紅色の暖簾


 夕方の秋風にすすきと紅色の暖簾が、ゆっくりとなびく。そろそろ、紅食堂に柔らかい明かりが灯る。
 
 店からは、どこかホッとする様なおでんの匂いが湯気と一緒に窓から、漏れてくる。
 
 その匂いに誘われて、常連客がやってくる。


 庄次郎は、ぐつぐつと煮えるおでんの汁を味見する。


だしは、創業以来使っている昆布と酒で味付け。

いたってシンプルだがそれには、五十年という年期の味がしみ込んでいるのだ。

「あぁ〜。うっっまいわ〜。ワシ、この一杯のために生きとるワイ」

 熱燗で一杯ぐいっと飲み干すのは、北島三郎命の源太だ。
 


 紅食堂の一番古い常連で、庄次郎の幼なじみでもある。



「庄ちゃんよ、あんた、ほんまにいい味出すねぇ。
胃袋があったまってヨ、ほっとするんだ。味に人柄がでとるワイ」

「有り難う。でも源ちゃん。いくらほめてもそれが最後の一本だからな」

「そんな固いこと言わんと〜。もう一本だけだからな、な?」

 源太は、その独特な下がり目をもっと下げて庄次郎に頼み込むが庄次郎は首を横に振る。

「肝臓が弱くなっとるから、源ちゃんとこの息子の嫁さんにこの前、
あんまり飲まさんといてくれって言われとるんだ。
源ちゃん、うちでも飲んどるんだって?」


「けっ。余計なことしゃべって。あのバカ嫁が。
そんなもん、上っ面だけで心配しとるに決まっとる。
腹の底では何考えとるかわからん」


 源太は、とっくりをぐいっと持ってごくごくと最後の一本を飲み干した。

「外面がいいだけだ。きっとワシの財産狙っとるんだ。その証拠に、あのバカ嫁の方から同居したいって言ってきたんだからな」

「そんな・・・。何でもかんでも悪い風に考えたらあかんよ」

「ふん・・・。ワシはもともとそういう性格なんや・・・。ほっといてくれ・・・」
 

 源太がこんなに酒に頼るようになったのは、源太の連れ合いが去年亡くなってからだった。

それまでは、気っぷのいい畳職人だった。

 一人になってしまってから、ガクッと体も気持ちも張り合いがなくなってしまった。

 見かねた息子夫婦は同郷を提案。

今年の春から一緒に住み始めたが、源太は依然として酒を離さなかった。
 

 唯一、この紅食堂が源太の気持ちの安まる場所になっていた。


「ヒック・・・。庄ちゃんは相変わらず真面目だのう。初江さんがおらんようになってもしっかし、この食堂を守っとるんだから」

「ワシにはこの食堂しかないから・・・」

 庄次郎と源太はふと、壁に掛かっている割烹着姿の初江の写真を見た。

「べっぴんだのう。いつ見ても。ワシはこっぴどくふられてしもたがな」

「ははは・・・。そんな事もあったなぁ」

 昔は、初江目当てに食堂に来ていた男連中で、にぎわっていた事もあった。   

「そう言えば、武、どうしとる?」

「さあ・・・。この前、電話かかってきたけど、なんとか元気でやっとるんみたいだけどな」

「えらい冷たい言い方だな。庄ちゃんよ、おまえんとこも、うまくいっとらんのか?」

「べつにそういう訳でもないけども、
わざわざ電話かけてくんなっての。
電話賃、ばかにならんのに。あいつも何かと生活、大変なんだからな」



「・・・。やっぱり庄ちゃんは、偉いのう・・・。ワシなんか自分の事で手一杯でよ、情けなくて情けなくて・・・」
 
 泣き上戸の源太。


 源太の心の寂しさが・・・酒に入り交じっておちょこにぽたりと落ちる。
 
 庄次郎はそっと源太の背中をさすってやる。

「源ちゃん?」


 源太は静かに寝息を立てている。
 
 庄一郎は、その源太の寂しげな背中にそっと自分の上着を着せてやった。

 「源ちゃん、ワシもあんたとおんなじだよ」
  
 庄一郎は初江の写真をちらりと見てつぶやいた。











夜、庄次郎はお気に入りの歌謡番組を見ながら、一人静かに晩酌。


つまみは、魚の切り身とイカの酢の物だ。 「昔、初江がよく作ってくれたものだった。

風呂に入って、床の準備をし、仏壇に今日一日の事を初江に報告する。

しかし・・・

今日は少し寂しい気分だ。源太の小さくて丸い背中を思うとたまらなくなる。

「・・・。初江よ、ワシ、どう言うてあげたら言いんかのう。 口べただから言葉、見つからんし・・・」

庄次郎は写真の初江を見る。

「・・・。いや・・・。そうじゃない。たまらんがは源太じゃなくて・・・」

源太の寂しさはそのまま、庄次郎の心の中にある寂しさと同じだ。

源太がほしいものは、そのまま自分も欲しいものなのかもしれない。

「・・・。どうしたんやろか。今日、ワシ・・・。何やらよっぱらたんか、愚痴っぽくなって・・・。こんなんだから、武からしゅっちゅう、電話かかってくるんだな」 < 愚痴を言っても、強がりを言っても、一人きり。 < それは、もう二十年間変わらずにきた夜なのに、 今日はそれが一段と身に染みる夜だった。

「さてと。戸締まりして、寝るかな・・・。痛ッ・・・!」

庄次郎が何気なくそう言って腰を上げたとたん、ピリッと激しい痛みが走った。

「いたた・・・。またか・・・」

庄次郎は以前にもぎっくり腰になってから、腰が弱くなっていた。

「よっこら・・・。え・・・と、湿布はどこやったろか・・・」

庄次郎は腰に手を当て柱につかまって、押入の湿布を探す。

「痛たた・・・。布団、敷いたあとでよかったの・・・。ててて・・」

長時間厨房に立っている庄次郎は、ぎっくり腰が癖になっていた。

庄次郎はなんとか湿布を貼ると、そのまま布団に横になった。

「ふぅぅ・・・。この分だと、明日は店は無理かのう・・・」 多分、店は無理でも、何とかふんばれば、身の周りの事はできるだろう。 しかし、不安になる。 それがきっかけで、いつか、寝たきりになったりはしないだろうかと。 そういう不安は老いていけば誰もが、もつ不安感だろうが、 こうやって実際に自分の体が自由にならないと、身に染みて感じる。 重たい黒い不安を感じずにいられない。 コチ、コチ、コチ・・・。 辺りの静けさに振り子時計の音がやけに聞こえる。 なんとなく、ここにいるのは、自分一人だけなのだと実感する音だ。 庄次郎は、ふと天井を見る。 築四十年の天井に雨漏りの痕が残っている。 昔、武はこのシミを人の顔に見えると怖がっていたっけ。 確かに、そう、見えなくもないな・・・と庄次郎は思った。 人の顔・・・。そう寂しげな人の顔。心細そくて不安げな。 庄次郎の今の顔みたい。 こんな顔、誰にも見せられない。 源太もこんな気持ちなのだろうか。 同じ家に家族が住んでいても、家族の声が聞こえてきても、こんな寂しい気持ちなのだろうか。 コチ、コチ、コチ・・・。 振り子の音が部屋に響く。 庄次郎は無性に誰かの声が聞きたい気持ちだった。 ジリリリリリーン! 電話の音に庄次郎の心臓は飛び跳ねた。 電話の音は、庄次郎に早く出てくれと言わんばかりに鳴っている。

「だ・・・。誰だ・・・。今頃・・・」 庄次郎はゆっくりと起きあがって、四つん這いになって電話にでた。

「も・・・。もしもし・・・」 聞こえてきたのは、未だに小生意気な息子の武の声だった。

「ん?親父、どうしたんだよ。何ですぐにでないんだよ。また、腰でも痛めたか」

「べ、べつに痛めたって程じゃ、ないわい。それで、お前、何の用だ?」

「親を心配しない子供がどこにおる。それより、ぎっくり、また、やったんか?大丈夫かよ、おい」

「ふん。恩着せがましい・・・。こんなもん、鼻風邪と一緒でそのうち直るワイ」 心配する武の声が庄次郎の胸に染みこむ。 庄次郎は、ズズッと涙と鼻を同時にすすった。

「親父、風もひいとるんか?親父、ちゃんと立てんのか? 身動き、できるとか?」

「風邪なんかひいとらんし、ちゃんと自分でできとるワイ。ワシ、明日、店やるつもりだからな」

「やめとけよ。ちゃんと痛み消えるまでは静かに寝てな!若くないんだから」 電話口から、孫の笑い声が漏れてくる。 その声が、不安な心を柔らかく和ませた。

「お前に心配されるほど、年寄りじゃないわい。それより、自分の子供の心配してやるんだな!」

「ったくもう・・・。年寄りじゃないなら、強情なわがままはやめるんだな。ともかく、明日、知子、そっちにやるから」

「電車代無駄すんな。生活、苦しいがだろう」 武とのいつもの荒くて口やかましい掛け合い。 けれど、今日はやかましい事がこの上なく ホッと感じる。

「あのなあ・・・。とにかく、明日、俺も会社の帰り、よるから、じゃ、おやすみ」 受話器をそっと置いた庄次郎は仏壇の初江の写真を見つめる。

「・・・。あいつに心配してもらう程ワシは、まだ、もうろくしとらん・・・」 口で強がりを言っても、写真の初江は庄次郎の本音を見透かしたように笑っている。

「・・・。違うぞ。初江、ワシ、喜んでなんかおらんぞ。武らがどうしても来てやるっていうからだぞ・・・」 しかし、初江は笑っている。

「ち、違う、言うとるだろうが」 それでも、翌日庄次郎は痛む腰を押さえながら店を開け、孫の好きなおでんの大漁に作った。 庄次郎はついでに、源太と息子夫婦も誘った。

「親父、寝取れ言うただろ!」

「うるさいワイ。午前中、針灸院行ってきたなんともないわい」

「親父!」 店からは相変わらずの庄次郎と武の口げんかと孫の笑い声とおでんのいい匂いが漂ってきていた。 そして、臨時休業の札の上の紅い暖簾は暖かな風にゆっくりと揺られていた。                                   終  


ありきたりな話でつまらないかもしれないのだけど、やっぱり 私はこういう”ありふれた、当たり前の日常の中の一こま”みたいな 雰囲気の小説が好きなんです。とっても。 ファンタジーとかも好きなんですが、世界観が大きすぎて私の能力と技術では 到底無理なジャンルです。またこういう感じのものが何か書けたらいいなぁと思います。