今年2月、肌寒く小雨の降る日でしたが、最初に立ち寄ったのは「天草キリシタン館」。生憎、カメラをバックに入れたままでバスに置いてしまいました。
展示は充実していて、もっとゆっくりと見学したかったのですが「日帰り旅行」ゆえ、駆足見学。正式名「綸子地着色聖体秘蹟図指物」。一般には天草四郎陣中旗(国指定重要文化財)が最初に目に留まります。血痕跡や刀・槍の傷跡など激戦の様子を連想させます。(当日の展示は残念ながらレプリカでしたが)。島原の乱の陣中図屏風も見ごたえがありました。
崎津地区は小さな漁村でした。この地にキリスト教がもたらされたのは、長崎開港より早く1569年にはアルメイダ神父によって教会が建立され、ここから天草地方の布教が広がりました。
天草に禁令の嵐が始まったのは1638年、以来、潜伏時代は7人の世話役(「水方」と呼ばれていました)を選び、漁村特有の形態で信仰を継承してきました。
静かなたたずまいの集落の中心に崎津教会の尖塔が見えました。
ゴシック様式の現在の教会は、1935年、大浦天主堂なども手がけた長崎の鉄川与助の作です。明治以降では3代目だとか。当時のハンブ神父の希望で、禁令時代に絵踏みが行われていた庄屋役宅跡に建てられ、祭壇のある場所がまさにその場所であったと案内にありました。中は珍しく畳敷きになっていました。
教会横の壁の色が違うのは、材料の違いです。当時、資金難でしたが信徒自らの力でと半分を木造にしたんだそうです。
諏訪神社は漁港の山手にあります。1685年の銘がある鳥居の間から、集落の中心部にある教会が見えました。
この神社は潜伏キリシタンもお参りしていましたが、心で「オラショ」を唱えていたとか。文化12年(1805年)に集落の7割が潜伏キリシタンと発覚した天草崩れの時には、代官所は異物取調べに、境内に箱を設置して、信仰具を捨てさせたと伝えられています。
諏訪神社境内で「富津血税運動記念塔」なる碑を見つけました。一揆発祥の場でもあったんですね。碑文は次のように述べています。「明治6年6月14日、この境内から生活と人権を守る血税運動を起こして命を落とされたり阻害された人々の名誉を回復し、平和と安定を望み、その歴史を後世に正しく伝えんが為、関係地にこの碑を建立奉納するものである」
血税運動(血税一揆とも)は政府の徴兵制の布告に反対して立ち上がった運動です。布告に血税の文字があり、本当に生き血を取られると誤解したとの説もあるようですが、明治新政府は、次々と国民への公租負担を強めており、徴兵は働き手を失う新たな負担となった事から、これに反対して起こったものです。
現在は血税と言えば「過酷な税金」「血の滲む思いで納付した税金」の意味ですが、安倍内閣の改憲策動が進めば、やがて再び兵役をさす言葉として復活するかも