自律神経失調とパニック障害をやっつけろ!


何処の病院に行っても良くならない、医者に見離された・そう言う患者さんが集まる病院がある
病院の宣伝をするのではない、自律神経失調症を治す治療法というものを宣伝する病院があるということです。
しかし今の医学で有効な治療法はないと断言する
人間の体は一億人いれば一億人違うのです。それが精神の病気です。医学も統計が基礎にあるといったらお医者さんは怒るだろう。しかし医者は経験の統計から病気を看るのです。これから私の10年間を紹介します。テーマは自律神経失調症やパニック障害は必ず克服できると言うことです。

不定愁訴

いい加減歳を取ってからおかしな病気につかまってしまいました。救急車に3回お世話になり・全く体が腰抜け状態、全身痙攣がしばしばで寝る以外に方法は無いのだが、之が又寝付かない。睡眠薬をもらってその場をしのぐと言う外に無かった。そのうち全身痙攣が始まる。痙攣が始まると家族3人で体を押さえつけてもらわないと体がぴょんぴょん跳ねて頭の中は空中遊泳とはこんなことかとも思いました。頭は毎日脳震とう状態・意識も混沌としていれば病人らしいのだが、意識は普段どおりだから始末が悪い。
頭痛がひどいので毎日ほどマッサージ師の世話になり、自転車屋さんでチューブをもらってきて頭に巻いては外す・という自己流対処しかありませんでした。


伝い歩きでないとトイレも行けない始末・医者に行くと医者が迷惑がる・「不定愁訴」「自律神経失調症」と言って処置なし。何にもしてくれない!これぐらい医者不信に陥ったことは無かった。
10年経って今考えてみれば脳梗塞の一歩手前だったのかもしれないが、CT検査でも異常なし・MRIなどはまだ数えるほどの病院しかなかったが、何故か医者はMRI検査をしようとは言わない! その種類の本を何冊も読んだ! 

どうして私だけが!

「どうしてこんななっちゃうの??」「どうして私だけが・・・?」と思い悩みながら自宅で寝たきりが3ヶ月ぐらい過ぎて、どうにか車椅子なら動けるようになったので車椅子にお世話になりながら、病院を転々!・内科、整形外科、耳鼻科、眼科、どちらでも相手にしてもらえず最後がお決まりの精神科!・精神科の患者になることが嫌で、自分で選んで神経内科に通うことにした。ただ神経内科でも「あなたは神経内科の患者ではない」と言われる始末・これは生来の負けん気の強さと、現実の体の異常の葛藤で原因探しによるストレスによるところが多分にあると自分で思い始めた。生まれ故郷の知り合いの病院を頼って温泉病院に入院することにした。

母親に心配かけたくなくて

そのうち暮れになりこのまま正月を迎えるのがつらくて、大晦日、高校生の娘に付き添われて故郷に帰る。まだ母親が生きていたので、以前むち打ち症をやったので、首の頚椎症だと誤魔化して首にカラーを巻き1月4日の入院を待つ!その間部屋を暗くするのが非常に恐い!・やっぱり精神的要素が大きい・意識がしっかりしているので余計強がる・・娘が東京に帰ることになったがまだ高校生なので一人で遠方に旅したことが無いが、娘も強がって 「大丈夫だから!・」 と一人で空港に向かう・ しかしやっぱり正月なので急には切符を取れず 「帰れない!!」 と娘からの電話!!。この時ばかりは死ぬ気で杖にすがり空港バスで様子を見に行った。 娘は泣きべそかいて一日空港でしゃがみこんで空席待ちしていたらしい。
この時は親として娘可愛さと申し訳なさで胸が詰まって涙が出た。 やっと大阪経由の飛行機の空席を取って帰すことが出来た。この頃から今度は今後の家族や自分の生き方に不安を感じ始めた

絶望のなかにも希望

病院に入院したとき、友人から電話があった 「俺は明日すい臓がんの手術をする・最後かもわからないから会いたい・・!」 という。姉夫婦に頼んで車で1時間位先の病院に見舞いに行った。しかし彼は無事に手術が成功した。!!よかった!!と本当に喜べた。 同じようにいのちに向かい合っている者同士の新しい友情がここから始まった。その後、彼は何回かの入退院を繰り返したが、今又、脳梗塞で入院している。言葉が不自由と聞く。 近じか会いに行こうと思っている。

入院中はいろいろな患者仲間ができた。整形外科の病院だったのでみんな元気がいい。夜になると看護婦の目を盗んで数人で酒や煙草をする。その一人が私のために・・・と姓名判断師を呼んだ。私は本当のところ迷惑だったが、みんなが真面目に勧めるので一応、応じることにした。そうしないとみんなに悪いような気がした。 それでもやはり不安をあおられると心は穏やかでないものだ! とにかく縁切りのつもりで、とりあえず改名に応じて3万円払った。人の弱みに付け込んで・と少し腹が立ったが、その時その姓名判断師を責める気持ちにはならなかった。 そうすることで自分の弱さを見せたくなかったし又自分の神経を刺激すると思ったからだ。 その時の経験は今でも生きている。 もちろんその後改名などしていない

励 ま し

この入院中に貴重な体験をしました。それは沢山の友人達から見舞いの金品や励ましを受けましたが、それはそれで有難いことでしたが、その中で大学の先輩で船底さんという方からの自筆のお手紙を度々頂いたことでした。内容は特にお見舞いの言葉や励ましの言葉は全くなく、ただ在京の友人先輩たちのゴルフの成績とかOB会などの消息を書いてくれたことでした。達筆なこともあり絶望のどん底にあるという自分の境遇に一抹の光を届けてくれたことで、どんなに頑張りの糧になったか知れません。まさに「南無不可思議光」のはたらきでした。それ以来私も病に臥せった方へのお見舞いは自筆で日常のことを書き送ることにしています。

この経験は後日、京都の本願寺で厳しい得度習礼に日夜過ごしたときも同じ体験をした。「こんな厳しい習礼はもう沢山・明日こそ東京に帰ろう!」と何回も考えたものの、やはり仲間の陣中見舞いのはがきが私の弱音を支えてくれた。
これも後になって、得度習礼に行った仲間へは必ずはがきを書き送ることになった。得度習礼に行った後輩たちが帰京してから揃って感謝の言葉を返してくれたことももちろんです。苦しんでいるものへの対し方としての一選択肢を学んだ気がしたお話です。

自己催眠

2ヶ月余り入院生活をして杖さえあれば何とか歩けるようになった。 すい臓がんの友人は宮崎大学で喉の星状神経節ブロックと言う注射をしていると言う。この担当医が東京から来る・その道のパイオニアでご夫人は我々の親戚のお嬢さんだと言う。 それなら私も・・・と東京に帰ってから連続180回も通院した。聞くところによると医者から見離された患者ばかりがくる治療法らしい。効いたか効かないかはその医者の立場をおもんばかってココでは問題にしない。効く? 効かない? どう対処したらいい? などと他の患者から症状相談を受ける始末!・そんなこんなで何ヶ月か過ぎた。この病気のことは必要があればページを改めますが、ともかく社会復帰絶望の世界に入ってしまったのである。
体の自由は利かないしその後の改善もあまり無かったがとりあえずは杖さえあれば少しぐらいならゆっくり歩ける。歩測をしてみたら30センチも無い!・が傍目には普通の健常者と大して変わらない。少し足が悪い人ぐらいにしか映らない・何より恐かったのは自分が自宅で一人になったとき自殺するのでは・・という不安!・近くに包丁でもあればふすまに投げつけたくなるような衝動にも襲われた。
                          
 
私の場合


そこで正気を取り戻さなければと、この体でもできるものはないかと考えた末に、若しかしたら寺の草むしりでもさせてもらえるのではないか・ということで、坊さんになることに決心したわけです。
その頃は寺というところは誰でも困った人があれば助けてくれるところと思っておったわけです。
そこで縁のあった寺の推薦状をもらって山陰の山寺で得度資格を得て京都の西本願寺で得度したわけです。その後僧侶としての人生を歩むわけであるが、それがどのようなものであったか?またあるのか?ということをこれから暇に任せて書いてゆこうと思うわけです。


続く

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