初めまして、いきなりですが質問が御座います。真言の寺で祖父母や叔父そして従兄弟のお施餓鬼をしましたが、いかがなものでしょうか?
 未だ成仏していない先祖がいると言われました。生前の苦しみに捉われているとのことで、感謝の思いを込めて自分自身の心を立て替えて安心していただける自分と生まれ変わる誓いを込めて祈りを込めて御施餓鬼をいたしました。 いけなかった事でしょうか?
あすら
2009/07/20 00:08
  [この記事は浄土真宗の教えからの記事ではないことを初めにお断りしておきます。]

 [A]

「いけなかった事」はありません。「お施餓鬼」 という真言宗の行事の作法でなさったのですから、 内容はともかくお盆の行事として昔から伝えられていることをなさった・・それがいけないという事は誰も言いえません。
有縁の方は皆成仏しているはずです。何故なら 「即身成仏」 した真言宗のお導師のお導きですから・

「未だ成仏していない先祖がいる」 と言われた事について・・・お坊さんのお言葉でしょうか? そうではなかろうと思います。 「生前の苦しみに捉われて」 などの言葉は仏教が権力側の統治手段として仏教教義を利用した歴史があり、その名残と思います。 真言宗の教えにはそのようなものは無いと思います。 但し、真言宗系統の新宗教にはあるかもしれません。 また、「OO0の泉」 みたいなテレビの娯楽番組など根拠の無い占いにもあるかもしれません。

ついでですから、そもそも 「お施餓鬼」 とはどんな行事でしょうか? お参りのお寺さんから既にお聞きになったことと思いますが、改めて私の立場から意見を言わせていただきます。

世間では人が死ぬと、初七日・2・7日(にしちにち)〜7・7日(49日、満中陰)・とお弔いをしますね。この間は皆さんが
お線香あげて、供養して(食べ物などあげて)死者は何とか旅を続けられるわけです。
ところが、49日過ぎて1年忌までは飲まず食わずなのだそうです。これが一般仏教の餓鬼の世界だそうです。
ですから、お盆になったら飲まず食わずの餓鬼の世界を旅するご先祖に栄養補給するのが「お施餓鬼」なのだそうです。

マラソンは競争社会ですから、勝負に拘るあまり飲み物補給を取りそこなう選手がいますね・ 私達の競争社会も冷静さを失うと欲しい物を取りそこなう人が沢山いますね。私も経験が沢山あります。
しかし冥途の旅は競争ではないから、まさかお坊さんのお供え物を取りそこなうこともないでしょう。

でもそんな世界は私には解りません。 それでは何のためにお葬儀に坊さんを呼ぶのか解りませんよ。それじゃー、坊主のお布施ブッタクリですね? 私なら例え冥途でも沢山の仏様のはたらきが、充満している世界でもありますから、タクシーを停めるように手を上げて別の乗り物に乗り換えますね。仏教には 「一乗・三乗の教え」 という乗り物がありますよ。

話が横にそれました。戻しましょう。  中国で出来た 『十王経(偽経とも言われますが・)』 というお経に書いてあるそうですが、 初7日、二・7日(にしちにち)、〜、七・7日(49日、満中陰)まで、7日ごとに違う裁判官が出てきて、生前の行いによって裁判を受けるのだそうです。 私は全部を読んだことはありません。でも大体のことは聞いております。 ですから残った人は死後、出来るだけ、いい世界に生まれさせてもらうようにと 「追善供養」 をするわけです。 有名なのが五・7日には 「閻魔大王」 が出てまいります。しかし「閻魔大王」は嘘を言ったら舌を抜く恐ろしい方ではなく、交通整理のお巡りさんみたいな仏様で、生前の行いによって行き先が決まっている者の道順を教えるだけという説もあります。

そしてこの7回の王様との出会いが終わったところを、「中陰期間が終わった」ということで「満中陰」といいます。49日過ぎて1年忌までは飲まず食わずなのだそうですから、これこれからが一般に言う餓鬼の旅です。淋しいですねー!

ただ、仏教では我々の世界を、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天と分けています。ご存知でしょう? これを六道と言って輪廻するといいます。 私達はこの六道をいつも輪廻しているとも言いますね。餓鬼も我々の世界の中にあるのではないでしょうか? そういう視点から施餓鬼も考えてみませんか? 地獄・餓鬼・畜生の三つを三悪道とも言います。

ここで一つご紹介したい真言宗のお経があります。
『不空羂索神変真言経』にのたまはく、「なんぢ当生の処は、これ阿弥陀仏の清浄報土なり。蓮華より化生して、つねに諸仏を見たてまつる。もろもろの法忍を証せん。寿命無量百千劫数ならん。ただちに阿耨多羅三藐三菩提に至る、また退転せず。われつねに祐護す」と。

これは『大日経』と言うお経の中の一部だそうです。 親鸞と言う方がその主著 『教行信証』 の中で紹介しています。
即ち、真言宗のご本尊である大日如来が 「死後は阿弥陀仏の世界に行け、私が守ってゆく」 と言われているのですが如何了解なさいますか?

この大日如来のお言葉を信じれば親兄弟、有縁の人が成仏していないはずがありません。
何故なら、『阿弥陀仏』は全ての衆生を救って捨てることが無いという誓いを建てておられるからです。また『阿弥陀仏』の救いの光は遮るものが無く地獄の底まで届くからです。これは通仏教では誰も否定しません。

要するに仏教の教えと言うものは聞く側の心の問題です。 凡夫がどんな言葉を並べても真実の世界は見えません。
仏教徒はその時代時代、場所により、条件により、如何に自分の人生を生きる糧に仏教を理解感得するかと言うことが最も大事なことです。 見えないことは闇の世界です。そこに仏の光を頂けば闇の世界は急に明るい世界に変わります。
それが 「お施餓鬼」 などの行事ではないでしょうか? お経も宗祖の教えも全て聞く側の心の問題です。
中国の諺に 「弟子の準備が出来たら 師匠が現れる」と言う諺があります。祈りより真剣に聞くことが大事なことです。

最後に、ご投稿の中に 「心を立て替えて安心していただける自分」 というお言葉がありますが、 これこそ『盂蘭盆経』の主旨です。 「盂蘭」 とは 「倒懸」 とも言われ 「逆さづり」 の意味です。 真実功徳の相から見ると、この転倒した姿が我々の日常です。これを立て直す「方便」として 「お施餓鬼」 などの 「お盆文化」 が生まれたものと思います。

お経も、お施餓鬼やお葬儀、ご法事の行事も仏教の教えを背景にした仏教文化と理解してください。高学歴の人ほど文脈や論理にとらわれて、「我」 に囚われるあまり 「個としての自分」 「真実の人間存在」 を見失いがちです。
仏教とは、 論理や科学で結論付けるものではありません。 それが不可思議という世界なのです。

長々と思いつくままに書きましたが答えになっていないかもしれませんが、またご投稿ください。