第6話 記憶が覚えていた涙
陽春は、雪が生前までの期間の日記をもう一度読み直していた。 最初、読んだときは、ほとんど”他人の日記”を読んでいる感覚だった。 でももう一度読み返してみると・・・ (他人の日記なんかじゃない・・・”僕”の日記・・・) 雪の命。 一回でも発作がおきれば命の危険と隣り合わせ。 ”今日は雪の顔色が悪い・・・。息も荒い・・・。不安になる。 俺は医者なのに医者としての自分を忘れ、ただ・・・病を持つ夫の不安だけに ・・・” その時の”記憶・”詳細な光景はないのに じわりと感じる不安感・・・ (俺の不安じゃないのに・・・気持ちが重い・・・) 『雪の薬の量が増えた・・・。薬の副作用なのか、急に眠くなったり 胃が荒れて食欲がなくなる・・・。薬をやめることは雪の命を縮めること・・・ だが、目の前で吐く雪を見ていると・・・。ただ・・・ただ・・・辛い・・・』 (薬の副作用・・・。あれは辛い・・・。でも飲まないと病は治らない・・・) 自分も薬の副作用で時々頭痛がある・・・ 雪の辛さがリアルに体の痛みとして伝わってくる・・・。 『雪が泣く・・・。”ごめんなさい私は貴方に吐いたものを処理させる ために結婚したみたいで・・・。こんな私が嫌い”そう言って泣く・・・ 雪の背中をさすって俺も泣いた・・・』 雪の気持ちが不思議に伝わる・・・ (この気持ちはなんなんだろう・・・。”光景”としての記憶はないのに 不安めいたり・・・哀しいというこの感覚は・・・) 形としての記憶はない。 なのに・・・。 『雪を護りたい。守りたい。守りたい・・・』 (前の”俺”の切実さが・・・なんだかわかる・・・) まったく覚えのない 思い出達なのに伝わるこの気持ちは・・・。 『雪を死なせるものか・・・!雪を一日でも生きさせたい。 生きてほしい・・・』 この部分の文章の肉筆。 感情がこめられていることがわかる。 (そんなに・・・雪さんが・・・。大切だったんだな・・・) 大切な人を守りたい。 一緒に生きたい。 相手は違えど、その気持ちは分かる・・・ 日記を読み終えて・・・ (雪さんと会って来よう・・・。会って・・。伝えなければいけない) 陽春は翌日・・・ 記憶を失ってから初めて雪の墓を訪ねた・・・ 陽春は水里をつれている。 水里の手にはピンクのチューリップが・・・ 「・・・。春さん・・・。私もついてきて本当に良かったんですか・・・」 複雑な表情の水里・・・ 「貴方が立ちあってほしいんです」 「でもここは・・・」 「”前”の僕を受け入れた上で・・・。この先の 時間を”新しい僕”からスタートするという許しを・・・。水里さんと 雪さんの前でしたいんです」 「・・・」 陽春の真剣なまなざしに水里は負けて 腰を下ろして雪の墓石を見上げる・・・。 「ありがとうございます」 陽春は線香をたてて水里ともに手を合わせる・・・。 そして陽春は墓前にあるものを差し出した。 「春さんそれは・・・」 「記憶喪失前の僕が書いた雪さんの生前までの期間の日記です」 きれいな白い表紙のダイアリー・・・。 「何度も何度も読み返しました・・・。読み返すたび・・・。 雪さん”僕”が本当に懸命に二人で生きていこうとしていたことが・・・」 (・・・) チクっと水里の心にかすかな痛みが走った。 「体に爆弾を抱えながら発作への不安を抱えながら・・・毎日毎日・・・。 生きていたことを・・・」 (春さん・・・。今の自分と重ねて・・・) 「・・・僕は愚かでした・・・。”記憶以前の僕は忘れ、新しいこれから 自分をスタートさせたい”なんて・・・。前の自分と比較されるのが 嫌で逃げていただけなんだ・・・」 (春さん・・・) 「雪さんが・・・。消えそうな命の雪さんを”僕”は 本当に心から愛していて・・・守りたかった気持ち・・・忘れちゃいけないんです。 雪さんとの日々の”記憶”がなくても・・・」 「・・・はい・・・」 水里は微かな痛みを感じながらも 陽春の真摯な言葉に深く深く頷く・・・ 「・・・雪さん・・・。すみませんでした・・・。貴方を愛した気持ちを 否定してしまって・・・」 「春さん・・・」 陽春は白いダイアリーをやさしくなでながら語りかける・・・ 「”僕”は・・・。雪さんを愛したという事実は変わりません。 永遠に・・・」 やさしい眼差しで墓を見上げる陽春・・・ その頬に一筋・・・濡れて流れる・・・ 「雪さん・・・。本当にすみませんでした・・・」 (記憶がなくても・・・。大切な人を亡くした”痛み”は 残ってるんだ・・) 目に見えない雪の魂と会話しているように水里には見える・・・ 頬を伝う涙・・・ 「雪さん、貴方の痛み・・・苦しみ・・・。忘れない・・・。 一日一日を懸命に生きようとした・・・。そして理不尽な な死を向かえて・・・。忘れない。絶対に忘れない・・・」 (・・・私・・・。やっぱりこの場に居ちゃいけない気がする・・・) 嫌な嫉妬が沸いてくる そんな自分を陽春にみせたくない・・・ 「しゅ・・・春さん、私、ちょっとお水汲んできますね」 水里は桶をもってその場を離れようとした。 「待ってください。水里さん」 水里の手をつかむ 「しゅ、春さん・・・」 「居てください・・・。お願いします」 「で、でも・・・」 「お願いです・・・。居てください・・・」 陽春の手は、水里の手を離さない。 「・・・雪さん・・・。貴方のことは忘れない・・。 忘れない。忘れないから・・・。”新しい僕”で生きていくことを 許してください・・・。新しい自分を目指さないと僕は生きていけない・・・」 陽春は深々と墓に頭を下げた・・・ 「言ってることがまちまちですみません。でも雪さんの 許しを得てから・・・。新しい僕としてスタートし・・・。 それから・・・」 「それから・・・?」 「”今”僕が好きな人を大切にしたい・・・」 (春さん・・・) 「・・・勝手な男です。雪さんのこと忘れない、いいながら・・・。 でも自分の気持ちに嘘はつけない・・・。今、僕が想うのは・・・。ただ一人だから・・・」 「・・・」 水里は再び跪き、墓前と向かい合う。 そして陽春と共に 手を合わす・・・ (雪さん・・・。春さんの傍にいることを・・・ 許してください・・・。雪さん) 二人が雪に願うことはただひとつ・・・。 安らかなる眠り そして・・・ (これから・・・新しい人生を見出すことを・・・) 水里と陽春はただ、ひたすらに手を合わせ、目閉じる・・・ 長く 深く・・・ ピー・・・ 頭上で鳶が鳴いている・・・ 「・・・じゃあ・・・。そろそろ行きます・・・。雪さん・・・」 立ち上がり、水里と陽春、 深々と頭を下げる・・・ (雪さん・・・) それぞれに想いを秘めて・・・ 二人並んで帰る後姿を 桃色のチューリップが風に揺られて見送る・・・ どこか切なく・・・ どこか寂しく・・・ それでも見守るように・・・ いつまでも風にとまることなく 優しくゆれていた・・・。 >