最近、清め塩・御焼香の作法(お辞儀や、回数など)・友引・忌明けなどの質問が非常に増えつつある感がします。住職のHPにそれらのしきたりや由来についてふれていただけると助かります。お時間がございましたらよろしくお願いします。
Pc 2009/06/04(木)11:54

A・先ず清め塩
浄土真宗系では清め塩は使わないとの申し合わせがあり、理由は 「死や死体は忌み嫌うものではない・」。と言う意見からだろうと思います。しかし、禁止というおふれを出すほど傲慢なものではないと思いますよ。
インターネットの「清め塩」を検索すると色々な意見があります。いずれの意見も誤りではなく、また正論とも言えないと思います。 これは長い歴史の中で形作られた一種の葬送文化です。文化は地方により時代のより変化があります。

そんな評論家ぶらないでお前は現場でどうしている?
と、問われれば、「私は死や死体は忌み嫌うものではないから門徒は使うべきではない・」 しかし、他の意見を間違いと思っても粗末にはしません。 真宗には 「信じなくとも粗末にせず(神祇不拝参照)」 と言う言葉も残っております。葬家の判断に任せます。何故なら、会葬くださる方には色々な宗教をお持ちの方もおられるからです。

ですから、清め塩を使わない葬家はその旨を 「会葬お礼のハガキ」 に書き込めば良いと思っております。
また、使う場合でもお塩の袋を別のザルに準備しておいて 「当家は浄土真宗の門徒なので使いませんが、必要な方はお持ちください。」と掲示すれば良いと思っております。

 御焼香の作法(お辞儀や、回数など)・

何事も歴史を重ねるとそれなりの 「作法」 と言うものが出来てくるのは歴史です。(お茶や華道など)
浄土真宗でも 「作法」 として決められておりますが、これもお他宗の信者さんに押し付けるものではありませんので、ご自分の流儀で会葬されて然るべきです。

因みに、浄土真宗お西では、お焼香は一回です。お東は二回です。 いずれも額に押し戴く事はしません。
理由は、焼香は死者にたむけることの意味を取りません。香りの良い雰囲気の中で仏様の前に出ることが仏徳讃だんの形になると言うことでしょう。 形は簡単に変えるべきではないと思います。
いまひとつ、良い香りの中で自分の生身の身体の 「匂い消し」 と言う意味もあるようです。 私は寺で法事をする場合、お堂に入ったら 「先ずお焼香が先」 と皆さんには申し上げます(お経の途中でしない)。但し、他の大寺院のご住職に 「それは間違い」 と指摘されたことがありますが、 どちらが正しいかは皆さんの意見を沢山聞いてみようと思っています。

参考までに、釈尊の説かれた『大無量壽経』に、念仏の広がりを例えて、イラン林(臭い木)に栴檀(香りの良い木)の実が一本育ち、終いにはイラン林の異臭が栴檀の香りに包まれて、林は栴檀の木に覆い尽くされる・という段があり、「香り」 と言うのは仏説の中で大事に扱われていることも付け加えましょう。

 お焼香の作法2

ここでは西本願寺流を取り上げます。
先ず、お焼香壇の二三歩前で一礼・ 左足からゆっくり進んで焼香・ 念珠(数珠)を両手の親指と人差し指に挟んで房を下にして念仏・礼拝・この場合、念珠を手のひらで揉まない(但しお他宗の方はそれなりに・)・ 右足より二三歩下がって遺族に一礼(会釈でよい・遺族との親しさにも因る)してさがる。 (大谷派では念誦の持ち方は親玉を親指で抑えてかけます。) 合掌の手の位置はみぞおちの辺り・ 顔の前でしない・ 礼拝は猫背にならないように腰からうえを真っ直ぐ伸ばして約30度・
これも門徒のたしなみとしての作法であって、一般にはあまり見苦しくなければ自由でいいと思います。
お他宗の方はその宗派の坊さんに聞いてください。インターネットでも紹介されています。
 
「相バサミ」

収骨の際二人で相バサミして骨壷に入れるのが一般的で、また職員の方がそのように進めているのが実際です。「浄土真宗は相バサミはしない」 と言う方もおられるようですが、浄土真宗にもその作法はありません。その由来もよく分らないのではないでしょうか? 知っている方は教えてください。 X教では相バサミはしないようです。 私的には 「悲しみは分け合って・・」 と言う意味であれば賛成ですし、「一人では気持ち悪い」 と言う人間の傲慢からのしきたりであれば、やはり考えを改めるべきかと思います。 また時間が許せば一人で何回収骨しても 「間違い」 とは言えないと思います。
いま一つ、火葬場の職員は喪主に聞くか、僧侶がいれば僧侶にどちらで進めるか?聞いてから。収骨するのが望ましいと思います。

次の頁続く

続き 「献杯」 や  「分骨」 について触れますが、私は両方とも真宗に作法の決まりはないとだけ記して、その他、次回続けて書きます。