立山防空壕(長崎県防空本部跡)


  長崎は、明治31年(1898年)に制定された「要塞地帯法」に基づいて、軍事拠点とされた都市です。ちなみに、この時、指定されたのは、東京湾、対馬、下関、由良、津軽、舞鶴、芸予、広島湾、豊予、佐世保、壱岐、父島などです)。   1944年、日本本土への空襲が頻繁になる中、町内会、職場、学校など市民の手で防空壕堀りが行われ、それは原爆投下の日まで続いています。丘陵に囲まれた長崎は、崖下や山腹に多くの横穴式防空壕が作られました。
   長崎県は諏訪公園の崖下にコンクリートで固めた防空壕を1945年3月に完成させ、県の防空本部にしました。壕中には、長官(知事)室、参謀長(警察部長)室、通信室、伝令室などが配置され、また通路でつながった防空監視対本部が設けられていました。
  原爆が投下されたとき、この場所から、その惨状が国の防空総本部へ送信され、また、救援救護の手配や県外への応援要請が行われました。

  ここは爆心地から約2.7キロ、間には旧市街と浦上地域を分ける金比羅山があり、爆心地の状況が直ぐには把握できず中央への第一報は、被害軽微と打電されました。
壕内には、解説展示パネルもあります。写真右は、補強工事の際、取り除かれた通路の仕切り壁の一部です。芯にに木材を使っており、木材の外側にモルタルを塗って壁がつくられていたことがわかります。
  この防空壕前には、その後、ユーホステルも立っており、崖は草が覆い、そこに遺構があることが忘れ去られていましたが、整備されて戦後60年秋から一般公開されている。



原爆投下後、防空総本部などに送られた電文

長崎県知事の原爆情報は、8月9日、爆発直後の第1報から、午後8時現在の第5報まで送られています。10日には第6、第7報、さらに14日付け、20日付け、27日付け、9月3日付けの第11報まであります。壕には当日の5報までが掲載解説パネルになっています。
電文中、第1報に被害軽微や落下傘附新型爆弾2個など随所に事実の誤認がありますが大混乱の中で段々被害の広がりがあきらかになるさまが伺えます。原爆は一個、落下傘はありませんでした。
第2報にある落下傘附爆弾三個は、ラジオゾンデ(原爆の爆圧等を測定し、グァム島米軍基地ヘ送信した計測器)です。このゾンデには当時、東大教授であった嵯峨根博士にあてたいわゆる原爆手紙といわれるものが貼り付けられていた(詳細後述)。
    防空情報(第1報)
1、本日1053敵B29二機ハ熊本県天草方面ヨリ北進シ島原半島西部橘湾上空ヲ経テ長崎市上空ニ進入1102頃落下傘附新型爆弾二個ヲ投下セリ
2、右爆弾ハ広島市ヲ攻撃セルモノ小型ト認メラレ負傷者相当アル見込ナルモ広島ノ被害ニ比シ被害ノ程度極メテ軽微ニシテ死者並ニ家屋ノ倒壊ハ僅少ナリ。
        追而、県庁員幹部ニ死傷ナシ
    防空情報(第2報)
敵機ハ長崎市ヲ爆撃セル後1130頃北高来郡戸石村北方5粁ニ地点ニ落下傘附爆弾三個ヲ投下セルガ内一個ハ高度1000米ニ於テ炸裂シ二個ハ不発ニ儘同村山林内ニ落下セリ尚洞時刻頃東彼杵郡川棚町上空ニ於テ更ニ落下傘附爆弾二個ヲ投下セルモ海中ニ落下セル為被害ナキ模様戸石村ノ被害ハ判明セザルモ調査中ナリ
    空襲被害情報(第3報)
本日ノ長崎市空襲被害状況15時現在左記ノ通ニ有之
                記
1、12時30分頃ヨリ市内各所ニ火災発生シ目下長崎駅前、大黒町、台場町、五島町、元船町、下筑後町、東上町、八千代町、西坂町、銭座町、稲佐町、竹ノ久保町、外浦町、大村町一帯火災発生延焼中ナリ
2、15時現在迄焼失セル主ナル建物左ノ如シ
長崎県庁、長崎地方裁判所、長崎区裁判所及同検事局、長崎日報社、西日本新聞支局、長崎医科大学
3、尚八千代町ヨリ以北浦上一帯ノ被害ハ相当死傷者アル模様ニシテ火災発生尚延焼中ニシテ詳細調査中
右及申報候也
    防空情報(第4報)
本日敵ノ投下セル落下傘附新型爆弾ハB29二機高々度ニテ投下シ長崎市上空ヲ浮流シツツ降下シ高度500米位ニテ炸裂シタルモノト認メラルルガ其威力ハ概ネ左記の如ク判断セラル
                記
1、炸裂ノ瞬間強度ノ白色仄光ヲ発シ仄光アリテ10秒位ニシテ大爆発音ト共ニ強烈ナル爆風ト熱風ヲ生ズ
    空襲被害情報(第5報)
本日20時現在判明セル長崎市空襲被害状況左記ノ通ニシテ其ノ被害ハ殆ド全市ニ及ビ特に長崎駅前以北浦上一帯被害甚大ニシテ敵ノ投下セル新型爆弾ハ二個ト認メラレ既報ノ如キ強烈ナル威力ヲ有シ広島市ニ於テ使用セルモノト同一爆弾ト思料セラル
                記
1、死傷者 死傷者ハ約50000人位ト認メラルルモ目下救護中ニシテ正確ナル調査困難ナリ今後尚増加ノ見込死傷者ハ何レモ火災ニ依ルモノニアラズシテ爆弾炸裂ニ依ル爆風弾片火熱ニ依ルモノナリ

    ラジオゾンデ
ラジオゾンデにつけられ嵯峨根博士に送られた原爆手紙の差出人は「嵯峨根氏が米国滞在当時の3人の科学者の友より」となっていた。 戦後に、この友人が誰であるかは判明した。内容は、「米国は原爆を開発し日本を破壊することは容易にできる。戦争が長引けば日本のすべての都市が破壊される。すぐれた原子核物理学者である嵯峨根博士が政府にこのことを理解させ降伏を勧めてください」というようなものであった。このゾンデの円筒部が原爆資料館にある。

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