その様に驚く陽春・・・。 「あ、あの・・・。今日は何か・・・」 「あ、いえ。あの、いい『水』が手に入りまいたんでね。春さんにも 是非味わって頂きたく参上いたしました!旦那!」 (だ、旦那って(汗)) 水里はまるで温泉旅館の番頭の様に頭にタオルを巻いてリュックの中から ペットボトルを取り出した。 「これ・・・。とある場所の湧き水なんです。飲んでも美味しいし、 栄養満天。でも飲むだけじゃすぐ終わっちゃうので・・・」 水里はタプタプとタライに水を注ぎ始める・・・ (この人は・・・一体何をしようとしてるんだ・・・) 予測がつかない水里の行動に陽春はただ唖然・・・。 「このタライはですね、天然の欅を使っております。 いい香りがするでしょう?」 くんくんと水里が匂いをかぐ・・・。 (・・・犬みたいな人だな(汗)) 陽春も鼻に神経を使ってみる・・・ 「あ・・・。本当だ・・・」 「でしょう?欅は水に強い・・・。春さんから教わりました」 「・・・僕が・・・。いや・・・『前』の僕ですね・・・」 (ヤバイ(汗)) 水里はちょっと滑った発言をしたと焦る。 「あ・・・。気になさらないでください・・・。 貴方が悪いわけじゃないのですから・・・」 「・・・。今日は私、春さんにこの木の香りと水の感触を 感じてもらいたくてきました」 「木と水・・・?」 「はい」 水里は腕をまくりタライの中の水をそっと撫でる・・・ 「水は・・・。全ての命の源です・・・。こうして心が疲れると 水に触れているんです・・・」 透明な水が・・・綺麗な波紋を描いている・・・ 「・・・春さん、点滴していない方の手を貸してくださいますか・・・?」 「・・・あの・・・」 水里は陽春の手の甲に少しだけ水をかけた・・・ (・・・冷たい) ひんやり・・・心地いい冷たさを感じる・・・ 水里は2、3回水をかける・・・。 「・・・柔らかい水でしょう・・・?雪解け水なんです・・・。とても 優しい水・・・」 「はい・・・」 水里は陽春の左手半分・・・水面につける・・・ (水・・・。水の柔らかさ) 水里はそれを陽春に伝えるように優しく手の甲にかけていく・・・ 「・・・気持ちいいな・・・」 陽春の口からその言葉が自然に出てきた・・・ 木の香りと水の柔らかさが・・・心地いい・・・ 「・・・あの・・・。足も浸してもいいですか・・・?なんだか本当に 気持ちいいから・・・」 「あ、ど、どうぞどうぞッ。だ、旦那ッ」 水里は何故か緊張してきた。 陽春は体を起こし、両足を水につける・・・ チャプ・・・ 「・・・冷たい・・・」 足の先から柔らかい水の感触が伝わる・・・ 水の香りと木の香り・・・ 「水というのは・・・。こんなに優しいんですね・・・。 心地よくて・・・。本当に・・・ほっとする・・・」 一時・・・ 陽春の心から不安が・・・ 消えいく・・・ 自分が何者なのか 自分という感覚がわからないという不安が・・・ 消える・・・ ポチャン・・・ (え・・・っ) 水面に落ちたのは・・・陽春の頬を伝う涙・・・。 「・・・しゅ・・・春さん・・・」 「・・・。本当に優しい・・・。自分が誰か分からなくても・・・。 僕は・・・。僕は・・・。今・・・。水の優しさを 感じられている・・・。それが嬉しいです・・・それが・・・それが・・・」 「春さん・・・」 陽春は込み上げて来たものを抑えられず 水里のお腹に顔を寄せ涙を拭う・・・ 「・・・教えてください・・・。僕は僕でいていいのですか? 僕はどういう人間でいたらいいのですか・・・?僕はいったい”誰”で いたらいいんだ・・・」 「春さん・・・」 肩を震わせる・・・ 水里は不安をぶつけてくる陽春にただ・・・ 髪をそっと撫でた・・・ 「・・・怖い・・・。怖いんだ・・・。自分の顔も家族も顔も・・・。知らない。 目に見える世界全てが怖くてたまらない・・・。怖いんだ・・・」 (・・・春さん・・・) 震える肩から・・・陽春の不安が水里にも伝わる・・・。 痛いほどに・・・ 「・・・大丈夫です・・・。私は春さんを知ってる・・・。今の春さんの声も 姿も・・・。今の春さんの涙も絶対忘れないから・・・。忘れないから・・・」 凍えそうな心・・・ どんな風に包んであげたらいいんだろう・・・。 上手な言葉が浮ばない ただ・・・ 震える肩を抱きしめるだけ・・・ 「絶対忘れないから・・・。だから大丈夫です・・・」 (春さん・・・。きっと大丈夫・・・。きっと・・・) タライの水が揺れる・・・ 抱き合う二人の姿が映っていた・・・。

デッサン第2部 目次

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オリジナル小説目次


記憶がなくなるということについて、医学的なことは分からないので、安易な内容になってしまったかなと少し 戸惑いました(汗) ただ親戚のおじいさんが、最近物忘れが激しくて、時間の感覚がなくなったり、 人の名前がなかなか出てこなかったりして、おじいさん自身がすごく落ち込んでいるという話を聞きました。 そんなおじいさんの今の楽しみはお風呂とプール。 どんなに気持ちが落ち込んでいても、お風呂とプールだけは入るそうです。 水に触れると人の心や体をほぐす力があるのかなぁと思いました。 足湯なんかもいいって聞きます。 親戚のおじいさんが少しでも元気になってくれたらいいな・・・と 思いながら書きました。 記憶がないっていうのは、なかなか現実的な感覚としてはわかりづらい 感覚かもしれないけど、例えば、「あれ?今、私何、取りに来たっけ?」 っていうことは健康な人でもあると思います。 それだってなかなか思い出せないと結構歯痒い。 それが、自分の名前や過去のことが全く真っ白になってしまうっていう のは誰にも 想像がつかない歯がゆさと辛さなんだろうと思います。 私の親戚のおじいさんは、「オラ、何時に飯、喰ったか?」と おばあさんに聞くそうです。何度も。 周りの人も戸惑うし、おじいさん自身もイライラして、歯痒い。 私は話だけしか聞いてないから、その現実の重さは分からないけれど おじいさんの楽しみが一つでも増えて笑顔が増えたらいいなぁと凄く思いました。