昨日の続き

満中陰
というのが一般的ですね。
インドの古い考え方で、人生のスパンを4つに分けた 
「四有(しう)」 という考え方からきているようです。
「生まれた瞬間」・「生きている間」・「死の瞬間」・「死んだ後何処に生まれるか決まっていない期間」・の4スパンです。
これを順番に 「生有(しょうう)」・ 「本有(ほんぬ)」 「死有(しう)」・ 「中有(ちゅうう)」と呼んでいます。
この中有の考え方を仏教に取り入れて、期間を中陰期間と言い7日x7=49日間であり、それを終えて次の生まれ先が決まる日を「満中陰」というわけです。
さて、何故7日が7回かと言うと、当時インド(またはその西方域)では7進法を使っていたと言うことを聞きました。
今の日本では10進法ですね。また、時計は12進法です。今でも西洋のある国では12進法が生きているそうですよ。

7と言う数字はお経にも沢山出てきます。親鸞聖人も使っておられます。
不思議なことにx教の「天地創造」の初めに7日ごとに神が地球上のものを創ってゆきますね。今でも一週間は7日です。
学者によるインドと西洋文化の癒合の事まで話さなければならないのでこれは専門家に委ねましょう。
釋尊以前の文化の移入ですから、私には詳しく説明する資格がありません。

中国で出来た 『十王経』 というお経があるそうですが私は読んだことはありません。しかし、知識として概略は聞いたことがあります。 それは人が死ぬと7日ごとに生前の行為を裁く裁判官のような王が出てくるのだそうです。
有名なのは7x5=35日には 「閻魔大王」 が出てきます。そこで嘘を言うと舌を抜かれると子供の頃脅されたものです。
大体ここで死後の行く先が決まるようです。 そこで残った人達は死者が出来るだけいい世界に行けるようにと 「追善供養」 をするようになったのですね。
日本ではこの10人の王代わって10人の如来、菩薩が出てくることになっています。多くを書きませんが「阿弥陀如来」のお出ましは3年忌です。

そこで、浄土教の 「浄土真宗」 の立場ですが、生前念仏を唱えて、阿弥陀如来信じていた人は、娑婆の縁が尽きたその時に即、如来に収め取られますから、 この裁判を受けないわけです。浄土教ではこの49日間を 「三途の川」 と言ってこの川を飛び越えますから 「横超(おうちょう)」 と言います。 親鸞聖人の教えだと 「この世で私達は既に阿弥陀様の舟に乗せられているのだけれどもそれに気づかないで逃げてばかりいる」 と言われます。これに気づいてお念仏する人は「平生業(因)成(就)(へいぜいごうじょう)」と言って、生前から浄土の往生が決まっているものだと言います。
ですから、明日死んでも後は阿弥陀様任せですから安心してこの世を生きてゆけるわけで、生のエネルギーとなっているわけです。

そんなわけで私達「浄土真宗」忌明けとか年忌法要は亡き人への追善供養ではなく、阿弥陀(アミター)の世界に生かされる幸せに感謝する法要であるわけです。
因みに、サンスクリット語でアミターと言うのは無量或いは永遠と言う意味で、
アミターユス=無量のいのち、永遠のいのち
アミターバー=無量の光(智慧)
と言う意味で、 中国の三蔵法師がインドにお経を求めて旅した際、 インドの仏教徒が、「ナモーアミターブッダ・・・」と唱えていたのではないでしょうか? それを漢字に書き取ったのが南無阿弥陀仏になって今日に伝えられているのでしょう。
これまで書いたことはあくまで私なりの知識であって、専門的に正しいかどうかは解りませんが、聞き覚えたことを取り次ぎの意味で書いたものです。 誤字脱字があればご指摘ください。
明日は遺骨について