霊って何?


さて掲示板からの続きです。
霊と言うと私たちは悪霊のことをまず考えますが、実はよい意味にも使われることも多いのです。「神々しいこと」とか「霊瑞(りょうずい)」等と使われると、”めでたい不思議なしるし”ということもあります。霊鷲山(りょうじゅせん)というのはお釈迦さまが説法したところでもあります。霊山浄土(りょうぜんじょうど)というのは、釈尊が法華経を説いたとされ、その説法されている浄土のことです。
日蓮宗での理想の世界です。浄土真宗などの浄土教での「極楽世界」に対して日蓮上人が説いたものです。
と言うことは霊と言うのはどちらかと言うと煩悩を離れた清浄な世界のことと言うのが本来ではないでしょうか?

しかし一般的には、霊というと 「亡くなった人の魂」 と言われ、多くは人間に悪さをするものとして悪者にされています。何故このように霊が悪者にされたかという人間世界の霊との付き合い方も考えてみたほうがいいように思います。
浄土真宗ではこのような霊という実体は認めません。認めないというより問題にしないと言ったほうがいいかもしれません。それは先に書いた念仏に勝る悪はないという言葉に支えられているからでもありましょうが
たとえあったとしてもそれを排除するのではなく、それとどう対するかと言うほうに教えが成り立っているからでしょう

そこで私たちが霊を感じると言うのはどんなときでしょうか?
自分に都合のいい霊感と言うのは結構楽しいものではないでしょうか?
しかし、問題は自分に都合の悪い霊を感じたときの自分の立場とか生き様はどんなものでしょうか?

納骨堂の見学をして体調を崩した!・これは本当に見学或いは参ったその行為と本当に関係があるのでしょうか?
また、どのような理由があって納骨堂見学に行かれたのでしょうか?

おそらくお身内の故人の遺骨を何処に納めるかと言う真剣な問題が一番だったと思いますが
その時、遺骨に対してどのような感情をお持ちだったのでしょう?故人がまだ人間の人生の延長線上にあるとお考えをお持ちの方も結構多いようですよね。分骨を嫌う人たちがいますがそれの多くはこんな部類ではないでしょうか?

遺骨にまだ人間の魂あるいは意思が残っているとお考えの方は、良くも悪くも今生きている自分と遺骨が何か物理的な関係を保っていると感じているように思います。これは科学的には全く否定されるでしょうけど、そこを割り切れないのが我々人間です。
そこで占いなどに科学の奇跡を期待して行くのではないでしょうか?

私的に結論を急ぎますと
悪霊を信ずる人は、自分の事を先ず善人という前提があるように思います。「自分は善なのに悪が私に取り付いて私の人生に苦を与えている」 とお考えの人が多いように思います。自分が善なら取り付いた霊が絶対善のものであっても自分にとっては悪になります。だから除霊をする!・

お祈りも同じようなことがいえますね。即ち、自分の身を清浄にすることによって神仏に許しを乞い、お願いをする!・
果たして私たちは本当にわが身を清浄にできるのでしょうか?
私の場合は親鸞聖人の教えを受けていますから私自身の生き方そのものが悪です。「極重悪人」です。
ですから若し霊と言うものが私に何かを求めて取り付いたのなら、やはり私の心にある罪悪性に光を当てて下さったと思うほうが気楽です。だから念仏するのです。これが私流の救いです。

肩こりや頭痛は生活習慣病といわれるように人間の体の自然だろうと思っています。だから医者に急ぎます。

この稿はあくまでも私的の考えですので手本や解決法ではなくて、あくまでもサンプルとしてお受け取りください
考えが変わったら又書き直すことにしましょう

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