被爆直後、瓦解を免れた国民学校校舎の多くが、救護所となりました。特設救護病院として使用された新興善小学校校舎は現在の市立図書館の場所にありました。学校統廃合で取り壊されましたが、救護所が再現されています。
被爆直後の救護所の様子は悲惨なものでした。「教室にも廊下にもいたるところにムシロが敷かれ多くの被爆者が寝かされていました。
息もたえだえの人たち、ある者はうなり、ある者は悲痛な表情で泣き叫ぶ、全身焼けただれ半裸のまま這いまわっている女性、頭髪がやけこげ背中にうじがうごめいている男性、そんな人たちであふれかえり」「次々に亡くなり、前の女子商業の焼け跡で火葬したが、その火は九月下旬頃までたえることがなかった」「消毒薬さえなく港から海水を汲んできて煮沸して使った」など、救護に携わった看護師や医師の体験が廊下に展示されています。
日本軍の魚雷製作の拠点であった「三菱兵器製作所」は、戦争末期に航空機用九一式魚雷を作っていた工場を疎開させるために、トンネル工場をつくりました。
住吉の一、二号トンネルでは三菱の工員とともに、女子挺身隊、勤労学徒が昼夜交代の作業に従事していました。四、五号トンネルは強制連行された朝鮮人労務者が掘削中でした。
原爆投下によって、爆心から二・三`のこの場所でもトンネル内外で多数の作業員が爆風・熱線・放射線を浴び被爆しました。被害状況は今に至るも、正確には明らかではありません。傷を負わなかった人たちは、ただちに三菱兵器大橋工場などにも派遣され救護にあたりました。トンネルには、近くで被爆した人々も続々と逃げ込んできて、身動きする隙間もなく、まさに地獄のありさまだったそうです。