浦上天主堂

本尾町

浦上天主堂

現在の浦上天主堂

爆心地から北東500mにある。 浦上は16世紀戦国時代末からキリシタンの村であった。徳川幕府の弾圧が続き、近くは明治1年から4年の間に、浦上の信徒3414名が配流され(浦上四番崩れ)明治6年、禁教令の廃止まで帰村できなかった。 被災前の天主堂は、信徒の奉仕と献金により赤レンガを一枚づつ積み上げ、30年の歳月をかけて建てられ東洋一の大聖堂であった。

遺壁と首のない聖像

首のない聖像

浦上天主堂敷地内にはいくつもの、ものいわぬ被爆の証言者がいる。

悲しみの聖母像

悲しみの聖母像

聖堂の残骸の中に、傷ついた聖像、天使像もありました。悲しみの聖母像は指先がありません。現天主堂正面の右に、このマリア像が、左には、鼻が欠けた使途ヨハネ像が置かれています。また被爆時、この2体とともに南壁にあった、聖アグネス像は国連本部に展示されています。
原爆資料館には被災した天主堂の南壁が原寸模型で忠実に再現されている。

熱線を浴びた天使胸像

熱線を浴びた天使胸像

被爆した天使像の17体が新天主堂の外壁にはめこまれており、庭などに約20体ほどある。

破壊された旧浦上天主堂

原爆で破壊された旧浦上天主堂

被爆当時の教区の信者は約12000人、この内8500人が犠牲となった。
写真は天主堂下の銘板に・米陸軍病理学研究所返還資料と記されています。
辛うじて残った遺壁の1部は爆心地公園に移されている。中央下に今も残る鐘楼の残骸が見える

崩れ落ちた鐘楼

崩れ落ちた鐘楼

崩れ落ちた鐘楼(重量約50トン)は、そのままの場所で原爆の破壊の跡をいまにとどめている。当時、ここは川であり水をせき止めたという。
この鐘楼にあった鐘は破損したがもう1つの鐘は無事で瓦礫の中から掘り出され1945年のクリスマスにはこの鐘の音が浦上の住民を励ましたという。現在も天主堂右側の鐘楼で現役である。「長崎の鐘」である。

浦上天主堂の石垣

浦上天主堂石垣

浦上天主堂はキリシタン弾圧で踏み絵をさせた庄屋屋敷があった場所で、石垣は、少しづつ修復されてきたが、庄屋屋敷の時代から続いている。 石垣が反っているのは武者返しという造りである。

天主堂遺壁

天主堂遺壁

原爆によって浦上天主堂は数本の石柱と周りの壁が残された。この遺壁は爆心地の中心碑の横に移されている。


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