平和ガイドのコースに、如己堂と永井記念館がある。
如己堂は、永井博士が病の身を2人の子ととも暮らし、精力的に執筆を続けた、わずか2畳ほどの建物である。敬虔なカトリック信者であった博士は、如己愛人(己の如く人を愛せよ)との神の教えからこの名を自らが暮らしたこの狭い家に名付けた。
博士は島根の出身。長崎医大の助教授であった1945年、被爆。妻を失う。46年夏、発症、以来病床につく。博士は、被爆の惨状の中から、戦争の愚かさと平和への希求を発し続け、「長崎の鐘」「この子を残して」「原子雲の下に生きて」など編著作を発表。その一つに「いとしごよ」がある。
「いとしごよ」は憲法施行の翌年1948年10月に発表されている。この本の「鳩と狼」の章に以下の記述がある。
私たち日本国民は、憲法において戦争をしないことを決めた。憲法の第9条は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と決めている。どんなことがあっても戦争をしないというのである。
わが子よー。
憲法で決めるだけなら、どんなことでも決められる。憲法はその条文どおり実行しなければならぬから、日本人としてなかなか難しいところがあるのだ。どんなに難しくても、これは善い憲法だから、実行せねばならぬ。自分が実行するだけでなく、これを破ろうとする力を防がねばならぬ。
これこそ、戦争の惨禍に目覚めたほんとうの日本人の声なのだよ。しかし、理屈はなんとでもつき、世論はどちらへでもなびくものである。日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から、憲法を改めて戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ者が出ないともかぎらない。そしてその叫びが、いかにももっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけるかもしれない。
そのときこそ、・・・誠一よ、カヤノよ、たとい最後の二人となっても、どんなののしりや暴力を受けても、きっぱりと「戦争絶対反対」を叫び続け、叫び通しておくれ! たとい卑怯者とさげすまれ、裏切り者とたたかれても、「戦争絶対」の叫びを守っておくれ!
(永井隆著・いとしごよから抜粋)