玄奘三蔵の果たした異文化交流の役割と影響
東京OO大学留学生・

玄奘(600〜664)は「玄奘三蔵」として日本でも親しまれ、奈良の法相宗がこの流れを受けています。
インドの無着、世親と護法、戒賢らの教学を受け継いだもので、中国がインドの異文化を吸収し消化してゆく段階で重要な位置を占めています。中国において仏教が行われていたのは主に西域であり中国の西の関門である玉門、陽関以西の広い地域です。広義には、イランからインドまで含むこともありますが、ここでは主としてパミール高原以東の、東トルキスタンを中心とする範囲を意味します。
この西域にいつごろから仏教が伝わったかは確実に決定する資料はないそうです。まず確実なのは西暦前後ごろではないかと言われています。西域の仏教は主に西北インドから伝えられたものであったが言語や風俗の違いによって変化しインド仏教とは必ずしも同じではなかった独特なものであったと言われます。この西域と中国の仏教文化の交流は少なくとも六朝時代までは一方通行であり、西域が中国に影響を及ぼしたことは明らかです。その逆はあまり見られません。
唐代になってようやく中国から西方に仏教が進出するようになるわけです。文化交流の歴史という視点から考えれば、玄奘以前に鳩摩羅什が401年に長安に来ており法顕が399年に長安から出発してインドに旅立っています。
玄奘はそのかなり後代の中国で隋唐の時代ですから中国仏教の宗派の成立があった頃のことといえます。(即ち浄土教、法相宗、南山律宗、華厳宗、禅宗、密教など)その中で玄奘が異彩を放つのは、従来の経典の翻訳が不備であることを痛感しその徹底的な研究のためにインドに渡ったことである。
当時は国外に出ることは禁止されておりましたので、昼はかくれて夜ひそかに国境を脱出したのだそうです。29歳のときでした。その後勉学に励みインドで名声を上げたわけです。
再び西域に帰ってきたのは実に17年目のことだったと言う。帰国時はまるで弥勒菩薩が生まれたような大歓迎だったと言います。玄奘の現存する肖像は経典を沢山背中に背負った形です。多量の梵本は657部といわれ帰国後は朝廷の厚い保護を受けました。その後20年にわたって役経に専念し続け65歳でなくなりました。
仏教界ではその訳方がそれまでの訳者に比べて原文に忠実であることから従来の訳ごを一変させたと言われます。中国の訳経は国家事業として帝王の保護の下に行われ個人の力によるものは少なかったのです。
玄奘も唐の太宗が大慈恩寺の近くに翻経院を作って訳場としたのであるが、その翻訳は独力ですることは少なく数人から多いときには数百人がこれに参加したといいます。
異文化交流の言われる昨今このような卓越した業績を評価した上で共通の基盤を持つ文化を認め合えば現代の国家間の歴史認識や政治課題などは些細なことと痛感せざるを得ません。