五 陰 盛 苦
(ごおん じょうく)
さて、この項はかなり専門的な用語や文章になりがちなのですが、筆者はそれほど仏教学と言う学問や、修行に通じているわけではありませんので、皆さんに判りやすく説明できる訳ではありませんので、ごく単純に筆者の思うところを書いて、もっと詳しく知りたい方は碩学の先生方の著書にお任せしたいと思います。
あくまでこの欄は仏教啓発の伝道を目的とするが故です。
私はこの五陰の五を、眼・耳・鼻・舌・身・意・と読み替えました。学問としては間違いでしょう、人間の苦ということを考えるとき、自分の身に置き換えた場合この方が理解しやすいからです。勝手に読み替えることは良くないかもしれませんが、やはり私たちは目が見えるからこそ(五薀の働き)見たものが欲しくなり、耳が聞こえるからこそ・一度味わう経験があって・身体が元気故に、仏教修行の上では魔である煩悩が起こりその故に苦悩が起こるからです。
しかし、世間には眼・耳・鼻・舌・身に不自由な人も沢山いらっしゃいますから、この事から差別意識を持つことは社会悪になりますので気をつけなければいけません。さて、私事はこの程度に留めて、仏教学に忠実にお取り次ぎいたします。 あくまでこの言葉は初期仏教で生まれた言葉ですから現代風に受け止めることが大事だと思います。
まず五陰盛苦とは五薀(うん)が盛んであるが故の 「苦」と言うことです。 では五薀とは何か?
五陰(おんと読む・いんと読まない) とか 五薀(うん)とか面倒ですね・どっちか一つにすればいいものを・・・これは文字の変遷と言うことにも思いを待たなければいけません。
旧約では五陰、新訳(玄奘以後)では五薀と言うそうです。ですから五薀(うん)盛苦とも言います。また、五温(おん)と書く人もいます。いずれも内容は同じなのですが、文章の内容によってわざわざ違う文字を使い文章を際だたせる意図もあるのでしょう。
また我々の心身は色・受・想・行・識(五薀という)が仮に因縁によって仮に和合した物であると言われます。私の肉体は仮の物で実体ではないと言うことです。 難しくなりましたね。 この辺から人間の死生観などという思想が生まれてきているのでしょうか? 「諸法無我」 などと言う言葉も同じような意味ですね。皆さんご存知の般若心経にはは五薀(うん)と表されていますが、これは観音様が般若波羅密多を行じている様を 「照見五薀皆空・・・」と続きます。
横道にそれますが、 浄土真宗の門徒が 『般若心経』 を讀誦しないのは、「照見五薀皆空・・・」などという修行は生きているうちは絶対に出来ないから、阿弥陀仏が先回りして修行し完成させている事を信じて、その修行に救われている事を信じて、修行に費やすエネルギーを、今生のエネルギーに使わせて貰おう・ その代わり慚愧と感謝の念仏を称えよう・と言うのが在家仏教の心と言うことになります。「般若心経は」この苦の克服の意味を書いているわけですが、観音様の修行の様ですから、私たちには到底「それが空である」等という境地には達し得ません。
それでは愚者の愚問はこのへんにして仏教語大辞典(中村元著)に聞いてみましょう。
五薀とは・色・受・想・行・識という人間存在の構成要素の集合体と書いてあります。また五薀は人間のみでなく一切の有情、即ち生き物全部をさすみたいです。
即ち、私たち人間(有情)存在は物と精神の集まりと言うことです。その物質と精神を五つに分類し、環境を含めて衆生の心身を五種に分析したものだそうです。以下、仏教語大辞典(中村元著)から引用します。
色薀=物質一般、或いは身体、身体及び物質、物質性
受薀=感受作用、感覚、単純感情
想薀=心に浮かぶ像で、表象作用
行薀=意思、或いは衝動的欲求に当たるべき心作用
識薀=認識作用、識別作用、区別して知ること
さて 「何だか判ったような?判らないような?」 よく解りませんね。
座禅を組み、瀧に打たれて、公案を心得て、ヨーガに取り組み・沢山の修行を重ねないと解らない事かもしれません。でも私には子供を育て家族を養わなければならない社会的最低限の義務もあります。家を捨て家族を捨て、世間から離れてこのような修行は無理です。
また私ごとになりましたね。 続く