「五足の靴の足跡を訪ねる旅」の誘いに、喜んで天草・熊本の一泊旅行へ参加した。
「五足の靴」は今から100年の昔、明治40年(1907年)8月7日から9月10日にかけて東京二六新聞に掲載された 五人づれの紀行文の題名である。五人づれは、新詩社「明星」主宰の与謝野寛と、その若き同人、北原白秋・太田正雄(木下杢太郎)・吉井勇・平野万里である。
旅は、安芸の宮島を皮切りに下関を経て、九州に入り福岡、佐賀、長崎、熊本の四県をまわり、紀行文は帰京の途中の京都で終わっている。
今回のバス旅行は、五人が訪ねた大江天主堂がメーンである。口之津からフェリーで天草の鬼池港へ渡り、天草灘を望む西海岸をすすむ。「五足の靴」は、長崎茂木港から天草富岡港に渡っている。彼らは富岡から八里の山道を徒歩で大江村に向かった。その山路の一部が文学散歩道になっている。この間の紀行文は、(「蛇と蟇」「大失敗」「大江村」の章に描かれる)
富岡には、かつて堅牢豪華な城が築かれていた。天草を飛び地として領した唐津領主・寺沢某が身の丈を超えるこの築城をした為に、苛斂誅求の重税を課し、天草の一揆が引き起こされたのだという。一揆は怒濤の勢いであったが、唯一この富岡城を落とすことができずに、ついに、島原の廃城、原城に立てこもることになった。島原側の事情も似たり寄ったり、身分不相応の築城が重税の元になっている。その後に富岡城は、廃城となり、城の瓦は長崎奉行所立山役所の瓦に使用されている。
一行は道を間違えるなどして夜道を大江村に着く。翌日、大江教会に「パーテル」さんを訪ねる。「パーテルさん」は村人が敬愛をこめて神父さんをこうよんだ。パーテルはポルトガル語パードレがなまったもの。江戸時代には伴天連とよばれた。
この時、彼らが会ったパーテルさんは、フランス人のガルニエ神父である。禁教令の時代、潜伏切支丹の里であったこの村に、ガルニエ神父がきたのは明治25年、32歳の時。昭和16年82歳で亡くなるまで49年をここで過ごした。現在の天主堂は神父と信者の協力で昭和8年建てられたと言うから、五人づれが見た御堂はもっと質素なものだったろう。ガルニエ神父は、大江に赴く前には長崎・伊王島教会に居たこともある方だ。
教会は山の中にあり、近くに潜伏時代を示す資料館があった。天草のバス旅行の最大の収穫は天草灘の美しい眺めである。天草勢と島原勢が談合したという談合島を眺めながら重税に抗してたたかった一揆衆を思い、重税との闘いを仕事の柱の一つとしてきた我が人生を振り返る旅でもあった。
長崎市内・樺島町のあまり目立たない場所に「五足の靴碑」が建っている。碑文には、概略「与謝野鉄幹一行が、この地の上野屋旅館に宿泊し、帰京後、紀行文「五足の靴」を発表、南蛮趣味文学の先駆をなした」とある。(五足の靴の時代、鉄幹の号は既に使用していなかったはずであるが)
横の説明版には、与謝野鉄幹の歌として「長崎の円き港の青き水ナポリを見たる眼にも美し」があり、平戸から天草を訪れる五人づれが、途中長崎に来た折りに詠んだものとあり、宿泊した上野屋旅館が現、長崎地方裁判所(万才町)の近くと説明されていた。
「五足の靴」はそれぞれに訪れた順に、その印象などに触れているのだが、不思議と長崎は欠落している。長崎県下では、文脈から、単に通過点だったが船が出た後でやむを得ず宿泊したと思える佐世保の印象も一話をなしている。目的地の平戸や島原の記述は当然の如くある。例え平戸の次の目的が天草であり、長崎が単に通過点であったとしても、(紀行の端々に現れる文言や、切支丹・南蛮への興味からみても、また掲示板の与謝野鉄幹の歌がそのときの作ならば、単なる通過点ということは、決してあり得ないだろう)長崎が飛ばされているのは、いかにも残念である。
「五足の靴」は、9話が「平戸」である。平戸からは夜半に汽船がでるとある。次は10話「荒れの日」である。荒天の中、茂木から天草へ渡る船旅の様子。冒頭部分に乗合馬車で2里の山路を茂木に向かったことが記されている。長崎の記述はわずかにこれのみ。平戸から長崎へ来て宿泊したことだけはわかる。
次に長崎が紀行文に登場するのは、17話「熊本」の中に次のくだりである。「名も知らぬ石橋を渡ろうとしたとき、M生は突然、『実に長崎ににているなあ。』と叫んだ。多くの氷水の露天が並んでいる辺、洋館めいた家が立っている辺、一寸髣髴としてその面影を忍ぶ事ができる。長崎。長崎。あの慕かしい土地を何故一日で離れたろう。顧みていい知らず残り惜しい」これだけでは、残念だが長崎のどのあたりを歩いたかは不明である。
長崎が具体的に語られているのは、はるか長崎を離れ、27話「京の朝」の後半である。
それによると「長崎」が欠落したのは、長崎を書く担当であったK生が懶けた為であるという。京の朝の中で、I生は稲佐の遊郭を歩いたことが記されている。
さて、五人ずれのそれぞれがその後に発表した、この旅で詠んだ歌や回想などで、諏訪神社や浦上天主堂、丸山も訪れていることが確認できると、随分と以前に何かの本で読んだ記憶があるのだが。
私は、詩・短歌とはあまり縁はないが、与謝野寛や吉井勇、北原白秋、木下杢太郎の名はあまりに有名である。是非、長崎紀行を残して欲しかったと改めて思った事である。
黄檗宗の寺、聖福寺の庭にはジャガタラお春の碑があり、吉井勇の「長崎の鶯は鳴くいまもなほ じゃがたら文のお春あわれと」が刻まれている。南蛮趣味の旅というから、ひょっとしたら、この寺にも寄ったのかもしれないなどと想像するのも面白い。
五人づれが訪れた稲佐は、かつてロシアとの交流で栄えた地域である。彼らが稲佐を歩いた明治40年は、日露戦争の後である。賑わいが失われた町の雰囲気が伝わってくる。それでもロシアとの交流のあったことを示すロシア語の看板にも触れている。稲佐遊郭の印象は短い文章と詩になっているから是非ご一読を。
当時のこと、きっと稲佐へは大波止から連絡船で渡ったことだろう。船着き場から遊郭への途上か、着いた後かは別に、外人墓地を挟んだ悟真寺には立ち寄ったのではあるまいか。
悟真寺は、16世紀末に創建された長崎に現存する最古のお寺である。キリスト教全盛の中で創建者、聖誉上人は岩窟に隠れて布教をしたと伝えられています。唐寺が建つ前には唐人さんの菩提寺になっています。寺の後背地は、唐人墓地、オランダ人墓地、ロシア人墓地が固まってあり、他にもポルトガル人、英、米、仏、独人の墓所もあり文字どおり国際墓地になっている。
山門は幕末のもので明治の中頃、改修されたとあるから、五人づれは、この山門を見たのだろう