長崎には切支丹と関わる伝承民話が多い。金鍔治兵衛は実在した修道士です。治兵衛は、貧しい切支丹の家に生まれ、1608年、6歳で有馬のセミナリオ(初級学校)に入学。12歳でマカオのコレジオ(上級神学校)に留学。神父トマス・デ・サン・アウグスチノとなり日本に帰ってきたのは30歳の時です。この間、日本の状況は様変わりし、禁教令の中、切支丹弾圧の嵐が吹き荒れている中でした。
彼は、戸町の岩窟に潜み、風のように町にあらわれ布教をしてまわり、また去っていくという巧みな活動を続けました。町に現れるとき、彼は武士の姿をして腰には金の鍔の刀を差していました。それで彼は「金鍔治兵衛」と呼ばれました。治兵衛の神出鬼没ぶりに、「金鍔は不思議(魔法)バ使う。波の上バ高下駄はいて歩いてくるゲナ」と噂されたそうです。
「金鍔が西彼杵の戸根に現れた」という評判が立ったのは1635年、時の長崎奉行・竹中采女正(切支丹弾圧に辣腕を振るい雲仙の地獄責めを考案したともいわれています)は、大村、島原、佐賀の各藩に命じて大捜索をおこないました。西彼杵半島の北端、横瀬と面高の間に一人一歩の間隔で横に並び山狩りを始め、南に向かい夜は明々と篝火を焚き不寝番をたてる厳重さでした。35日かけて長崎渕村まできましたが、網にかかったのは治兵衛の世話をした男が一人だけというありさまでした。これは寛永の「山関」と呼ばれました。このとき、治兵衛は江戸城深く入り込み将軍家光の側小姓に伝道してたというから驚きです。しかし、さしもの次兵衛も山関の翌年、訴人によって縛につきました。彼を捕えるために30万両もの費用を要しました。金鍔治兵衛は西坂で過酷な拷問で殺され、その死体は伊王島沖に石の重しを着けて投げ込まれたといいます。35歳でした。トマス金鍔治兵衛は2007年、ローマ法王庁によって、福者に列せられました。写真は金鍔が潜んだ洞窟跡
「金鍔」は、いま、戸町切通しを過ぎ、戸町3丁目のバス停にその名をとどめている。バス停のほぼ真上に洞窟あとがあり、中にはお地蔵様や観音像などが沢山祭られている。洞窟前は真照寺・長崎西国八十八ヶ所の二十四番札所になっています。