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デッサン3
〜君と共に生きる明日〜

第5話 忘却

「朝か・・・」 朝起きて。 カーテンを開ける。 やっと・・・この窓から見える風景にも慣れた。 (やっと・・・) 安心できる建物が見てるからだ。 古びたアパートの瓦屋根。 水里のアパートだ。 毎日一つ一つ刻まれていく新しい記憶。 (一つ一つ・・・受け止めていくしかない・・・) けれど、自分の知らない”記憶たち”がそれを許してくれない。 (・・・確か今日は・・・。”雪”さんのお母さんという人が 来るって・・・) ”兄貴は出なくていい。オレが対応すっから” 夏紀はそういったが、”雪”は自分の妻だった女性。 (そのお母さんとなると・・・。僕と深く関わりのあった人・・・。 逃げていては駄目だ) 陽春は着替えて、リビングに降りた・・・ (・・・。なんだこの匂い・・・) 香水の匂い・・・ 初老の女性が夏紀と少し深刻なかおで話している。 (あの人が・・・雪さんのお母さんか・・・) 陽春はリビングの入り口で少し中の様子を伺う。 「・・・すみません。兄貴・・・。ちょっとまだ体調優れなくて寝てるんです・・・」 「・・・。そう・・・。雪の事も忘れて・・・」 (・・・) 雪の母は少し怪訝な顔でお茶を一口含む。 「あの・・・。お義母さん。ご存知のとおり、兄貴には 雪さんとの記憶も全て失ってしまいます・・・。ですからその・・・ 兄貴を混乱させるようなことは控えて欲しいんです」 「・・・。分かっています。でもね・・・。雪があんまり不憫で・・・。 だってそうでしょう?親の反対も押し切って命がけで結婚したのに・・・ 簡単に忘れ去られてしまうなんて・・・!母親としては不憫でならないんです・・・」 「・・・」 雪の母の言葉が陽春に突き刺さる・・・ (オレに記憶がないことで・・・。誰かが傷つくのか・・・) 「兄貴が悪いんじゃありません。全て・・・。田辺って男が・・・ 男が悪いんです」 「・・・わかってるわ!!でもでも・・・!!一番忘れてほしくない 人に雪は・・・忘れられてしまったのよ・・・!存在を否定されたみたいで・・・ 雪が・・・可哀想すぎる・・・」 雪の母が白いハンカチで目尻を拭う・・・ 陽春には雪の母の涙がまるで雪がながさせているように見えた。 (オレが悪い、俺が・・・) 陽春は耐えられなくなり、リビングに入った。 「・・・あの・・・!雪さんのお母さん!」 「兄貴・・・」 「雪さんのお母さん・・・。すみません。僕が・・・僕のせいで お母さんにまで辛い思いをさせてしまって・・・」 陽春は雪の母に頭を下げた。 「陽春さん・・・」 「・・・。雪さんの記憶は僕には・・・ありません。でも・・・でも、 雪さんが僕の”大切な人”だったということは・・・。絶対に忘れません だから・・・」 「・・・。大切”だった”人・・・。過去形なのね・・・」 「あ、いや、そういう意味じゃ・・・」 「それにほかに気になる女性もいるとかいないとか・・・」 「・・・そ、それは・・・」 雪の母は陽春に背を向けた。 「・・・陽春さんが悪いわけじゃない・・・。 だから貴方を責めるつもりはない。でも・・・でも・・・。お願い。 雪の想いだけは忘れないでやってください・・・。お願いします」 雪の母は陽春の手を握って 懇願する・・・ 「お義母さん・・・」 雪の母の手・・・ (・・・オレのせいで・・・皆が・・・) 母の悲痛な思いが・・・ ただ・・・ 痛かった・・・ 「兄貴・・・。まだ気にしてるのか」 夕食。 箸が進まない陽春を心配そうに見つめる夏紀。 「いえ・・・」 「雪さんのお母さんの気持ちもわかるけど・・・。兄貴を責めるのは 筋違いだろう?」 「・・・」 深く俯く陽春。 「・・・。兄貴。”水里と会っていてもいいのか”なんてこと考えてんだろ?」 「・・・!」 陽春は不意をつかれ、夏紀から視線を逸らした。 「あのな・・・。兄貴は今は自分の事だけ考えてればいいんだ。 水里の力が必要なら求めたらいい。誰に遠慮があるっていうんだ」 「・・・そんな簡単にはいきませんよ・・・。僕のせいで・・・ 誰かが傷ついているなら・・・無視なんてできない・・・」 箸をぎゅっと握り締める陽春・・・ 「・・・じゃあ兄貴は水里に雪さんに申し訳ないから 会いたいけれど会えない、会っちゃいけない、そう言えるのか?」 「・・・」 「・・・。アイツの気持ちはどうなるんだ・・・?兄貴のそばにいたいって 想ってるあいつの気持ちは・・・」 ガタン・・・! 陽春は立ち上がり、皿を片付け始める。 「・・・。先に片付けますね・・・」 陽春はそれ以上喋らず、洗い物をし終わると スタスタと自分の部屋にあがってしまった。 (兄貴・・・。ったく・・・。生真面目すぎるとこは変わって ねぇんだから・・・) 今日の出来事を 水里に話したらきっと、陽春と同じ思考になるだろう。 雪という存在に遠慮して距離を置いてしまう・・・ (・・・いわねぇ方がいい。兄貴が元気になるには・・・ アイツのほほんさが必要だからな・・・) 「全く・・・。めんどくさい性格の二人だぜ・・・」 それでも願うのは 兄の幸せそうな微笑。 棚の雪が愛用していたカップ。 今でも綺麗に保管されている。 (雪さん、許してくれよな・・・) 寂しそうなカップを見つめて思う夏紀だった・・・
翌日。 陽春は雪が事故に遭った道路にたっている。 車の通りが多い国道。 ここを横切ろうとして雪はバイクに跳ねられた・・・ 「・・・ここが・・・。雪さんが事故にあった現場・・・」 ガードレールに手向けられている花・・・ (そういえば・・・。日記だとオレはいつもこの花を枯れないように 取り替えていたって・・・) 陽春が記憶をなくしてからは一度もここには来ていないのにチューリップの花は とても綺麗に咲いている。 (誰かがオレの代わりに手向けていてくれたのか・・・?) 陽春はしゃがみ、花に触れる。 「あら。マスターじゃない?」 「あ・・・。こ、こんにちは。え、えっと・・・」 見覚えのない顔の中年女性。マスターと呼ぶということは店の常連客かなと 陽春は思った。 「今日はマスターがお花を生けにきてたのね」 「今日は・・・?ではいつもは誰が・・・」 「えっと誰だっけな。あ、そうだ。前に画材屋さんやってた 若い小柄な女の子・・・。その子が来てたみたいね」 (水里さんだ・・・!) 「私もいつも不思議に思ってたの。マスターは入院してるって 聞いてたのに、お花はいつも元気で・・・」 「・・・そうですか・・・」 陽春の脳裏に 屈んで小さな背中を丸めて花を手向け、手を合わせる水里の姿が 浮んだ・・・ 「・・・亡くなった人忘れない・・・。大切なことだわ・・・。 ここを通り過ぎる人は手向けた花を気味悪く思う人もいるだろうけど・・・」 「・・・そうですね・・・」 「・・・あらごめんなさいね。マスター。湿っぽくさせちゃって。 じゃ、私、用事があるからいくわね」 中年女性は陽春に会釈して自転車を漕いでいそいそと 走り去った。 「・・・忘れちゃいけない・・・。か・・・」 雪との記憶が失ってしまったのなら・・・ 己でその記憶を”知らなければ”ならない。 知る、という努力をしなくてはいけない。 新しい自分を創るならば・・・ (・・・雪さん・・・。オレは貴方をもう一度”知り”ます・・・。 貴方を忘れないために・・・) 花に目を閉じて手を合わせる陽春・・・ (でも・・・。”新しい記憶”を作っていくことを許してください・・・。 そうしないと僕は・・・。生きて生けないから・・・) 「あ・・・」 チューリップの花。 うん、うん・・・と頷くように縦に風邪に揺れる・・・ 小さく 可愛らしく・・・ (雪さん・・・。安らかに・・・どうか・・・どうか 安らかに・・・) そう心で呟いて陽春はいつまでも 深く深く 手を合わせていたのだった・・・。 「・・・ふー・・・。やっぱ三日分の買い物は重いや」 スーパーの特売品のトイレットペーパーを三袋、両手に抱えて アパートの階段を登る水里。 「僕が持ちましょう」 「え」 振り返ると陽春がトイレットペーパーを盛ってくれていた。 「春さん」 「すごいですね。水里さんのパワーは。ふふ」 「あ、ははは。おかげさまで元気だけが取り柄です」 二人は笑いながら部屋に入っていく・・・。 水里は買い物したものを整理して陽春にお茶を出した。 「すいません。いつも碌なものがなくて・・・」 「いえ。貴方の顔が見られたらお腹いっぱいです」 「・・・(照)さ、作用ですか・・・」 相変わらず陽春の天然系の台詞には弱い水里です。 「・・・あの・・・。ガードレールの花。水里さんだったんですね」 「あ、ごめんなさい。勝手なことして・・・。でも 枯ぎみだった花、なんか見てられなくて・・・」 「いえ・・・。僕がすべき事なのに。こちらこそお手数かけました」 「め、滅相もない・・・」 お互いにお辞儀をしあう二人。 「・・・あそこで・・・。雪さんの大切な命が消えたのですね・・・」 「・・・はい・・・」 「・・・僕は何も知ろうとしないで・・・。貴方や夏紀さん、周囲の人たちに 甘えている・・・」 「そ、そんなことは・・・」 陽春は首をふって否定した。 「いえ・・・。僕は逃げていたんです。昔の自分と比べられるのが怖くて・・・」 「春さん・・・」 「・・・僕と命がけで結婚した雪さんという女性のこと・・・。知ろうとも しなかった。日記だけ読んでただけで・・・」 (・・・) 微かな痛みが水里の胸を過ぎる。 「昔の自分と向き合わなければ・・・。新しい自分だって見えてこない。 探す権利もない」 「・・・」 「・・・だから僕は・・・。もっと知ろうと思います。 昔のことを・・・。知って受け入れようと・・・」 (・・・雪さんのことも・・・かな) 嫉妬する自分を意識する水里。 「でもそれには力が要る。だから ・・・少しだけ・・・。貴方の元気を分けてください。こうして たまに会って・・・」 「あ、わ、私の元気でしたらいくらでも 持っててください!こんなもんでしたらいくらでも!」 ゴリラのように胸をドン!と叩く水里。 「・・・ふふ・・・。今、貰いました」 「え?あ、そ、それは用御座いました・・・(汗)」 自分の御馬鹿さが陽春を元気にするなら 馬鹿さも捨てたものじゃないな、と少し思う水里。 (微妙に悲しい気もするが(汗)) 「あの・・・。不束な僕ですがよろしくおねがいします」 「え、あ、いや、こちらこそ、不束な私ですが宜しくお願いします」 まるで、家庭訪問に来た教師とそれを迎えた保護者のように 正座してお辞儀しあう。 (・・・) (・・・) 「・・・。鯛焼き、食べましょうか?」 「はい。そうですね」 くすぐったい空気に 鯛焼きの甘いにおいが混ざって・・・ もっとくすぐったくなる。 新しい記憶が 一つずつ増えていく・・・ それと同じで・・・ (前の自分を知っていかなくては・・・) 次の週、陽春は雪の墓まいりに行くことにした・・・
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