デッサン
〜ずっと待つ君の心の色〜
後編
今日の夕方もまた、いつも通り、陽春のコーヒーを飲みに来たはずの水里。

だが・・・。何故だか中に入ろうとしない水里。

「・・・」

窓からみえる店内。

カウンターの奥にいるのは陽春と・・・。

カウンターに座る愛子だった

積極的な愛子は美味しいコーヒー豆を輸入販売しているという会社を陽春に紹介しようとここのところ毎日のように通ってきていたのだった。

(それにしても・・・。絵になるなァ・・・(汗))

絵になるというか・・・。

在りし日の雪と陽春の若夫婦を思い出す。

同じ春の陽だまりのような雰囲気を持っていて・・・。

(・・・。私はマスターのコーヒーを飲みに来ただけ。別に意識する必要ないよね。でも・・・)

足が前に進まない。

店のドアの前で言ったり来たりする水里。

(何やってんだろう私は・・・。今日はよそう・・・。明日また元気な顔で・・・)

「くしゅんっ・・・」

何だか背中に寒気を感じながら水里はその日、店には寄らず・・・。

「でね。陽春さん。この引き豆なんていいと・・・」

コーヒー豆のパンフレットを陽春に見せる愛子。しかし、陽春の視線はカウンターの一番右端の席に・・・。

「陽春さん?どうかされまして?」

「いえ別に・・・」

愛子は首をかしげながら、更に話を続ける。

陽春は水里が来ないのが少し気になったが明日、来るだろうと思った。

だが。次の日も。その次の日も・・・。

水里が店に姿を現すことはなかった。

かれこれ、もう一週間・・・。

「最近、山野さん、お見かけしないですわね」

「え・・・。あ、そうですね・・・」

「もしかして。他に美味しいコーヒーのお店でもみつけられたのかしら?」

洗い物をしていた陽春の手が一瞬ピタッ・・・と止まった。

陽春の顔が微妙に変わったのを愛子は見逃さない。

「・・・。そうなんでしょうか・・・。でも仕方ないですね。水里さんに新しいメニューの構図考えてもらおうかとおもってたから・・・・・・」

心配気に水里の席をみつめる陽春。

「でも・・・。一週間も来ないなんて・・・何だか気になるな・・・。電話かけてみようかな・・・。」

「・・・。なら私がかけますわ」

「え?」

愛子はバックの中から携帯を取り出した。

「でも・・・」

「山野さんは一人暮らしなのでしょう?私も同じ女性として気になりますもの。それにこういう時って男性にかけられるとかえって驚くものですし・・・」

「・・・。じゃあ、お願いしようかな」

陽春はメモ用紙に水里の画材店の電話番号を書いて愛子に渡した。

真新しい最新式の携帯で水里の店にかける愛子・・・。

ジリリリリリーン!

カーテンを閉めた画材店内。

今時珍しい黒電話のベルがけたたましく鳴る。

「ゴホ・・・っ。はいはい・・・。今出ます・・・」

水色と白のチェックのパジャマを着てマスクをした水里が苦しそうに二階から降りてきて電話に出る。

「はい・・・。もしもし水色堂(店の名前)ですが・・・。ケホッ・・・」

「山野さん、突然ごめんなさい。私、愛子です」

「愛子さん・・・?ゴホゴホッ・・・」

掠れ声に激しく咳き込む水里。

「山野さん、お風邪なの?」

「ええ・・・。四、五日前くらいからちょっと・・・」

「陽春さんが・・・。何かあったんじゃないかって心配されるものだから・・・。私も気になって電話してしまいました」

「あ・・・。すみません。ご心配かけちゃって・・・。でも、たいしたことありませんから大丈夫です」

「その激しい咳のどこが大丈夫なんですか!」

「ま、マスター!?」

突然、低い、ハスキーな陽春の声に変わったのでかなり驚く水里。

「あ、いやその・・・。熱もそんなに高くないし、本当に大丈夫ですから。マスター」

「風邪を侮っちゃいけません。食欲はありますか?頭痛や吐き気は?」

「食欲はなんとかありますし、吐き気や頭痛はないです。おかゆ作って今朝食べました。あとりんごのすったの少しと・・・」

「りんごの掏るのはいいですね。とにかく水分補給を忘れずに。微熱だと言っていましたが微熱が長く続くようなら普通の風邪じゃないかもしれません。すぐ医者に行ったほうがいい」

「は・・・はい」

何だか診察されている様・・・。

陽春の口ぶりはまるで・・・。

「あ・・・すみません。何だかえらそうに・・・」

「い、いえ・・・。参考になりました。何だかマスターお医者様みたいでしたね」

「・・・」

一瞬の陽春の沈黙。

ほんの一瞬だったけどすごく深い沈黙に受話器ごしだが感じた。

「ともかく、水分補給は大切ですから・・・。お大事になさってくださいね。桜ケーキ、早く水里さんに食べて欲しいから・・・」

”早く食べて欲しいから・・・”

最後の言葉がとても嬉しい水里。


何だか・・・。


心の奥がほわっとする・・・。


「マスター・・・。ありがとうございます。ではたらふく水分とって完治いたしますので少々お待ちくださいませ!」

「はいお待ちしております。ふふ・・・」


元気な水里の声に陽春は安心したのかふっと顔がほころんだ・・・。

愛子はそんな陽春の表情一つ一つの変化をじっと見つめていたのだった・・・。



しかし・・・。

その次の日の朝。陽春にとっては辛い出来事が・・・。

花壇のチューリップに水をやろうとした陽春だったが・・・。

「なんてことだ・・・」

花壇は踏み荒らされ、花は根こそぎ引き抜かれ最悪な状況だ・・・。

蕾だった何株ものチューリップは花びらが引きちぎられていた・・・。

「誰がこんなことを・・・」

険しい表情でしゃがみ、花壇を見つめる陽春・・・。

まだ一度も咲いていなかったチューリップが・・・。

かろうじて一本だけ蕾のチューリップが残っていた・・・。


「陽春さん、どうかした・・・。な、何です!?これは・・・酷い・・・。誰がこんなことを・・・!?」

花壇の土をよく見れば、スニーカーと思われる靴底の跡がくっきりと残っていた。

この辺りは週末の夜、酔った若者達が通ったりする。

スニーカーの跡から見て犯人は・・・。

「犯人は一体誰ですの!?交番に届けたほうがいいんじゃ・・!」

「それはよしましょう・・・。」

「何故です?だってこんなひどい事・・・」

「誰がやったという証拠もないですし・・・。花はまた植えればいいですから。それにほら、一本だけ・・・。この一本だけのチューリップも残りましたし・・・」

平気そうない言う陽春だが・・・。

ちぎられた花びらを拾う大きな手は微かに震えた・・・。

怒りなのか・・・。

この花壇は・・・。


”きっとお客様が喜んでくれるわね・・・”


雪と一緒に植え、作った花壇・・・。


そう・・・。


事故に合う直前に・・・。

「また休みの日に手入れしなおします。さ、コーヒーいれますから店の中にどうぞ。愛子さん」

「陽春さん・・・」

陽春はこの花壇のことを詳しくは口にしなかったが・・・。

愛子には花壇は亡き妻との思い出深いものなのだと直感していた・・・。



次の日の夕方。

ピピ!

体温計が鳴った。

『37.9度』

陽春の言ったとおり、微熱がなかなか下がらない。

(マスターの言ったとおりただの風邪じゃないのかな・・・。ともかく明日、病院行こう。何年ぶりだろ。病院いくのは・・・。保険証探さなきゃ)

押入れの引き出しを捜す水里。

コンコン。

店のドアをたたく音。

「ん?誰だろ・・・」

キィ・・・。

ドアを開けるのと同時にいい香りが・・・。

「あ、愛子さん・・・!?」

「ごめんなさい。突然お伺いして・・・。どうしても話をしたいことがあったものだから・・・」

「あ、と、とにかくどうぞ・・・っ」

自分はパジャマ姿だったが着替える暇もなく、水里は愛子に丸イスを用意して、お茶をいれた。

「す、すいません。何もないんですがどうぞ・・・」

「お構いなく・・・。それで水里さん、お体の方はいかがです?」

「え、ええ明日、マスターに言われたとおり病院に行こうかと・・・。あの。それでお話って何でしょうか?」

「・・・実は・・・」

愛子は昨日、店の前の花壇が荒らされたことを水里に話した・・・。


「・・・そんな・・・。あの花壇って・・・」

「ええ・・・。陽春さんは仰らなかったけれど、多分亡くなられた奥様と一緒に作られたのだと思います・・・。陽春さんて奥様のことはあまり話さないですものね・・・」

「・・・」


自分が知っているのは、似顔絵を描いた時の二人。

似顔絵の中の雪の笑顔・・・。


「昨日の電話・・・。陽春さん、まるで本当のお医者様でしたよね・・・」

「はい・・・」

「本当にお医者様だったんです。陽春さんは」

「えっ・・・」

愛子から聞く、陽春の以外な事実に水里は驚く。

でも確かに昨日の電話の陽春は本当に医者らしかった。

「私の父と奥様の・・・雪さんのお父様とは友人で・・・。陽春さんのことは昔から知っていました。陽春さんと雪さんは周囲からの猛反対を押し切って結婚されたそうなんです・・・。雪さんは病弱でいつまで生きられるかわからない体だったから・・・」

「・・・!」


スケッチブックの中の笑顔・・・。

とても健康そうなのに・・・。

「最初はやはり雪さんのご両親は反対だったそうなんですが、陽春さんが執刀した手術が成功して元気になった雪さんの姿を見て段々お考えも変わってこられたそうです。そして二人はお店を持った・・・。大きな壁を二人で乗り越えた・・・。強い絆で結ばれていたんですのよね。ふふ実はその頃一度だけお客として私、陽春さんのコーヒー飲みに来たことがあるんです 。あのカウンターに雪さんと二人・・・。本当に幸せそうだった・・・」

そんな風景がありありと水里の脳裏に浮かぶ・・・。

優しい笑顔の二人が・・・。

「なのに・・・。二年前の突然の事故・・・。それもこのお店のすぐ前でなんて・・・本当に悲劇としか言えません・・・ 」

二年半前の事故・・・。新聞でチラッと見ただけで詳細は覚えていないが・・・。

未成年の無免許運転だったとか・・・。

「陽春さんの周囲の人たちは陽春さんが雪さんを失ったショックで陽春さんが精神的におかしくなりはしないかと心配したほどでした。でも陽春さんは気丈にもあのお店を守ると言った・・・。元医者の陽春さんですもの・・・。家族を失う悲しみを幾つも見てきているから自分を心配する周囲の気持ちも痛いほどわかっていたんでしょうね・・・。本当に優しい方だから・・・」

「・・・」

前に・・・。閉店した店内で、雪の写真を見ているこっちが泣きそうになる様な切なげなの陽春の背中を思い出す・・・。


暗いカウンターで・・・。


「あのお店は陽春さんにとって雪さんの心、そのものなんだと思います・・・。花壇も奥様との思い出・・・。その花壇が誰かに踏み荒らされて・・・。陽春さんはまた植えれば言いとおっしゃってたけど・・・。陽春さん元気がない様な気がして・・・」

そう話す愛子のまなざしは誰かを強く想う気持ちがあふれている・・・。

「・・・。愛子さん、マスターのこと、とっても好きなんですね・・・」

「・・・。初恋・・・なんてこの年で言うのも恥ずかしいのですが・・・。でも水里さんだってそうなのでしょう?」


「え・・・」

愛子の直球にかなり動揺する。

「え・・・、あの・・・わ、私は・・・ま、ま、マスターのコーヒーの味に感動いたしまして、け、けけ決してその、何がどうしたとかこうしたとかいうことじゃなくて、あのその・・・」

動揺を隠そうと湯飲みのお茶を一口飲む。

「あっち・・・!あちちち・・・!」

淹れたてのお茶だということを忘れ、舌を焼けどしそうになる・・・。

「す、すみません・・・」

「うふふふ・・・。本当に貴方は面白い方。うふふふ・・・」

(・・・面白いってほめられてるのかな・・・)

ちょっと複雑な水里。

「水里さん・・・。私がこんなこと言うのもおかしいのだけれども、陽春さんを元気付けてほしいんです」

「え・・・」

「私にはどうしていいかわからなくて・・・。でも何故だかあなたなら何かしてくれそうな気がして・・・。」

「いえ、そんな。私もマスターに元気になってもらいたいです。ケホケホッ」

激しく咳き込む水里。

「だ、大丈夫ですか?私ったら水里さんの体調も考えずに無理なことを言って・・・。あの、今のことはきかなかこっとにしてください。くれぐれもお体、大切に・・・」


愛子はそう優しく言うと水里の店を跡にした・・・。


”陽春さんに何かできることないかしら・・・”

愛子の言葉。

自分できること・・・。

陽春と雪の大切な思い出が詰まった花壇が荒らされたからといって簡単に自分が触れていいものか迷う・・・。

でも何か自分にできることは・・・。

そんなことを考えていたらその夜もなかなか寝付けない水里。

ビュー・・・。

外は風が強く、窓がかたかたと揺れた。

”辛うじて、一本だけの黄色いチューリップが残って・・・”

(・・・気になる)

「・・・。コホ・・・」

12時をすでに回っている。

水里は着替え、何か少し荷物を持って家を出た。


ビュゥッ。

生暖かい風だが強風だ。

雨は降っていないが路地に落ちていた新聞紙が宙に舞う。

「すごい風・・・」

手をかざしながら、水里は陽春の店の前の花壇の前まで来た・・・。

花壇の真ん中に一本・・・。

ぽつんと蕾のチューリップが風に揺らされながらも耐えて頑張っていた・・・。

根を張って。

酔っ払った不心得な人間にも負けなかった一本・・・。

(強風になんか雨になんかまけないよね・・・


まだ蕾。こんな強風で飛ばされるのは本当に寂しい・・・。


水里は紙袋の中から透明のビニール袋と紐を取り出した。

(蕾を壊さないようにそうっと・・・)


蕾の部分をそっと袋で覆い、紐でしばる。

さらに茎の部分を細いつっかえ棒で支えて・・・。

(これで大丈夫かな・・・)


そしてスケッチブックを取り出して一枚はがし、店のドアに挟んだ。

「ケホ・・・」

(マスター。いつも美味しいコーヒーありがとう・・・。お礼じゃないけれど・・・。私にできることは・・・。これしか思いつかなかった・・・)


水里も知っている唯一のもの・・・。

それは雪の笑顔。

スケッチブックの中の笑顔。

かけがえのない大切な人を失った悲しみ・・・。陽春の痛みは自分にはわからないかもしれない。でも・・・。

笑顔だけは知っているから・・・。


陽春の心の中の雪の笑顔を・・・。


「ケホ・・・」


(帰ったらホットミルク飲もう・・・)


ビュオウ・・・ッ。


蕾のチューリップ・・・。

風に必死に耐えるようにゆれて、でもその蕾も茎も折れることも散ることもなかった・・・。



チュン、チュン・・・。

雀が電線に止まる。

昨夜の風で街路樹の葉が散って地面に散乱している。

昨夜の激しい風が嘘の様に穏やかな朝。

陽春は開店2時間前だというのに、開店準備を始めた。

カタン・・・。

「・・・?」

白い紙が一枚すっと落ちた。


「これは・・・」

そこ描かれていたのは、鉛筆で描かれた雪の笑顔・・・。


そして水里からのメッセージがあった。

『マスターへ。昨日、愛子さんが来て花壇のこと、聞きました・・・。
勝手に奥様との思い出の花壇に触れてごめんなさい。さっき起きてみたら風がすごく強かったから一本残ったチューリップが気になって・・・。

チューリップが倒れないように支えておきました。一本だけでも咲いて欲しくて・・・。

遅咲きになったとしても必ず咲きます。

開かない蕾はないと思うから・・・』

メッセージを読むとすぐに花壇に駆け寄る陽春。

「あ・・・」


透明のビニールの中の小さな蕾・・・。


小さいけれどふっくらと膨らんでしっかり太陽にむかって花びらを開かせていた・・・。


踏み荒らされ、一本だけ残ったチューリップ・・・。


「咲いた・・・のか・・・」


”きっと咲くわ。花ってね。枯れても散っても自分で起き上がる力を持ってるの。人も同じ・・・。辛いことがあっても心が不安でも自分で立ち上がる力を持ってる。だから陽春・・・。いつか私がいなくなってもそれに負けないで・・・。負けないで・・・”


病院のベットの上でいつもそうつぶやいていた雪・・・。

3年近く経った今も、雪を失った心の穴は埋まらない。その痛みに負けそうになるけど・・・。


カサ・・・。

白い紙を広げると雪が笑ってる・・・。

その笑顔を忘れなければ・・・。


頑張れる・・・。


絵の中の雪はそう言っている

水里が描いた雪が・・・。


「・・・。水里さん、ありがとう・・・」

『それからマスター、いつも美味しいコーヒーをありがとう。本当に心も体も温まります。だからこれからもマスターのコーヒーにお世話になりますのでよろしくお願いします! 水里』


「こちらこそ、よろしく。水里さん」


水里が綴ったの最後の一言にそう呟いた・・・。

優しい朝日が小さなチューリップを優しく照らして・・・。





しかし陽春も水里も知らない・・・。


花壇を踏み荒らしたのは”ある人物”の故意によるものだったということを・・・。

深い、深い、悪意に満ちた魂が・・・。

それを知るのはずっと先のことである・・・。